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甍(いらか)百七十七

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託宣は実力に非ず?

第14代仲哀天皇の妻であり、現在第15代天皇とされている応神天皇の母でもある神功皇后。
日本書記では仲哀天皇よりも多く説話が記載されているにもかかわらず、明治・大正時代に第15代天皇から外された女性である。
しかしながら今日までの定められた125名の天皇の中で「神」を冠にした天皇(皇后)は初代天皇の神武天皇と神功皇后のみだ。
彼女の説話は託宣(神が人に掛ったりのり移ったり夢の中に現れたりして意志を告げること)に彩られている。
彼女が神と言うよりも「神の功(功績)」を体現した人物であったのだろう。
それを外すというのは神の功を認めないということでもあり(実力ではないと見做したのか)、なかなか大胆な決定である。
神功皇后と卑弥呼が同一人物ではないかという説がある。

天皇からは外されたものの、明治時代からから太平洋戦争敗戦までは学校教育の場では実在の人物として教えていたそうである。
敗戦後にGHQの指導の下で教科書から一斉に削除された。今では教科書に載る事はなく知名度もない。現在では実在説と非実在説が並存している。

神功皇后は三韓征伐で名高い人であった。(一般的に語られている神功皇后像はWikipediaを参照してください)
要は朝鮮半島(新羅)に戦争を仕掛けたということである。
それは神の託宣でもあったわけで、それを認めなかったのが第14代仲哀天皇である。
仲哀天皇が応神天皇の父で、神功皇后が応神天皇の母となっている現在の系譜では、つまるところ皇室が縁を感じている継体天皇の先祖が神を信じず、また一方では神の名を借りて朝鮮半島を征伐したということになってしまう。
このあたりが外交問題に影を落とすため扱いに慎重にならざるを得ない側面もあるのだろう。

しかし不思議なもので、日本で初めて紙幣の肖像に選ばれた人物はこの神功皇后だったのだ。
しかも明治時代、天皇から外した後のことである。


三国の間違いと混乱

新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。

三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。


この「三韓」や「三国」の考え方が皆間違っていると思う。
「三韓」とは、馬韓・弁韓・辰韓の3つ。
これに相応する「三国」は、百済・任那・新羅の3つであり、百済・新羅・高句麗ではない。
統一新羅を挟んで、「後三国」時代には、後百済・新羅・後高句麗(高麗)となる。
「後三国」の後は「高麗」(918~1392)が朝鮮半島を統一した(936~1392)。
「高麗」というのは後期高句麗の正式な国号であった。
つまりこの時代に半島を統一したのは高句麗だったと見做すことができる。
その後は第二次世界大戦後に38度線で分断されるまで朝鮮半島は基本的に統一の国家だったのだ。

前の記事に朝鮮半島の地図を掲載したのでそれを思い出してほしい。
古くにも高句麗が半島で勢力を拡大している時代があった。
南朝の国々が亡びるかどうかの瀬戸際である。
神功皇后の「三韓征伐」はおそらくちょうどその頃のことであろう。
答えは簡単だ。神功皇后は「三韓征伐」ではなく「三韓援護」に行ったのである。
そしてたぶん「三韓」時代ではなく、「三国」時代のことだろう。
神功皇后が高句麗を討ったお蔭で国は滅びずに済んだ。
だから「三韓(三国)」は神功皇后に頭が上がらなかった。
朝貢は強制されたものでなく自発的なものであったのだ。

日本書記の神功皇后の箇所には「高麗」という名称が登場している。
中国の王朝がこの自称を公認したのは520年が最初で、以後は「高麗」が正式名称として認められていたようだ。
しかし現代の歴史教科書的には上に書いた年代が高麗であって、この時代を「高麗」としては扱っていない。
日本書記の完成は720年であるから、「高句麗」ではなくて自称公認正式名称の「高麗」を使用したということになる。





日本書記における仲哀天皇と神功皇后の箇所の現代語訳は、こちらこちらを参照してください。

明日、この下に続けます。


アナタハカミヲシンジマスカ?(この際単刀直入に聞いてみました?)

日本書記では新羅征伐の前には熊襲征伐がある。
熊襲は九州にいた反大倭勢力である。
それを大倭政権は憂慮し、第14代仲哀天皇が九州に乗り込んだ。
そこに神のお告げがあったのだ。介したのは神功皇后である。
「天皇はどうして熊襲の従わないことを憂うのか。そこは荒れて痩せた地である。戦いをして討つに足りない」(原文:天皇何憂熊襲之不服 是膂宍之空國也 豈足擧兵伐乎

この後に「もっと良い国があり、そこを討てばその国は従い、熊襲も従うであろう」というようなお告げも記されている。

リンクした現代語訳ではこのように記されている。
「もしよく自分を祀ったら、刀に血ぬらないで、その国はきっと服従するであろう。また熊襲も従うであろう。その祭りをするには、天皇の御船と穴門直践立が献上した水田――名づけて大田という。これらのものをお供えしなさい」と述べられた。

原文はこちら。
若能祭吾者 則曾不血刄 其國必自服矣 復熊襲爲服 其祭之 以天皇之御船 及穴門直踐立所獻之水田 名大田 是等物爲幣也


若くまた柔らかな能を我がものとして尊べば、決して血を流すことなく、その国は必ず自ら服するだろう。また熊襲も従うであろう。その祭りには天皇の御船と穴門直践立が献上した水田―名を大田と言う、これらのものを供えなさい。

しかしそう、仲哀天皇はどうしてもそれを信じることが出来なかった。
信心が無いというよりも現実主義者だったのかもしれない。
結果どうなかったと言えば、「これほど言っても信じないのならば、あなたはその国を得ることは出来ない。皇后はいま身籠り始めているが、その子が得るだろう」と神に最後通告され、なお信じられずに熊襲を討ったが勝てなかった。
如此言而 遂不信者 汝不得其國 唯今皇后始之有胎 其子有獲焉 然天皇猶不信 以強撃熊襲 不得勝而還之


同盟国はどこだ?

ここでひとつ考えるべきは、新羅(または南朝三国)と九州熊襲との関係である。
新羅を討てば熊襲も従うと言っているのだから、熊襲よりも新羅のほうが実力や価値が格上であり、且つ2つは同盟関係にあったようだということが分かる。
しかし私は新羅(三国)を討ったとは思っていない。新羅(三国)ではなくて高句麗だったろうと推測している。
この場合には熊襲よりも高句麗のほうが実力や価値が格上であったと言い換えることもできる。
そこで3つの仮説が立つ。

①新羅(三国)の敵であった高句麗を討ち、新羅(三国)が大倭に服せば、同盟関係にある熊襲も従うよりほかない。・・・・・九州の熊襲は新羅または南朝三国と同盟関係にあった。
②新羅(三国)の敵であった高句麗を討って、朝鮮半島の和平を保てば、同盟関係にある熊襲も従うよりほかない。・・・・・九州の熊襲は高句麗と同盟関係にあった。
③南朝三国ありながら「新羅征伐」と新羅だけ抜き出されているのは、他の2国は新羅と立ち位置が違った可能性あり。・・・・・百済は高句麗と同盟関係にあった。九州の熊襲は百済及び高句麗と同盟関係にあった。(任那は倭国領)

ここではっきりと分かるのは、九州付近にあった国と大倭は別国(別朝廷)であったということ。
そして九州付近にあった国に大倭を乗っ取られたのだろう。
日本書記などの歴史書の中ではかつて別国だったこれらを混在して扱っていると思われる。
それは自称「倭国」が生みだした混乱と秘匿でもある。
それから現在の九州が全て同一国に属していたかどうかも疑問に残る点である。


それは戦争だったのか?

神功皇后は仲哀天皇と違って、神のお告げを信じる人であった。
またそれが神の教えであればあらゆる神を受け入れる姿勢が見てとれる。
こうした人物が女性であったことも大きな意味を持っている。
だからこそ身籠りに重なったのだ。

そこで気になるのが本当に戦ったのだろうかということである。
神は「若くまた柔らかな能を我がものとして尊べば、決して血を流すことなく、その国は必ず自ら服するだろう」と言ったのだ。(若能祭吾者 則曾不血刄 其國必自服矣)
皆さんはどうお考えでしょうか?
これならば戦いはないだろう?

あまーい! そう考えるから失敗するのだ。
彼女は信心があり、神を頼りにするような人物でありながら、実は闘争力も持ち合わせていたのだ(ろうと思う)。

神功皇后の新羅征伐の項は非常によく書けている。(先生?) まさに言葉の妙。
戦ったようにも戦わず別の方策をとったようにも解釈できるよう記されているからである。
どちらを取るべきかと人々は悩み、また言い合いをする。-激しい競争と混乱。そこには受験戦争にも似た戦争を見ることができるのだ。(全然悩まなかった?)




by yumimi61 | 2014-12-09 22:50