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甍(いらか)百七十五

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ポイントは任那滅亡

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昨日、第15代応神天皇から第25代武烈天皇の存在否定説を発表したが、第26代継体天皇から第29代欽明天皇の系譜も怪しいのである。
こちらはもともと在位期間が整合性に欠くことから政変かなにかあったのではないかという説がある。

下記に継体天皇から大化の改新のきっかけとなるクーデターまでの天皇の生まれと在位期間を記した。
しかし当然のことながら古い書物には西暦で年数が記されているわけではなく換算しているのだ。
また年数が記されていないものについては他の人物や書物と見比べて弾き出したものも多々あるだろう。
国や地方によって使用している暦もそれぞれ違うため比較や特定もなかなか難しい。
ともかく非常に古い時代の年数というのは正確性に欠け、推測の域を出ないものも多いということを知っておいてほしい。
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継体天皇 450年生まれ 507年3月3日 - 531年3月10日 ・・・即位が57歳、526年76歳の時に倭へ
安閑天皇 466年生まれ 531年3月10日 - 536年1月25日 ・・・継体16歳の時の子
宣化天皇 467年生まれ 536年1月26日 - 539年3月15日 ・・・継体17歳の時の子、筑紫の官家整備

欽明天皇 509年生まれ 539年12月5日 - 571年4月15日 ・・・継体59歳の時の子、仏教伝来、562年任那滅亡、任那の記事が夥しく増えている、系譜的に蘇我氏族と関係を持った最初の天皇、蘇我氏族の娘(2人)との間に計19人の子あり。
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敏達天皇 538年生まれ 572年4月30日 - 585年9月14日 ・・・継体一族の流れを汲む欽明の子、廃仏派
用明天皇 不明       585年10月3日 - 587年5月21日 ・・・蘇我一族の流れを汲む欽明の子
崇峻天皇 553年生まれ 587年9月9日 - 592年12月12日 ・・・蘇我一族の流れを汲む欽明の子、仏教興隆(造寺事業)、暗殺される*
推古天皇 554年生まれ 593年1月15日 - 628年4月15日 ・・・蘇我一族の流れを汲む欽明の子
舒明天皇 593年生まれ 629年2月2日 - 641年11月17日 ・・・継体一族の流れを汲む欽明・敏達の子孫 
皇極天皇 594年生まれ 642年2月19日 - 645年7月12日 ・・・継体一族の流れを汲む欽明・敏達の子孫 

*佐藤長門は「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、 天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、馬子個人の策動ではなく多数の王族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している。
そもそも蘇我馬子が暗殺を企てたのではなく、蘇我一族を潰したいものの仕業であると思う。


古事記と日本書記

古い時代の天皇史は日本書記を中心に紐解かれている。
現代の扱いでは日本最古の歴史書が『古事記』、次が『日本書記』となっている。
天智天皇(在位:668年-672)の時に朝廷に保管していた歴史書が火災によって燃えてしまった。
そのため失った国記に変わる歴史書を次代・天武天皇(在位:673-686)が編纂させた。
しかしそれがそのまま『古事記』だったということではない。

『古事記』
完成は712年。
古事記の資料は天武天皇の命で編纂された『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)である。
取り扱いは第33代推古天皇(在位:593-628)まで。但し第24代仁賢以降は説話や伝承が全くなく系譜のみ。
古事記には天上の国とする「高天原」という語が多用されている。(日本書記には無い)
歌を多く用いているのも特徴的。

『日本書記』
完成は720年。天武天皇の命から38年の歳月を要した。
最初は川島皇子ら複数名に命じた。
川島皇子(父は天智天皇、母は小豪族出身の女官)は大津皇子(父は天武天皇、母は大田皇女)(大田皇女の父は天智天皇、母は蘇我倉山田石川麻呂の遠智娘)の友人であったが、大津皇子が謀反計画を持っていると朝廷に密告したとされる人物。これにより大津皇子は亡くなっている。
唐(中国)の歴史書風なものを目指していたとされる。執筆は複数人でその中には中国人も含まれるようだ。
用いた資料も多く、執筆量も古事記の比ではないが、意図的な取捨や改ざんが行われているとも言われている。
取り扱いは第41代持統天皇(在位:690-697)まで。


執筆者がどんな一族の者だったのか、誰派だったのか、そうしたことが重要になるはずなのだが、執筆者の詳細はほとんど不明である。
完成までに年月がかかっていることから執筆者が途中で交代したことも考えられる。(その際に追記や改ざんを行う)
また分担して執筆したであろうから、代毎の執筆意図や人物評価が一様でない可能性もある。
現代においては古文を現代分に置き換えて読み解く必要もある。
従って非常に難解である。
但し天智天皇・天武天皇が後世に史実を残すことを試みたということだけは確かであり、やはりそこに深い意味があると思わざるを得ない。


朝廷クーデターだけでは駄目な理由

おそらく倭国や国王は神に選ばれた地や者として、天智天皇の時まで存在していた歴史書に記されていたのだろう(伝承されていたのだろう)。
従って倭国にとって代わるには、陰謀などで有力者を消すとともに、倭国と血族関係を結んでおく必要もあった。

幕府ならば倒幕で済む。政権だけならばクーデターでも良い。
しかしそれだけでは超えられないものがあった。
それは聖書の「約束の地」にも似ているが、神という存在である。物事の始まり、起源である。
たとえ実権を手に入れたとしても、それは武力や暴力によって手に入れたものに過ぎず、神との約束までも手に入れられるわけではないのだ。
特定の人に約束されたものが欲しければ、その一族になる必要がある。それが血族・血統が重要視される理由である。
そうしたものを壊滅したいならば、「神」「宗教」というものを世界から一掃する必要がある。
これもなかなか難しいであろう。

皇室が「徳」を謳うのは、「武力や暴力ではないものを持っている」とのアピール、つまり「神との約束」の誇示である。
それを誇示し続けるためには血統を維持するしかないのだ。


「天皇」の起源は明治時代、確定は大正時代

「天皇」という名称がいつから使われ始めたのかも実ははっきりとしていない。
古くは各国に王がいて、その中の一番の権力者が「大王」と呼ばれていたと考えられている。これが倭国(大倭)の王だったと思われる。
かつて天皇というのは死後に与えられた称号であって、生前から天皇と呼ばれていたわけでもないし、死後にも天皇という称号が与えられなかった人物(天皇)もいた。
それが全て「天皇」で統一されたのはたかだか明治時代のことだ。
裏を返せば、古事記や日本書紀の時代はもちろんのこと、それ以降も「天皇」という存在は実に不確かなものなのである。
それはそう、日本には武士が力を持っていた(神を拠り所にしてないかった)幕府の時代が長くあるからでもある。

歴代天皇を確定するための基準が定まったのは、大正時代末期のことである。このとき示された基準によって、「歴代天皇は125代、123人(重複者あり)」という現在の歴代天皇の形が確定している。

歴代天皇の厳密な確定が要請されたのは、明治時代になってからである。明治時代には、天皇を中心とする中央集権国家体制の整備が進められ、1889年(明治22年)には、その根本規範として大日本帝国憲法が公布された。同憲法では、歴代の天皇を指す「皇祖・皇宗」が、天皇の地位の正当性(正統性)と、天皇が総攬する統治権の淵源として重視された(告文、憲法發布勅語、および上諭など)。このため、歴代天皇の在りようが論じられ、その確定が行われた。


明治時代から大正時代にかけての歴代天皇確定によって、即位してもいない天智天皇の皇子が第39代弘文天皇に格上げされ、明治時代以前に第15代天皇(君主)とされていた神功皇后を外したのである。
神功皇后というのは、昨日書いた日本武尊の子(第14代仲哀天皇)の皇后である。
つまり明治時代までは夫の次に妻が即位したことになっていたが、それを外して応神天皇が第15代となった。
女と15の組み合わせは良くないということだろうか?


歴史ないものを歴史あるものに、権威の無かったものを権威あるものに、見せる方法

長州藩と薩摩藩は江戸時代幕末でお馴染みのことと思う。明治維新の立役者。
王政復古(天皇主権)の中央集権国家の誕生に深く関わり、明治時代を支配した藩閥政治の二大勢力である。
明治政府が掲げたのは富国強兵だった。軍事力強化と経済発展により近代化を目指したのである。
それを遂行するたの政策が学制・兵制・税制の改革、そして殖産興業(近代産業の整備)であった。
それとともに明治政府の根幹をなす思想が「脱亜入欧」であった。脱亜細亜であり入欧州(もしくは欧米)である。

上記は私がこの記事に書いたものだ

現在のようなスタイルの天皇は明治時代から始まっていると考えるべきである。
現在のようなスタイルとは何かと問われれば「治外法権」である。
天皇をはじめ皇室には誰も文句一つ言えない状態を作り出し、手紙を渡すことさえ許されないという神格化を図る。(こちらはそのキャンペーンだと思われる
敗戦国としての天皇のイメージを一掃したのが現天皇の御結婚(貴賤結婚と結婚パレード)だろう。
勲章・褒章制度や園遊会は定期的に天皇の権威を補強している。
明治政府は富国強兵路線であったのだから、このようなものを見れば空恐ろしくもなる人もそりゃあいるだろうと思う。






by yumimi61 | 2014-12-06 12:28