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甍(いらか)四十九

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いつからだろう素直になれないのは
真っ直ぐにそう真っ直ぐに向かえばいいというのに
右に左に心は揺れる
空回りして落ちた魂が無造作に転がって
息を切らせて駆け上がった日々を想う
手の中の汗がまるで何より大事なもののように
握った拳を開けぬまま
指切りげんまん針千本
幾度も潜り抜け何度も遣り過ごした
あの桜がまた咲くだろう


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五書と五戒の関係 ~無法地帯での正義~

泥酔、泥棒、泥沼、泥仕合、雲泥の差、どろどろ、泥濘に足を取られる、泥濘にはまる、、、
泥という言葉にはあまり良い印象はない。見た目もあまり良くない。
泥に喜ぶのは泥団子を作る子供くらいだろう。
私は子供時代にたっぷりと泥遊びをした派だ。
泥をペタペタと叩くことにはどこか心地良さがあった。
また初めて造形を教えてくれたのが泥であったような気がする。
砂だけでは形にならないけれども、そこに水を加えると形あるものを作ることが出来る。
その水加減が大事だということを子供達は経験から学び取る。

だからなのか何なのか、休日にだらだらと眠った後、私はいつも何気にこの言葉を思い出す。「泥のように眠る」
泥のように眠るとはどういうことなのか?
泥(でい)-南海にいるという骨のない蟲。
水があるとぴんぴんしているが、水が無くなると泥(どろ)の一山のようになってしまうそうだ。
泥のように眠るもここからきているようだ。
泥酔という言葉はまさにこの泥(でい)が由来。
杜甫の詩に「酔如泥」、李白の詩には「醉似泥」という一説がある。
どちらにしても中国由来の言葉である。

『死の棘』を映画化した小栗監督は宮本輝の小説『泥の河』も映画化している。
小栗監督が一番最初に撮った映画がこれだったようだ。

あらすじは この辺りこの辺りを参考にどうぞ。
主人公の少年2人が出会うシーンはこちらを
河には「お化け鯉」がいる。普段は見えないが時々姿を現す。
この小説では「お化け鯉」が2人にとって重要な生き物となっている。
2人を結びつけた秘密であり、嘘の化身でもあり、人を殺めた生き物でもあった。
小説の最後はお化け鯉で終わり、映画の最後はお化け鯉が消されていた
ゴカイ(沙蚕)も誤解を思えばなかなか憎い存在だ。


この小説にも戦争の影が横たわっている。
そして様々なものが対比的に描かれている。
その対なるものを結び、あるいは隔てるのが、「結界」である。
結界の象徴は「河」、つまり「舟」であり「橋」であり「渡し」である。
幽霊とお化けは同じようで違うのだ。
その差は何かと言えば、大人と子供、夜と昼、現実と幻想、フィクションとノンフィクション、任侠と暴力団(愚連隊)。
結界がなくなり両者が迂闊に交われば、あのゴカイ汲みの老人のように引きずり込まれてしまうかもしれない。

お化け鯉は刺青がモチーフなのではないだろうか?
女(舟の少年の母親)の上で蠢いていた男の背中に刺青があったことに繋がっていく。
刺青のモチーフにはよく鯉が使われる鯉は英語でCarp(カープ)。広島カープまではさすがに考えすぎか。
ゴカイも遠目で見ればどことなく刺青の模様に見えなくもない。
ここで新たに「鯉のぼり」と「お化け鯉」の対比が浮き彫りになる。
それはまた「恋」と「来い」、「請い」と「故意」の対比なのかもしれない。


誰かの希望は誰かの絶望でもある(誰かの絶望が誰かの希望になることもある)

東日本大震災の際のこの津波映像を見た時、目に見えるということは残酷だと思った。
映像に映っている女性はおそらく助からなかったのだろうと思ったから。
撮影者が意識的にそうしたのかは分からないが、津波の到来とともに被写体から外れていったこともそれを予感させた。
死を見ることと、死を聞くことは違う。
死に直面することと、死をぼんやり想像することも違う。
死の中心部と、死の周辺はやはり違う。

目に見える残酷さや悲しみはダイレクトに伝わりやすいが、目に見えない残酷さや悲しみを実感することは容易いことではない。
両者は同じようでいて同じようではない。
フィルターの有無が同じであるならばフィルターは必要ないであろう。


随分後になってから助からなかっただろうと思っていたその女性が助かっていたことを知った
それは私にとってもとても嬉しい出来事だった。希望を形にして見たようだった。
しかしそう感じられるのは私が部外者だからかもしれないとも思う。
その女性がインタビューで語っていた「気持ちが萎える時には体が沈んでいく」という言葉が心に残った。

死を見て、死を聞いて、死を語ることは、非常にエネルギーのいることだ。
エネルギーを吸い取られることと言ってもいいかもしれない。簡単なことではない。
吐き出すだけでエネルギーが補充できなければ、それこそ萎えたり枯れてしまう。

でも目に見えるものは気が付きやすい。人目を引きやすい。希望も絶望も伝わりやすい。
では目に見えないものは?
津波(水)は見えても人間や動物はそうそう見えないものである。
目に見える映像の津波(水)の中には、目に見えない命がどれほど埋もれていたのだろう。
黙止できない事態。
黙視できない撮影者。
目視できない没した命。
黙示録。

by yumimi61 | 2014-06-12 16:10