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甍(いらか)百七十一

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もう少しノーベル賞の話

日本のノーベル受賞者22人のうち、旧帝大出身ではないのは次の4人。
・2000年化学賞 白川英樹(東京工業大学)
・2008年化学賞 下村脩( 旧制長崎医科大学附属薬学専門部)
・2012年医学生理賞 山中伸弥(神戸大学)
・2014年物理学賞 中村修二(徳島大学)

下村脩氏はSTAP細胞のことを書いていた時に何度か登場したが、この方が「緑色蛍光タンパク質(GFP)」をオワンクラゲから発見したのである。
これがアメリカの研究者によって実用化され、生命科学ブームが訪れたため時を経ての受賞となった。

正直、これやばくないですか?
もはやオワンクラゲは関係ない
またまた緑色蛍光タンパク質(GFP)

GFPがなければSTAP細胞実験はもとより多くの実験が成り立たなくなるので死活問題、大問題。

その下村氏だが1928年生まれで旧制時代となる。
生まれは京都府だが両親の実家はともに長崎県であった。
第二次世界大戦が始まった中学生の時に長崎県へ疎開。
当時は小学校6年、中学校5年(戦時中は4年)であった。(中学校が現代の中学と高校を合わせたものとなっている)
その先の旧制高等中学校(後の旧制高等学校)が大学教育課程(大学予科)2年にあたった。専門課程は医学部4年で他学部3年。
医学専門学校はこの教養課程を経ずに専門教育4年で医師になれた。

下村氏は現代で言う中学・高校年代を主に長崎県で過ごし、長崎原爆も体験したという。
終戦の1945年頃がちょうど卒業年だったと思われる。
戦時中ということもあり勉強は全くできず、大学(旧制高等学校)への進学は諦めたという。
終戦後に「旧制長崎医科大学附属薬学専門部」が自宅近所に移転してきたため、そこへ進学した。
附属薬学専門部は修業年限3年である。ここを1951年に卒業したということなので、旧制中学校を卒業後入学までに2,3年ブランクがある。
終戦直後、特に原爆投下された長崎なので、混乱期にあったことは想像に難くない。
やはりこの時代も勉強はほとんどできなかったと御本人も語っているようだ。
武田薬品工業の就職試験に不合格となり、そのまま旧制長崎医科大学に残った。
1955年から名古屋大学の有機化学研究室に研究生として所属。知識のほとんどはここで習得したとのこと。

平田(名古屋大学教授)はハーバード大学留学体験から博士の学位により報酬が倍増されることを知っていたため、博士課程の学生ではなかった下村に博士号を与えた


名古屋大学でも好き勝手に学位を出していたことが明らかになっている。
当時の薬剤師の国家試験についてはよく分からないが、附属薬学専門部というのは現在の薬学部にあたるので、資格を取って薬剤師として働くのであるならば問題はなかったと思う。
しかし学位で生きていこうとすると少々話は変わってくる。
大学の中の薬学部ならばまだ良いのだが、附属薬学専門部というのは通常過程と違う。医療技術短期大学部の看護学科と同様に教養課程を飛ばした3年制である。
おそらく当時はこのままでは大学院(博士課程)に進むことなど出来なかったであろう。

勝手に学位を出していた平田教授というのは放任主義だったと朝日新聞が伝えている
そこには現在の理研理事長・野依氏の名も挙がっている。
下村さんにウミホタル研究を勧め、のちにライフワークとなる「光る生物の謎」と引き合わせた。01年ノーベル化学賞の野依良治・理化学研究所理事長を、29歳で京都大助手から名大助教授に引き抜いたのも平田さん。


世界が切っても切れない関係にある「学位」と「論文」に支えられているのだとしたら、下村氏の偽博士号で全て崩れてしまうのでは?


入社2年目サラリーマンの快挙

ノーベル賞は学者様のものだと思っていたが、現役サラリーマンが受賞したことがあった。
2002年の化学賞、田中耕一氏である。
1959年生まれ。
富山中部高校→東北大学工学部電気工学科。

ストレートでいけば1982年3月に大学(学部)卒業となる。
ただ1年留年しているということなので、それを足すと1983年3月卒業になる。
大学院には進まずにそのまま就職するという進路を選択。
ソニーの就職試験を受けるものの不合格となり、大学の教授に勧められた京都の島津製作所に就職。
1983年4月ということだろうか。

ノーベル賞受賞時は43歳で分析機器事業部の主任であった。
サラリーマンの43歳は中堅処だが、ノーベル賞受賞者としては若い気がする。そうでもないんだろうか。
公式なノーベル賞受賞理由は「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」。
遺伝子が作り出すタンパク質の構造を解析する1つの手法「質量分析」を可能にする「レーザーでタンパク質を破壊することなくイオン化する」ことに役立つ1つの方法(タンパク質保護材)を見つけたということなのだ。
日経サイエンス的に言えば”小さな発見”である。
遺伝子解析は手に負えないのでタンパク質解析にシフトしようかという試みが行われているわけですね。(そんなことないですよ!?)(同時進行?保険的な?)
ともかくこれも生命科学に関係するものである。

受賞は2002年だったが、手法を開発したのは1985年2月のことだという。
入社2年足らずの快挙だったわけだ。
しかし企業であればチームで研究開発しているだろうし、その中には「院卒」と呼ばれる大学院卒業者もいたり、役職が上の者もいるだろうに、よくたった1人だけノーベル賞受賞者になったというのが正直な感想だ。
現にこちらの記事によれば、田中氏も先輩の発案の元で実験を行っていたと語っている。
しかも過ちによる偶然が成功に至らしめたと、どこかで聞いたことのあるような経緯での発見である。
「大学で学んだのが化学ではなく電気工学で、(化学の)専門知識にとらわれずにやったのが良かったのかもしれない」と、これまた小保方評みたいなこと言っているし。
こうなったら大学に専門性など要りません。
すべて教養課程でやれば新鮮で斬新なアイディアがどんどん出て素晴らしい世界になるのではないでしょうか。
馬鹿を言うな?
常識にとらわれないことが大切です


イギリス>ドイツ?

「常識にとらわれないことが大切」をクリックすると左側に小さく田中氏の経歴がある。
ノーベル賞受賞前の1990年代に「イギリスの関連会社に出向」と書いてある。
島津製作所は1989年にイギリスのクレイトスグループ(KRATOS GROUP PLC)を買収した。
クレイトスグループは島津製作所の子会社となり、ここにシマヅリサーチラボラトリー(SHIMADZU RESEARCH LABORATORY)を置いた。
そこに出向していたということのようである。
これがノーベル賞受賞に作用したんだろうか。
どうも生命科学分野は胡散臭い。(他も同じよ?)

現在、生命科学分野で広く利用されている「MALDI-TOF MS」は、田中らの発表とほぼ同時期にドイツ人化学者 (Hillenkamp, Karas) により発表された方法である。MALDI-TOF MS は、低分子化合物をマトリックスとして用いる点が田中らの方法と異なるが、より高感度にタンパク質を解析することができる。

なお、ノーベル賞受賞決定にあたり、何故フランツ・ヒーレンカンプ (Franz Hillenkamp) やミヒャエル・カラス (Michael Karas) ではないかという疑問の声が上がり、田中自身も自分が受賞するのを信じられなかった原因にあげている。経緯として、英語論文発表はヒーレンカンプとカラスが早かったが、2人はそれ以前に田中が日本で行った学会発表を参考にしたと書いてあったため、田中の貢献が先と認められた。



1985年に「レーザーイオン化質量分析計用試料作成方法」として特許申請。
1987年に学会発表。
1988年に製品化。

同じ社の共同開発者にもドイツ人科学者にも与えられなかったノーベル賞というのはつまり、うっかり誤った人のみが重要ということなんだろうか。(うっかりさん大集合

修士号も博士号も持たない田中氏はノーベル賞受賞後も謙虚に東北大学名誉博士、謙虚に東京大学医科学研究所客員教授、東北大学大学院工学研究科客員教授、京都大学産学連携機関国際融合創造センター客員教授、愛媛大学客員教授などを歴任されている。



by yumimi61 | 2014-11-20 11:44