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甍(いらか)百四十九

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安田財閥創始者・安田善次郎は富山県の出身。
今でも「越中富山」という呼び方が残っているが、廃藩置県で富山県になるまえが越中国であったからである。
越中は戦国大名による強い支配政権が成立していなかったため権力闘争など内戦がたびたび勃発した。
この内戦は隣接国の戦国大名である上杉謙信と武田信玄(一向一揆)の代理戦争のようでもあった。
(一向一揆は浄土真宗本願寺教団の信徒が起こした数々の一揆)
武田信玄が亡くなると、双方ともに越中に興味が無くなり争いは自然と収束していった。
その頃、越前の一向門徒に戦いを挑んだのが織田信長である。
これを脅威に思った越中の旧武田派や浄土真宗の僧・本願寺顕如が上杉謙信頼みとなり、越中は上杉の手に落ちた。

今度は越中を巡って上杉謙信と織田信長が戦うようになる。
上杉側が勝利するも謙信が亡くなると上杉側の内紛勃発 ⇒ その間に織田側が侵攻し勢力拡大 ⇒ 織田信長が本能寺の変で死ぬ ⇒ 織田側の佐々成政が越中を統一 ⇒ 織田家の実権争い(柴田勝家・織田信孝vs羽柴秀吉・織田信忠の遺児の秀信) ⇒ 佐々成政は柴田側に付き秀吉(元織田家臣、後の豊臣秀吉)と対立 ⇒ 北畠家の養子になっていた織田信長の次男が織田姓に復活し秀吉側に付く ⇒ 勝家が秀吉に敗れて死ぬ ⇒ 成政が加賀・能登の前田利家(秀吉側)と戦う ⇒ 秀吉の大群が富山城に立てこもった成政を包囲し降伏させる ⇒ 越中の大半は前田に与えられた ⇒江戸時代初期には越中全域が前田領となった ⇒ 後に加賀藩の支藩として富山藩が置かれたが大半は加賀藩領であった ⇒そのまま廃藩置県を迎えた

徳川家康は自らを清和源氏新田氏流と称していた。
徳川家康のルーツは群馬県にあると言われている。
それはともかく家康は松平家から出された人質として大名家を転々とする子供時代を送っていたが、成長して織田信長と同盟関係を持つようになる。
元々の領土は現在の愛知・静岡あたりで、山梨・長野方面へも進出した。
織田信長没後に勢力拡大した豊臣秀吉と戦い勝利するも平和的に講和を結ぶ。
この後に、秀吉と対立していた越中の佐々成政が自ら冬の北アルプスを越えて、「再度挙兵を!」と家康を説得しに行くも願いは叶わなかった。
(これを「サラサラ越え」と言う。冬季の北アルプスを本当に越えられたのか?山岳ガイドが付いていたということだけれども、これは伝説の域をでないだろう。それほどの覚悟を持って臨んだ面会だったということで。そのルートにはザラ峠という場所があり本来ならば「ザラ越え」や「ザラザラ越え」と呼ばれるべきだが、「サラサラ越え」として後世に伝わっていることもそれが簡単であったことを示唆している。連合赤軍の妙義山越えも・・。春の小川はサラサラ行くよ~♪)
秀吉の異父妹を妻にした家康は岡崎城(愛知)でマイペースに暮らしていたが、秀吉から母子が人質として送られてきた(私に面会に来なさいという催促。面会に出向くと言うことは巨下として従うことを意味していた)。
仕方なく豊臣秀吉に会いに行き忠誠を約束した。
秀吉からは関東への領地替えを命じられて、住み慣れた愛知を離れてのお引越し。豊臣秀吉政権下の最大領地であった。
秀吉が没した後には天下の覇者となり、長く続いた江戸時代の礎を築いた。

越中富山は「売薬」で知られている。
エボラ出血に効果があるとされる薬を開発したのが富山化学工業(富士フイルムグループ)であった。







国政と大学の切っても切れない関係

戦時中に行われた医師養成作戦。
1.1.1940年(昭和15年)5月に七帝大六医大に対して行われた、臨時医学専門部の設置。
2.1943年(昭和18年)10月の非常臨時措置による医学専門学校の新増設。 
3.1944年(昭和19年)4月から始まった歯科医師を対象とする医学教育課程の設置。
4.1945年(昭和20年)4月に始まった歯科医師を対象とした「医師試験前講習会」による医師養成と歯科医師対象への「医師試験」による医師免許付与。


昨日も少し触れたが、おそらく1は第一線に出向く軍医(戦争要員)として養成されたのではないだろうか。
2は戦後を見据えての育成であったように思う。また状況次第ではさらなる即席養成や医学生を第一線に派遣することも考えたかもしれない。
3.4は従軍ではなく国民を診る医師不足に対応するためだったのだろう。(戦後、1と同様にこの制度も廃止されている)

1の臨時医学専門部の定員は1校1学年150名ほどだったそうだ。(現在の医学部定員よりも多い)
13の大学(帝国大学7、医科大学6)でそれぞれ養成されたので1回の入学で1950名の医師(第一線で働ける下級軍医)が誕生する。
当時軍の1つの連隊の軍医定員は10名だったそうだから、およそ200連隊分をカバーできる。
5名ずつの供給にすれば400連隊分となる。


医科大学に序列があるならば、当然軍の連隊にだって序列があるに違いない。
そこで少々調べてみた。
戦争の基本の基は陸軍の歩兵隊であろう。

【陸軍歩兵連隊】
歩兵第1連隊―1871年創立・編成場所は防衛庁(現在の東京ミッドタウンがある所)・愛称は頭号連帯
歩兵第2連隊―1871年創立・編成場所は宇都宮(所在は佐倉と宇都宮)・1944年11月に玉砕
歩兵第3連隊―1871年創立・編成場所は麻布(所在は東京・高崎・新発田)・愛称は麻生さん麻布三連隊
歩兵第4連隊―1871年創立・編成場所は仙台
歩兵第5連隊―1874年創立・編成場所は青森
歩兵第6連隊―1874年創立・編成場所は名古屋
歩兵第7連隊―1874年創立・編成場所は金沢
歩兵第8連隊―1874年創立・編成場所は大阪・弱いことで有名で石原慎太郎氏もそのような発言をしたとか
歩兵第9連隊―1874年創立・編成場所は京都(所在は大阪・大津・伏見)
歩兵第10連隊―1874年創立・編成場所は岡山(所在は大阪・姫路・岡山)
歩兵第11連隊―1875年創立・編成場所は広島
歩兵第12連隊―1875年創立・編成場所は丸亀
歩兵第13連隊―1875年創立・編成場所は熊本
歩兵第14連隊―1875年創立・編成場所は小倉
歩兵第15連隊―1884年創立・編成場所は高崎(所在は日本・満州・パラオ)

明治初期に旧武士階級であった士族が明治政府に対して反旗をひるがえした。
いわゆる「不平士族の乱」「不平士族の反政府活動」である。
不平不満を持ったのは倒幕を成し遂げた薩摩藩や長州藩など有力勢力の士族であった。
江戸幕府を倒して新政府を樹立したのにいったい何が不満だったのかといえば・・さらなる高みを目指したのではないでしょうか。
明治時代は「四民平等」「廃藩置県」などが行われ、あたかも古い封建制度からの脱却を図ったように見える。
しかし別に封建制や階級社会が嫌だったわけではなかった。みな自分が上に立ちたいという野心を強く持っていた。
1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を中心とした士族による反乱が勃発した。これが最大かつ最後の「不平士族の乱」となった。これを西南戦争という。今のところこれが日本の最後の内戦である。
きっかけは西郷が鹿児島県全域に創設した私学校であった。これも追いつけ追い抜けの精神による強兵政策であった。
西郷は「四民平等」「廃藩置県」を打ち出した大隈重信とは対立関係にあった。
その大隈は伊藤博文と対立関係にあった。ややややこしい。
伊藤博文(帝国大学)×大隈重信(早稲田大学・慶應義塾大学)×西郷隆盛(地元の私学校)

明治政府は西南戦争後に軍備拡大に動いた。西南戦争がきっかけを与えてやったとも考えられる。
欲と陰謀の渦巻く世界。今も昔も変わらずか。
歩兵第15連隊以降は西南戦争後に創設された連隊である。
歩兵第15連隊は群馬県高崎市にて創設される。日清戦争、日露戦争、満洲事変、上海事変、支那事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)とほぼすべての戦争に参加した。
第16連隊の新発田編成チームもすべての戦争に参加している。


歩兵第100連隊前後から後の連隊は支那事変(日中戦争)に合わせて創立されたものであり、250連隊以降は第二次世界大戦末期に創設されたものである。
第二次世界大戦末期には500連隊以上にも膨れ上がっていた。
これに軍医を同行させるとなると、やはり軍医にもそれなりの頭数が必要であったであろう。


ちらつく歴史の影

こんどは陸軍の飛行連隊について。

【飛行連隊】・・・支那事変(日中戦争)勃発の1937年より名称も飛行戦隊となり本格仕様に。
飛行第1戦隊―1938年創立・編成場所は各務原*(岐阜県)・通称は威8301
飛行第2戦隊―1938年創立・編成場所は各務原(岐阜県)・通称は威11614
飛行第3戦隊―1938年創立・編成場所は八日市(滋賀県)・通称は威18967
飛行第4戦隊―1938年創立・編成場所は芦屋町(福岡県)・通称は天風35001
飛行第5戦隊―1938年創立・編成場所は立川(東京都)・通称は天鷲15310
飛行第6戦隊―1938年創立・編成場所は平壌(朝鮮)・通称は隼魁9102
飛行第7戦隊―1938年創立・編成場所は浜松(静岡県)・通称は靖211202
飛行第8戦隊―1938年創立・編成場所は屏東市(台湾)
飛行第9戦隊―1938年創立・編成場所は会寧(朝鮮)・通称は隼魁9103
飛行第10戦隊―1938年創立・編成場所は嫩江(満州)・通称は誠9624

*「各務原」という名称は珍しくすぐには読めないが、「かかみがはら」と読むとのこと。
岐阜県南部にある市である。御嶽山の噴火の犠牲者の中に各務原在住の方(丹羽玲子さん・61)がいた。

第二次世界大戦中、陸軍には100前後の飛行戦隊が存在した。

海軍にも空の戦隊がある。こちらは航空戦隊という。
海軍連合艦隊の下位部隊として航空艦隊を置き、その中に幾つかの航空戦隊がある。
航空艦隊は第二次世界大戦中に創設され、14の航空艦隊が存在した。

第二次世界大戦というと、神風特攻隊が非常に有名であるが、これは海軍の特別攻撃隊である。
海軍も陸軍も戦況が悪化すると特攻隊を編成し、陸軍は「特別攻撃隊」、海軍は「神風特別攻撃隊」と名付けた。
こちらに載せた『ユキは十七歳特攻で死んだ』 ー子犬よさらば、愛しきいのちーという本の主人公の少年(群馬県出身)は陸軍の特攻隊であった。

1944年10月21日、海軍によって初出撃が行われた。
以後、断続的に終戦まで続けられた。
向かうは沖縄海域で、九州各基地から飛び立ったが、陸海軍ともに鹿児島の特攻基地からの出撃が多かった。
鹿児島(薩摩)と言えば西郷隆盛なのだが、薩摩藩や西郷家は台湾やアメリカを巻き込んで琉球と因縁深い関係を持っていた。


大量促成栽培のその後

空の戦いを担ったのは若者だった。
~~~飛行機を操る航空兵には若く健康で賢い少年がぴったり~~~
そんな噂をイギリスからの聞きつけ、日本でも1930年代に飛行学校が開校され、少年飛行兵(陸軍)や少年航空兵(海軍)になるべく訓練生が集められた。
兵部隊よりも階級の上がりや待遇が良く、士官学校よりは受験資格が幅広くチャンスが広がったために人気が出て、士官学校並みに超難関狭き門となり結果的に優秀な少年を採用することができた。
学校での教育期間は3年。卒業後に練習部隊で飛行訓練を1年行った後に配属された。
教育期間を短縮するため、年齢や学力に条件を付けた訓練生の募集も行った。(一般教養教科を大幅に省略できたため教育期間は1年2か月ほどだった)
飛行学校出身者は下士官(将校と兵の間)として航空隊の中核をなしていくが戦死した者も少なくなかった。

太平洋戦争が始まると、飛行兵・航空兵ともに訓練生を大幅に増員させた。
それまで数百人程度だったものが、数千人から数万人となり、学校での教育期間はおよそ半分に短縮された。
太平洋戦争における空の戦いは陸海軍共にまさに少年が主役となった。
戦争末期の特別攻撃隊の中心も少年航空兵や学徒航空兵であり多くの者が命を落とした。
同時に戦闘機不足のため搭乗できない者も多数おり、その中には航空機以外の特攻兵器要員に回された者もいた。


航空隊の学生と同じように、臨時医学専門部の医学生も教育期間が大幅に短縮されていたのではないだろうか。
帰還した少年航空兵は少なかったかもしれないが、若い軍医はどうだったのだろうか。
無事に帰還できた暁には、帝国大学医学部や医科大学卒業という学歴を手に入れることができたようである。
それはそうだ。戦後に「臨時」を付ける必要は無くなったのだから。



by yumimi61 | 2014-10-22 15:02