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甍(いらか)百七十

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公務員もらくでなし!?

大和時代ではなく古墳時代に代わったことは前述したが、その古墳時代に作られたらしい古墳(偉人の墓)がどこから見つかっているかといえば、やはり奈良県が圧倒的に多く、そのほか大阪府、岡山県、千葉県、群馬県などである。(こちらの時期区分を参照

古墳が作られていたから古墳時代にしたわけで、その前の弥生時代やその後の飛鳥時代との境界は明確ではない。(かつては古墳時代+飛鳥時代を大和時代にしていた)
従って現在でも年代が少し重なっているのだが、古墳時代末期(飛鳥時代創生期)の680年頃に時の天皇・天武天皇が従来の姓制度を改良して新たな姓制度を創った。
八色の姓(やくさのかばね)と言われる。―「真人」「朝臣」「宿禰」「忌寸」「道師」「臣」「連」「稲置」

(下記緑字は前ページに書いた従来の姓)
一方、姓というのは天皇家を中心にした身分秩序や家柄、政治的位置関係を示す称号であった。
「臣」 元皇族だが天皇家から離れた者が中心となっている氏族の姓。特に有力な氏族は「大臣」。 
「連」 天皇家とは祖先の違う(神が別)の氏族の姓。特に有力な氏族は「大連」。
「君」 元皇族だが天皇家から離れ地方で豪族となっている者に与えられた姓。
「造」 地方の官職トップに与えられた姓。その地方に土着した豪族を任命したり、朝廷から派遣した場合もあった。
「直」 地方の官職に統一的に与えられた姓。
「首」 地方村落の首長などに与えられた姓。
「村主」 韓・漢からの渡来人(その子孫)の統率者に与えられた姓。
「史」 記録を司る官にあった者に与えられた姓。多くは帰化人の子孫であった。


従来の「臣」「連」の中から特に天皇家と関係の深い者だけを選んで「真人」「朝臣」「宿禰」の姓を与え、階級上位者に属していた者をさらに細かく階級分けした。
「忌寸(いみき)」は従来の直姓や渡来人から選ばれた。
「忌」という漢字は「忌み嫌う(いみきらう)」や「忌中(きちゅう)」などの言葉に使われており、一般的にはあまり良い印象はない。
「注意人物」的なレッテルだったのかもしれない。
新しい姓のうち、「道師」「稲置」は授与された形跡がない。また従来の姓もそのまま残している。
つまりこの改正で新たな姓が貰えなかった人は、元皇族であろうが元有力氏族であろうが「忌寸」の下の階級と見做されたのではないか。

今で言えば高級官僚(キャリア)と官僚、国家公務員試験のI種Ⅱ種Ⅲ種(上級中級初級)、国家公務員と地方公務員といったような区別を意味したのだろう。
但し当時はもちろん試験で決めていたわけではない。族姓(属性)を重んじた選考を取り入れたのだ。
高い位置の官職になるにはそれに見合った姓を持っていることが必要。
「学校名」というパスポートが必要なのが現代のお受験や就職試験だが、大昔はそれが家柄だったわけである。
同じような階級にあった氏族であっても天皇家との親密さや天皇家への貢献度によってランク付けされた。
これは要するに皇族の地位を高めるに相応しい制度だった。


後継争い

飛鳥時代の645年、大化の改新。
この頃まで力を持っていたのは天皇家の外戚(娘が天皇と結婚)であった蘇我氏であった。
蘇我氏のルーツは定かではないが倭国時代の王家だったのではないかと推測される。
蘇我氏族では蘇我馬子が有名だが、蘇我馬子は蘇我氏の馬子(名前)ということになる。
大陸からの優れた文化をである仏教を受け入れるべきというのが蘇我氏族の考え方。
それに反対し廃仏に動いたのが「大連」であった物部氏や中臣鎌子。
しかしともかく蘇我馬子、推古天皇、聖徳太子という蘇我氏族の政治体制が一旦は確立した。

古墳時代と飛鳥時代の天皇の継承は下記の通り(赤字は女性)。

継体天皇-安閑天皇-宣化天皇-欽明天皇(蘇我氏族の娘と結婚)-敏達天皇-用明天皇(母が蘇我氏族)-崇峻天皇(母が蘇我氏族)-推古天皇(母が蘇我氏族)-舒明天皇(蘇我氏族と親戚)-皇極天皇(蘇我氏族と親戚)-孝徳天皇(蘇我氏族と親戚、難波朝/大阪) -斉明天皇皇極天皇と同一人物)-天智天皇-弘文天皇-天武天皇-持統天皇

この時代のキーは他でもない、推古天皇と皇極天皇という2人の女帝である。

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蘇我氏族が天皇の外戚になったのは欽明天皇の時。
娘2人が欽明天皇の妃になっている(当時は一夫多妻制)。
欽明天皇の皇后(石姫)だったのは欽明天皇の異母兄弟の娘。母が違うとはいえ父の血を引く姪っ子皇女。
当時の皇后(正妻)選びは皇女優先、皇族・家柄重視である。近親婚による子の心配などしない。
その代わり正妻以外は必ずしも家柄は重視されなかった。
但し正妻の子は嫡子で、妃など正妻以外の子は庶子として見られることもある。

欽明天皇と皇后(正妻・石姫)の間に出来た子(嫡子)が欽明天皇の後を継承した敏達天皇である。
敏達天皇の後を継承した用明天皇は欽明天皇の妃との間に出来た子(庶子)である。
つまりここに、「皇后の子(嫡子)」と「妃の子(庶子)」という系統ができたのである。
しかもその庶子系統が最有力氏族の娘だったというのがその後の歴史に影を落としたに違いない。
ここにはもうひとつ問題がある。それが継体天皇と武烈天皇である。
欽明天皇は継体天皇の子になるわけだが、それがそもそも正当な系譜なのかということである。
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用明天皇の後の崇峻天皇も推古天皇も蘇我氏族娘と欽明天皇の子(庶子系統)。
しかしその後の舒明天皇・皇極天皇・孝徳天皇は、欽明天皇と皇后(正妻・石姫)の系譜である。

事をさらに複雑にしたのは敏達天皇。
敏達天皇の皇后(正妻)広姫は皇女ではない。出自もいまひとつはっきりとしない。
広姫との結婚は即位から4年目のことだが、即位前にすでに蘇我庶子系統の皇女(後の推古天皇)を妃にしている。
皇后は結婚から10か月後に亡くなり、後妻(後皇后)になったのが妃であった蘇我庶子系統の皇女(後の推古天皇)である。
広姫が嫡子系統の皇女であったのならともかく、そうでないなのに皇后になれて、なぜ皇女(後の推古天皇)が最初からなれかなったのが謎とされている。
しかも広姫は結婚から10か月ほどで亡くなったのに天皇の子を3人生んだことになっているので、皇后になる前に出産した可能性が高い。
広姫が生前生んだ皇子(嫡子)の子が舒明天皇。舒明天皇の異母兄弟姉妹(庶子)が皇極天皇・孝徳天皇となる。
広姫が生んだ皇子は用明天皇崩御(587年)後の継承者として候補に挙がったとされる。


大化は文字通り大化け

小学校の時に息子がテスト勉強をしていて、私がブログに書いたことがある遣唐使や遣隋使や高句麗はこの時代の話である。
ヨーロッパの学問や文化を蘭塾で学んだように、古いこの時代には中国大陸の学問や文化を教える私塾が開かれた。
蘇我馬子の孫・入鹿とともに塾生だったのが中臣鎌足。
中臣氏族で元の名は中臣鎌子。しかし前述した廃仏に動いた中臣鎌子とは別人。時代が若干違う。
同じ一族ではあるので所縁ある人物に因んだ名を付けたのかしれない。
中臣氏の姓は「連」で、八色の姓制定後は「朝臣」であった。
この人が後の藤原鎌足であり、後に続く藤原氏族の始祖となった。(大化の改新で天皇に貢献したので天智天皇から藤原という氏名を授かった)

彼は蘇我氏打倒を目論んでいた。
そこで共謀相手を探した。
それは軽皇子(後の孝徳天皇、皇極天皇の兄弟)だったのか、それとも中大兄皇子(後の天智天皇、皇極天皇の息子)だったのか。

一般的には中大兄皇子(後の天智天皇)ということになっている。
中臣鎌足と中大兄皇子(後の天智天皇)は共謀して当時「大臣」であった蘇我入鹿を宮中で暗殺した。
最有力氏族の蘇我氏を滅ぼしたクーデター(乙巳の変)である。
日本史上において非常に重要な変である。

クーデター後に皇極天皇は退位し、孝徳天皇が即位した。
この後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」であり、初めて元号(大化)を制定した天皇が孝徳天皇だった。
孝徳天皇が654年に崩御すると、皇極天皇が62歳で斉明天皇として再即位した。






by yumimi61 | 2014-11-30 17:44