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甍(いらか)百六十八

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夢の南フランス!?

現在のイングランド君主であるエリザベス2世女王の夫君フィリップ(エディンバラ公)は、ギリシャ及びデンマーク、ノルウェーの王家グリュックスブルク家出身。
またイングランドのヴィクトリア女王の玄孫にもあたる。

ギリシャ独立戦争にてオスマン帝国(イスラム朝から発展した帝国)から独立したギリシャ。
古代ギリシャ滅亡以来約1900年ぶりにギリシャ人の国家が復活したように見えた。
しかし実際には国の政治体制を決定したのは列強国(イギリス・フランス・ロシア)と現ドイツ(バイエルン王国)であった。
これらの国の取り決めによって「ギリシャ王国」(1832-1974)という君主国が誕生した。
初代国王はバイエルン王国の王子(16歳)が即位した。つまりドイツ人である。王はカトリックを信仰。
18歳の時に結婚するがお相手もドイツ人、ドイツ領邦君主家の娘であった。王妃はプロテスタントを信仰。
結婚式はドイツで執り行われた。

ギリシャの財政難は近年盛んに取り沙汰された問題でもあったが、ギリシャ王国の財政も最初から思わしくなく、イギリスとロスチャイルド家が保証することになった。
新政府が国民にかけた税金はオスマン帝国時代以上に重いものであり、これに国王夫妻のギリシャを顧みない態度や宗教問題(ギリシャ正教へ改宗せず)も絡み、国民の不満は鬱積しクーデターなどに繋がった。

アテネが首都になったのはこの時代。
現在も「ギリシャ共和国」の首都で、同国最大の都市。
しかし当時はひなびた貧しい町に過ぎなかった。
古代ギリシャの時代に存在したアテネは先進的な町であったと言われ、そこから数えれば数千年の歴史があり世界で最も古い都市の1つになるわけだが、残念ながら古代ギリシャは一旦滅亡したのである。
アテネを首都に選んだのは「古代ギリシャを利用できる」と思ったからである。言うなれば遺産産業。
歴史ある物を保存したいならば隠蔽したり人を遠ざけるのが最善。
風雨や人目に晒せば傷みやすく保存は難しくなるのが常。
そう考えると一旦滅亡したことにも意味があるかもしれない。
何百年、何千年先を見通すならば、私達はいつもその歴史の通過点に立っている。

アテネは都市計画によって近代都市に相応しい古代都市を構築していった。
中心にいたのはドイツ人であり、建築デザイナーの力が如何なく発揮された。
ナショナルモニュメントであるアテネのランドマークは、この時代以降に建設されたものであり、古代ギリシャの複製とも言える。
これに見事に成功したアテネは世界都市として確固たる地位を築いた。(しかしギリシャは財政難)

1862年に再びのクーデターが勃発し、初代国王夫妻は亡命。
次なる国王に選ばれたのはデンマークの王子(17歳)。
これがフィリップ(エディンバラ公)の祖父にあたる。
初代国王は「ギリシャ国王」であったが、王家が変わった2代目からは「ギリシャ人の王」という称号を用いた。
「ギリシャ人」とは何かと言えば、ギリシャ語を母語とし正教会のキリスト教を信奉した人々のことであり、国はギリシャに限らない。

実はこの王位継承時、ギリシャ国民はイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)との関係強化を望んでおり、ヴィクトリア女王の次男(エディンバラ公アルフレート)に王位継承を打診した。
しかしヴィクトリア女王をはじめ、フランスやロシアの王家からも猛反対されて、願い叶わず。
その代わりに推薦したのがデンマーク王子だったのだ。
それにしても何故反対だったのだろうか?
それほど希望の見えない国だったのか。宗教教派の違いか。
それともギリシャやイスラム世界から列強国の影を消すためだろうか。

アルフレートはヨーロッパの王族の中で日本を一番最初に訪問した人物と言われている(明治初期1869年)。
ロシア皇帝の娘と結婚した(1874年)。(1874年は新島襄がアメリカから帰国した年、同志社英学校1875年、八重と結婚1876年)

「ゲオルギオス1世」という王名のフィリップ(エディンバラ公)のおじいちゃまのお兄様はデンマーク王、またのお兄様の奥様はナポレオンの孫娘、お姉様はイングランド王エドワード7世の王妃、妹はロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后、またの妹はハノーファー王国の王太子妃と、錚々たる家族である。
そんなゲオルギオス1世の四男がエディンバラ公の御父上「アンドレオス」。
御父上の結婚相手はドイツ領邦君主家の娘。
5人の子のうち4人の娘達はドイツ貴族と結婚、末っ子の1人息子がエディンバラ公。
御父上「アンドレオス」は子供達が成長すると、愛人と南フランスで暮らす。あららららら?


ego(エゴ)とes(エス)の確立

上記に「御父上の結婚相手はドイツ領邦君主家の娘」と書いたが、同時に「イギリス女王の孫娘の娘」でもある。

フィリップ殿下(エディンバラ公爵)の母方の高祖母(ひいひいおばあさま)がヴィクトリア女王である。
「ヴィクトリア朝」と形容され、世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王。
この時代中の1853~1856年のクリミア戦争ではナイチンゲールが修道女や職業看護婦を率いて従軍している。
ナイチンゲールの現地からの報告を重要視し、滞りなく女王まで報告を上げるように指示したのは他でもないヴィクトリア女王であった。
イギリスにおいても当時はまだ従軍する女性など虐げられたに違いないが、それを権力によって保護し味方になったのが女王だったのだ。
良くも悪くも大英帝国を象徴する女王だったのである。

ヴィクトリア女王の配偶者はドイツ人であり、夫妻の次女(アリス王女、1843~1878年)もドイツ人と結婚した。
このアリス王女がフィリップ殿下の曾祖母となる。ナイチンゲールとも親しかったようだ。

アリス王女の長女はこれまたヴィクトリアというお名前。この方がフィリップ殿下の祖母である。
ヴィクトリアの結婚相手もドイツ人で、アリス王女の結婚相手の従弟にあたる人物である。
ヴィクトリア女王をはじめイギリスと近い存在にあったため、14歳の時にイギリス海軍に入隊していた。
1917年にイギリス王家が「ウィンザー家」と改名したのに伴って、こちらの一家も「バッテンベルク」というドイツ名から「マウントバッテン」という英語名に改姓した。
ドイツ・バッテンベルク家の称号を放棄したことになる。これによりイギリス貴族として認められた。

ヴィクトリアの長女がまたまたアリスというお名前。この方がフィリップ殿下のお母様。
遺伝性の先天性難聴であり読唇術にて言葉を学んだそうだ。
1903年にギリシャ王子のアンドレオスと結婚。
1905~1921年の間に5人(4女1男)の子供を生む。最初の子からは16年、4人目からも7年あいている。
アリスは結婚当初から慈善事業に熱心であり、オスマン帝国とのバルカン戦争(1912-1913年)には従軍したという。
第一次世界大戦(1914-1918年)の時には王族一家はスイスに亡命したようだ。
1917年に「バッテンベルク」一家は英語名に改姓したが、アリスだけは改姓せずにそのままドイツ名を用いた。
1928年ギリシャ正教に改宗するも、この頃から心の病を発症する。
この時に末の子(フィリップ)は祖母を頼ってイギリスに渡った。
ベルリン、スイス、イタリア、フランスの病院に入院し、およそ10年の歳月が流れた。
世界は第二次世界大戦(1939-1945年)に突入しようとしていた。

ドイツ出身である夫やドイツに嫁に行った娘らはドイツ側、息子はイギリス側に立ち、ギリシャの王族の大半は南アフリカ共和国へ逃げた。
アリスはギリシャ・アテネに残り赤十字で働いた。
大戦中にはドイツ軍がアテネにも侵攻したこともあり、それに反した彼女は親ユダヤ・親イスラエルとしてイスラエル側から称えられることになる。
戦後1947年、息子がイギリス女王と結婚するその年にイギリスに渡り、その後は正教会の修道女となり、修道女の看護の組織を設立した。
最後の3年あまりはバッキンガム宮殿で暮らし、イスラエル・オリーヴ山の麓のゲッセマネ(正教会ではマリア埋葬場所、福音書ではイエスがユダに裏切られ捕えられた場所)にある聖マリア・マグダレナ修道院に埋葬して欲しいとの遺言を残したそうだ。
マウントバッテンへの反抗心ではないか・・ないね・・・。

長い人生をかじっただけで何が分かるのかと言えばその通りだが、何となくアイデンティティの確立が非常に難しい境遇にあったのではないかという気がする。
だから慈善事業に「自己」や「共同体」を求めてしまうのではないだろうか。
そうした場合には資金や物品援助、広告的存在の慈善事業だけでは物足りず、さらにもっと直接的な看護やそれに似たものに身を投じたくなるのかもしれない。






by yumimi61 | 2014-11-28 16:29