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甍(いらか)百六十七

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イングランド君主を振り返る(  )は在位期間

●ヘンリー7世(1485-1509)

---------ここからアイルランド王も兼任--------------------------------------------------------------

●ヘンリー8世(1509-1547)
 ・・・男児の跡継ぎ欲しさに6回結婚した。
結婚離婚や世継ぎを巡ってローマカトリックと揉めて、イングランド国教会をカトリックから分離独立させた。

●エドワード6世(1547-1553) ・・・ヘンリー8世の3番目の妻が産んだ子。プロテスタント信仰者

●ジェーン・グレイ女王(1553)
 ・・母方の祖母・メアリー・デューダはヘンリー7世と王妃エリザベス・オブ・ヨークの次女で、ヘンリー8世の妹で、フランス国王ルイ12世の王妃となった人で、プロテスタント信仰者だった。
この血統に注目した人物に政略結婚させられ、病床のエドワード6世を囲い込みイングランド史上初の女王となった。
しかし在位9日でメアリー1世により廃位され、その後に大逆罪で斬首刑に処された。

●メアリー1世女王(1553-1558)・フィリップ(1554-1558)
  ・・・ヘンリー8世と王妃キャサリン・オブ・アラゴンの娘。
ヘンリー8世は男児誕生を望んでいたがイングランドは女性の王位継承も認められていた。
父であるヘンリー8世は後に外の愛人との間に男児を儲ける。但し婚外子が当たり前の時代にあっても差別は存在し、王位継承は難しかった。
これに変化を加えられるのは教会の認定であった。
 愛人関係にあった王妃の侍女(メアリー・ブーリン)の姉妹(アン・ブーリン)に愛人となって子を産むよう要求するも、「結婚しなければ嫌」と言われ王妃(メアリー1世の実母)との離婚を決意。
しかしカトリックは離婚を認めていない。奥の手であり常套手段だったのが「そもそも結婚そのものが無効であった」とすることだった。
 実は王妃はヘンリー8世の兄と短い期間ながら結婚しており、ヘンリーとの結婚に際して教皇が特別な赦免を与えており、これを無効だと訴えたため教皇と対立。
これがイングランド国教会をカトリックから分離独立させる要因になったのである。
結婚は無効となり最初の王妃の娘メアリー1世は一夜にして王女から庶子に転落し、エリザベスの侍女という地位になってしまった。
 ヘンリー8世の2番目の妻であるアン王妃がその後に産んだ子は女児であった。これがエリザベス1世である。
アン王妃姦通罪で処刑→アンの侍女と結婚→エドワード王子誕生(世継ぎ)→エドワード母死ぬ→以後3回結婚(6人の王妃)
 1543年(ヘンリー8世51歳)、プロテスタントで31歳の裕福な未亡人キャサリン・パーと6度目の結婚。
キャサリンがエドワード王子に王位継承権を戻し教育を担当。
また庶子に成り下がっていたメアリー王女とエリザベス王女を王女の身分に戻した。
こうしてメアリーが王位を継承し、メアリー1世は父親への恨みを晴らすかのごとくプロテスタント(イングランド国教会)の指導者を次々と処刑した。

 ・・・メアリーの夫フィリップは1556年から亡くなる1598年までスペインの国王だった。
絶対君主にてスペイン黄金期最盛期の王として名高い。
「太陽の沈まぬ帝国」と称されるほどの無敵艦隊を誇ったが、後述のエリザベス1世イングランドに敗北する。
イングランド女王メアリー1世と結婚期間中は夫妻共同君主であったため、イングランド王フィリップ1世でもあった。
また1580年からはポルトガル国王も兼任した。カトリック信仰者。


●エリザベス1世女王(1558-1603)
  ・・・イングランド国教会を国家の主柱として位置づけた。
生涯結婚しなかったため処女であると言われ、それが崇拝対象となる所以でもある。
エリザベス1世在位中の1582年にローマ教皇がユリウス暦を現在のグレゴリオ暦に改暦している。
しかしイングランド王国は1750年までグレゴリオ暦を採用しなかった。
1588年、スペイン無敵艦隊のイングランド侵攻(アルマダの海戦)に勝利し「イングランド史上最も偉大な勝利者」という名誉を手に入れた。

 ・・・かつて庶子であったエリザベス1世に異を唱えたのがスコットランド女王メアリー・スチュアートだった。
「自分のほうがイングランド王位に相応しい」と主張した彼女は、スコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族出身の王妃の長女。
ジェームズ5世というのは、スコットランド王ジェームズ4世とイングランド王ヘンリー7世の娘(ヘンリー8世の姉)マーガレット・テューダーの子。
メアリーは生後6日でスコットランド女王として即位した。
さらにはイングランド王ヘンリー8世の要求により当時イングランド王太子だったエドワード6世と婚約させられる。
 6歳の時にフランス王のアンリ2世の元に逃れ、以後フランス宮廷で育てられた。
1558年(16歳の時)にアンリ2世の王太子フランソワ(14歳)と結婚した。同年エリザベス1世がイングランド女王として即位。
フランソワはアンリ2世没(1559年に不慮の事故死)後にフランソワ2世として王位を継承し、メアリーはフランス王妃となった。
メアリーの外戚が実権を握り、フランスでプロテスタントを弾圧。
 1560年にフランソワ2世が死去したため、翌年スコットランドに戻る。
エリザベス1世と生涯のライバルであり(よき友)、メアリーの再婚もイングランドの王位継承権を背景に綱引きが行われた。
おそらくヘンリー8世王妃の侍女で愛人だったメアリー・ブリーンの姉妹とされるアン・ブーリン(エリザベス1世の母)は影武者だろう。
エリザベス1世は愛人が産んだ子、または愛人が結婚前に身ごもった子であったのだ。
正当性や処女性を強調するために「愛人ではない姉妹」という存在を登場させたのだろう。
ブーリン家は伯爵家と縁組したり娘を国王に差し出すことでその地位を上げていったという。4代前までは平民。
メアリー女王は多分そのことを知っていたのだ。カトリックもまたメアリー女王派だった。
 結局メアリー女王はイングランド王位継承に有利な相手と再婚するも愛情はすぐさま冷め秘書と恋仲になる。
1566年、息子ジェームズ(後のイングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世(6世))を出産した。
夫の子ではなく愛人だった秘書の子だったという疑義あり。
1567年、エディンバラの教会(現在のエディンバラ大学構内)でメアリー女王の夫が殺害されているのが発見された。
その頃にはすでに秘書でもない別人と恋仲になっており、2人が結婚のために共謀して夫を殺したと疑われた(事実結婚する)。
殺人が疑われた理由は息子の王位継承権を失わずに離婚できなかったからだ。
 最後は(1587年)エリザベス1世暗殺計画を企てたとして処刑された。


-----ここからスコットランド王も兼任------------------------------------------------------------------

●ジェームズ1世(1603-1625)
  ・・・1567年からスコットランド王(ジェームズ6世)であったが、1603年よりイングランド王を兼任する。
スコットランド女王メアリーの第1子としてエディンバラ城で生まれた。名付け親はイングランド女王エリザベス1世であった。
ジェームズ1世の王妃は「Empty Headed(空っぽの頭)」と揶揄されるほど派手で浪費癖が酷く莫大な負債が残された。

●チャールズ1世(1625-1649)   
●チャールズ2世(1660-1685) 

●ジェームズ2世(1685-1688)
  ・・・最後のカトリック信仰者君主。 
1688年の名誉革命が起こり、王位を追放された。
ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世が王位に即位したクーデター事件。
この革命によりイギリスのカトリックの再確立の可能性は完全に無くなり、イングランド国教会の国教化が名実ともに確定した。
また王の権利が限定されたため議会政治の礎を築いたと評されるクーデター。
追放されたジェームズ2世はフランス軍の支援を得てカトリックのアイルランドにてイングランドに対抗した。

●メアリー2世(1689-1694 )・ウィリアム3世(1689-1702) 
  ・・・夫妻共同君主。
妻メアリーは伯父チャールズ2世(父の兄)の命令によってプロテスタントとして育てられる。
伯父の勧めで代々オランダの総督を世襲する家のウィレム3世(後のウィリアム3世)と政略結婚。
結婚後オランダに移住し、メアリーはオランダに馴染む。
しかしウィリアム3世は両性愛者であり愛人も多数いた。もっとも夫は戦いで留守がちだった。
カトリック教徒である父ジェームズ2世国王がプロテスタント主流のイングランド貴族や議会と衝突。
彼らに担ぎ出されたのが娘メアリー2世とオランダ総監の夫ウィリアム3世であった。


●アン女王(1702-1707)
  ・・・アン女王はメアリー2世の妹である。
1707年にイングランド・スコットランド両国の合同法が成立し両国は正式に統合されたグレートブリテン王国になった。
よってアンはグレートブリテン王国最初の君主である。
アンは17回も妊娠するが不幸続きで成人となる子が1人もおらず、王位継承が問題になった。
メアリー2世とアン女王の父であるジェームズ2世は愛人との間にも子(ジェームズ)を儲けていた。
アン女王にとっては異母弟となる。ジェームズはカトリック信者であり父とともに亡命した。
国王の血を繋ぐならばジェームズが継承者として有力になるがカトリックは嫌われた。
そこで日の目を見たのがアンの曾祖父ジェームズ1世の外孫(娘の子)ソフィアの子孫である。
これが継承者として正式に議会で制定された。


----連合法制定によりここからグレートブリテン王国の王となる。アイルランド王は引き続き兼任------------

●ジョージ1世(1714-1727)
  ・・・ ソフィアの長男であり、ドイツのハノーファー選帝侯ゲオルクであった。(イギリス・ハノーヴァー朝時代の幕開け)
彼がアン女王時代に制定された継承法に基づき、グレートブリテン王兼アイルランド王ジョージ1世となった。

●ジョージ2世(1727-1760)

●ジョージ3世(1760-1820)
 ・・・15人の子がいたがその子らが成長するにつれてスキャンダルを巻き起こし悩みの種だった。
ジョージ3世はたびたび精神障害を引き起こし、1811年には完全に心神喪失状態となった。
その原因は子のスキャンダルによる心労、自身が3ヶ月も早産で生まれたこと、ポルフィリン症、認知症などが挙げられている。
1811年からは王太子(ジョージ4世)が摂政(君主に代わって統治)し、1815年にはナポレオン戦争に勝利する。
1811年というのはナポレオン2世が生まれた年である。
ナポレオン(1769年8月15日生まれ)と最初の正妻の間には実子がなかった。ナポレオンは実子を得るために再婚している。
生まれたのが1811年3月20日。(3月20日はジョン・ヨーコ結婚日であり地下鉄サリン事件発生日)
ナポレオンとスウェーデン王室、フランス、ドイツ、イギリス、ロシアとの関係はこちらに


---ここからグレートブリテン及びアイルランド連合王国の王となる--------------------------------------

●ジョージ4世(1820- 1830)
 ・・・妃を病的までに嫌った。王位を継承したのは弟。
ハノーヴァー朝君主として初めてスコットランドを訪問した。

●ウィリアム4世(1830-1837)
 ・・・実子が2人生まれたがすぐに亡くなり、王位は姪っ子が継承した。

●ヴィクトリア女王(1837-1901)
 ・・・代々ドイツのハノーファー王国(選帝侯国)の君主を兼ねていたが、ハノーファーでは女性君主を認めていなかった。
よってヴィクトリアはハノーファー王位を継承出来ず、イングランドとハノーファーの同君連合が解消された。
世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王。
その治世はヴィクトリア朝と呼ばれる。
1623年以降イングランドは東インド会社を通じてインドの植民地化を進めていた。
1857年植民地化に反対する民衆の大反乱を経て、政府が東インド会社を解散させて直接統治にでた。
1877年にインド帝国の成立を宣言して形式的にもイングランド政府が統治することになった。
イングランドにインド省が作られ、現地にはイギリス人総督が置かれ、ヴィクトリア女王が初代インド女帝として君臨する。
イングランド国王(グレートブリテン国王)が皇帝となるイギリス領インド帝国は1947年まで続いた。

●エドワード7世(1901-1910)


----ここからグレートブリテン及び北アイルランド連合王国の王となる-----------------------------------

●ジョージ5世(1910-1936) ・・・ウィンザー朝の初代君主。

●エドワード8世(1936-1936) 
 ・・・「王冠をかけた恋」の人。退位後はウィンザー公爵となる。再婚相手の夫人はアメリカ人。
  ロスチャイルド家やヒトラーと親しかった。ニクソン大統領とも親交を持つ。

●ジョージ6世(1936-1952)
●エリザベス2世女王(1952-現在)


【スコットランドとの関係】
1603年にジェームズ1世/6世がイングランド/スコットランドの王を兼ねて以来、両国は同君連合(君主が同一人物)の関係にあったが、アン女王時代の1707年連合法制定により両国の議会は統一されて、一つの国家「グレートブリテン王国」となった。
しかし1999年にスコットランドの自治拡大政策によってスコットランド議会が復活した。
また2014年にスコットランド独立の動き(住民投票)があったが反対が過半数を超えて否決された。

【アイルランドとの関係】
「アイルランド王国」(1541-1800)は終始イングランド王国との同君連合(君主が同一人物)にあった。
最初は形式的なものであったが、1694年以降は実効支配下に置かれ従属国となった。
1800年に連合法が制定され、翌1801年に上記グレートブリテン王国と合同して「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」が成立し、アイルランド王国は消滅した。
1922年、アイルランド南部26州がアイルランド自由国として独立したため、1927年に国名を「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」と改称した。(アイルランドの独立の動きはこちらに書いた

【イギリス(英国)とは】
イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つのカントリーから構成される立憲君主制国家である。
United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(略してUK)。
この国の君主はつまり、イングランド君主である。現在ならばエリザベス2世女王である。


イギリスとドイツの深い関係 ~欧州はみな親戚のようなもの!?~

今度は上記イングランド君主を王朝の区切りで分けてみる。
王朝とは同じ王家に属する君主の系列が支配する時代。。
朝廷というのは君主が政治をとる所。または君主を中心とした貴族などで構成された政府のこと。
天皇家や皇室の場合は朝家と言う。転じて朝廷や国家の意味にもなる。


■テューダー朝(1485-1603年)
ウェールズ起源の王朝。
テューダー朝の祖となる人物はウェールズ人のオウエン・テューダー。

彼はイングランド王ヘンリー5世の王妃キャサリン・オブ・ヴァロワ(フランス王シャルル6世*の娘)の侍従を務める下級貴族に過ぎなかった。
ヘンリー5世(イングランド王の在位:1413-1422)は条約を締結し自らのフランス王位継承権を認めさせたが、2年後に赤痢にて急死した。
ヘンリー5世の息子がヘンリー6世(イングランド王の在位:1422-1461及び1470-1471、フランス王1422-1453)である。
ヘンリー5世亡き後、未亡人王妃と侍従オウエン・テューダーが恋仲となり、事実婚の状態となって4人の子を儲けた。
ただ王妃の正式な再婚となると枢密院(国王の諮問機関)の許可が必要であり、これが認められなかった。
従って王位継承権はオウエン・テューダーとの間の子には与えられなかったが、ヘンリー6世と異父弟らは仲が良く事実上公認の弟(上級貴族の一員)と認められていた。

*イングランド王5世の王妃の父であるフランス王シャルル6世の母の家系ブルボン家には精神疾患(精神異常)の遺伝があり、シャルル6世も早くから精神不安定性を示していた。1393年には完全に発病し治世はとれず、部下やイングランドに支配されることとなる。
精神疾患遺伝があったが妻との間に12人の子を儲け、婚外子も1人いた。

シャルル6世の孫にあたるヘンリー6世も早くから精神の不安定性を示すと同時に生まれ持った博愛心を持ち合わせていた。
ヘンリー6世はイギリスとフランス和平の一環でフランス貴族の娘・マーガレット・オブ・アンジューと結婚する。
フランス側からの持参金は一切無く、イングランド側から持ち出しがあっため、イングランドに不満が鬱積した。
フランスとの百年戦争(1337-1453)に敗れて王権は失墜し、ヘンリー6世の精神異常も加わって薔薇戦争が勃発。
薔薇戦争(1455-1485)はイングランド内におけるランカスター家とヨーク家の権力争いである。

跡継ぎの子がなかったヘンリー6世は、異父弟の1人であるエドマンドをイングランド貴族公爵の娘マーガレットと結婚させて、マーガレットを王位継承者に指名する心積もりだった。
1455年に2人は結婚。しかし同時に薔薇戦争が始まっており、エドマンドは敵家に捕らわれ投獄され、そこで伝染病に罹患し死亡した。
この時に妻のマーガレットは妊娠しており、翌年1457年に息子ヘンリー・テューダーが生まれた。

ヘンリー・テューダーが成長し薔薇戦争て敵家擁するリチャード3世国王と戦い勝利して王位を握り、後方では母親が政略結婚などで王位継承固めに動き、結果ヘンリー7世となって王位継承した。
ここにテューダー朝が始まった。

ヘンリー7世
ヘンリー8世
エドワード6世
ジェーン・グレイ女王
メアリー1世女王&フィリップ1世
エリザベス1世女王


■ステュアート朝(1371-1714)
スコットランド起源の王朝。
結婚せず跡継ぎもいなかったエリザベス1世女王の死によりヘンリー8世の血筋が絶えたため、ヘンリー7世の血を引くスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王に迎えられた。
スコットランド王ジェームズ6世はイングランド女王エリザベス1世の生涯のライバルだったスコットランド女王メアリーの息子。
ここにステュアート朝が始まった。
1603年以後はイングランド国王を兼ねて同君連合体制となり、1707年にグレートブリテン王国を成立させた。

ジェームズ1世
チャールズ1世
チャールズ2世
ジェームズ2世
メアリー2世女王&ウィリアム3世
アン女王


■ハノーヴァー朝(1714-1901)   
ドイツ起源の王朝。
ドイツのヴェルフ家の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、1692年に成立したハノーファー公国(選帝侯国、後に王国)の君主の家系であった。
1714年にステュアート朝に代わってイギリスの王家となり、ハノーファーとイギリスの君主を兼ねる同君連合体制をとった。
アン女王が子供に恵まれず、且つ宗教的理由(カトリック忌避)によってドイツの家系に王位を継承した。
※ハノーヴァーはハノーファーとも言う。

ジョージ1世
ジョージ2世
ジョージ3世
ジョージ4世
ウィリアム4世
ヴィクトリア女王


■サクス=コバーグ=ゴータ朝(1901-1917) ・・・・・改称による
ドイツ起源の王朝。
ドイツのヴェッティン家の分家にあたり、ドイツ中部にあった2つの領邦からなるザクセン=コーブルク=ゴータ公国の君主の家系である。
一族からは現在のベルギー王家、ポルトガルやブルガリアの君主も輩出した。

先代ヴィクトリア女王の後継は、ヴィクトリア女王とその夫であるアルバート公子の長男として生まれたエドワードであった。
エドワードは22歳の時にデンマーク王女と結婚し王妃に迎えている。
母親であるヴィクトリアが崩御し、59歳で国王に即位した。
王名は父の名と同じアルバートを使用せず「エドワード7世」に決定。
その代わりなのか、王朝名をハノーヴァー朝から父アルバートの家名「サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝」に変更した。

エドワード7世には6人の子がいて、長男が王位継承者だったが28歳の時(1892年祖母ヴィクトリア女王の在位中)にインフルエンザと肺炎で急死した。
翌月には親戚関係にあるドイツ・ヴュルテンベルク王族のメアリー王女との結婚が予定されていた。
亡くなった長男は一時期「切り裂きジャック」の容疑者であった。
婚約者に先立たれたメアリー王女が可哀想という世論が後押しして、長男が亡くなり後継者となった次男とメアリー王女が翌年に結婚した。
この次男が後にジョージ5世として即位した。

エドワード7世
ジョージ5世


■ウィンザー朝(1917-現在) ・・・・・・改称による
第一次世界大戦中の1917年、ジョージ5世は敵国ドイツの領邦であるザクセン=コーブルク=ゴータ公国の名が冠された家名を避け、イングランド王宮のあるウィンザー城にちなんでウィンザー家と改称した。
また王家は姓を用いないとの先例を覆してウィンザーを同家の姓としても定めた。
「サクス=コバーグ=ゴータ朝」も「ウィンザー朝」も改称しただけであって、ヴィクトリア女王の血統が途絶えたわけではないので、「ハノーヴァー朝」の継続と見做すことができる。
ハノーヴァー朝といえばドイツ起源であり、ゆえにドイツとの関係が深いことは容易に想像できる。

ジョージ5世
エドワード8世(王冠をかけた恋の人)
ジョージ6世
エリザベス2世女王


【イングランド出身】
起源がイングランド以外にあり、その血を継いでいるとすれば、生粋なイングランド人の君主はいないことになる。
ヨーロッパやアメリカに生粋を求めることは端から無理なことかもしれないが。
王妃もイングランド出身者は少ない。
ジョージ6世の妃エリザベス(エリザベス2世女王の母親)、現王太子チャールズの元妃ダイアナ、現妃カミラ、チャールズ王子妃キャサリンが同国出身だというが、遡るとスコットランドあたりに行き着きそうだ。
ダイアナ妃が一番「イングランド出身」と言えるかもしれない。
カミラ妃の曾祖母はエドワード7世の公的な愛人であった。

【切り裂きジャックとDNA鑑定】
事件から126年、今年ついに切り裂きジャックの正体が判明したとのこと。
それもなんと遺留品のショールと被害者及び容疑者子孫のDNAから!!!

そんな昔のでもDNA鑑定できるのか?

出来ないわよ。普通に考えれば。



by yumimi61 | 2014-11-27 15:56