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甍(いらか)百八十四

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昨日の続きです。
古事記にて鏡と八尺勾玉が登場した場面。

明言が生まれる時

天香山之五百津眞賢木矣根 許士爾許士而【自許下五字以音】 於枝取著八尺勾璁之五百津之御須麻流之玉 於中枝取繋八尺鏡【訓八尺云八阿多】 於下枝取垂白丹寸手青丹寸手而【訓垂云志殿】 此種種物者 布刀玉命布刀御幣登取持而 天兒屋命布刀詔戸言禱白 而天手力男神隱立戸掖而 天宇受賣命 手次繋天香山之天之日影而 爲𦆅天之眞拆而 手草結天香山之小竹葉而【訓小竹云佐佐】 於天之石屋戸伏汚氣【此二字以音】蹈登杼呂許志【此五字以音】 爲神懸而 掛出胸乳 裳緖忍垂於番登也 爾高天原動而 八百萬神共咲
天の香山のよく繁っている賢木(さかき)を根ごと掘り起こして、上の枝に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠を取り付け、中の枝に八咫鏡(やたのかがみ)を取りかけ、下の枝に白和幣(しらにきて)・青和幣(あをにきて)を垂れかけ、この種々の品は、フトダマ命が太御幣(ふとみてぐら)として奉げ持ち、アマノコヤネ命が神聖な祝詞を唱えて、天の手力男(アメノタヂカラヲ)神が脇に隠れて立ち、天の宇受売(アメノウズメ)命が天の香山の天の日影を襷(たすき)にかけ、真拆の蔓をカツラにして、天の香山の笹の葉を束ねて手に持ち、アマテラス大神がお隠れになった天の石屋戸にの前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、胸乳をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げたので、タカアマノハラが鳴り響き、八百万の神が一斉に笑ったのです。
賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。アメノコヤネが祝詞(のりと)を唱え、天手力雄神が岩戸の脇に隠れて立った。天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。


天香山の五百津の眞賢木(真榊・さかき)を根こそぎにして、

原文はこの部分である。
「天香山之五百津眞賢木矣根 許士爾許士而【自許下五字以音】」
ここも非常に分かり難い箇所。
文献によっては根を右側に寄せているものもある。「天香山之五百津眞賢木矣 根許士爾許士而【自許下五字以音】」 
これは「根掘ず(ねこず)」という言葉を意識しているからだ。(根は訓読み)
「矣」は文末に使う終尾詞で、断定や強調の意味を持ち、音としては読まない場合が多い(置き字)。読むとすれば「い」。
また時に「かな」や「か」と訓読みし感嘆を表すこともあり。
しかしこの文章「天香山之五百津眞賢木矣根」には動詞と思われる語がない。
音読みが指定されている「許士爾許士而【自許下五字以音】」は「こじにこじ」と読むことになる。
当て字なのでここでは1つ1つの漢字の意味は問わない。よって表面的には動詞がないことになる。
だからこその合わせ技で「根掘ず」という動詞を起こしたのだ。

2つの「こじ」が同じ漢字を使用しているので、それに倣えば「誇示に誇示」「固持に固持」「固辞に固辞」という強調した言葉になる。
1つの意味であるならば当該漢字を使えばよいわけで、そうしなかったということは、その全てに該当するということなんだろう。
例えばこんな感じになる。
  「誇示に誇示」-世紀の大発見
  「固持に固持」-STAP細胞はあります。私自身は200回以上成功しました。
  「固辞に固辞」-絶対にやめません。

もうひとつ考えられるのが「故事に虎子」。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という故事成語を思い出したのだ。虎という字が重なる。
危険を冒さなければ大きな成功は得られないという意味である。
そうなれば「古寺に虎子」もありか。
「虎の子私の庭」(南禅寺

これらを踏まえた上で文章にすればこのようになる。
おおこれが天香山の五百津眞賢木か!と根ごと堀上げ丸ごと誇示し、
神に供える榊(さかき)は枝でよいにもかかわらず、欲張って根こそぎ引っこ抜いて供えものにしたという意味である。


上枝を取って「八尺勾璁の五百津の御須麻流の珠」を飾り付け、 中枝を取り「八尺の鏡」を繋げ、下枝には「白丹寸手と青丹寸手」を垂らし、これらをまとめて布刀玉命が布刀御幣として取り持ち、天児屋命が布刀詔戸言(布刀祝詞)を唱えた。

於上枝取著 八尺勾璁之五百津之御須麻流之玉
於中枝取繋 八尺鏡【訓八尺云八阿多】
於下枝取垂 白丹寸手青丹寸手而【訓垂云志殿】

「白丹寸手と青丹寸手」は今で言う「紙垂(しで)」。「四手」と書くこともある。
【訓垂云志殿】という注釈があるのでそれに倣えば「しでん」だが、紙垂で「しで」も当て字であることから、「しでん」が「しで」に変化したのだろう。
神社や神棚やお祭りの時などに垂らしてある独特な形の白い紙のことである。
昔はそれが紙ではなくて布だった。
それを木(串)に挟んで捧げ物や依り代、祓い具にしたのが御幣。

問題になるのは、現在もこれを根拠に「三種の神器」の1つとして取り扱われている鏡である。
これは②で伊斯許理度売(イシコリドメ)命に作らせたものだろう。
八尺鏡で【訓八尺云八阿多】という注釈があり、訳文を見ると「八咫鏡(やたのかがみ)」と訳(解釈)されている。
指示は八尺を訓読みしなさいということであり、その読み方「八阿多(はちあた)(はつあた)」を示しているのである。
尺という漢字には訓読みがなく、どうしても無理にあてれば「せき」となる。
だから尺部分には何が座してもいいと解釈する。

八は音訓に逆のイメージを持ちやすいが、音読みが「はち」や「はつ」であり、訓読みは「や」「やつ」「やっつ」などである。
また「咫」という漢字は音読みで「し」、訓読みなら「た」である。通常「あた」とは読まない。
それなのに強引に「咫」に「阿多(あた)」を当てはめたようだ。
しかし後ろめたさがあるのか、「八咫」を「やあた」とは読んでいない。元の訓読みを当てて「やた」と読ませている。

なぜこんなことが起きたのかと探ってみたら、どうも八が鍵になっているようだ。
八咫鏡を読むと何となく背景が見えてくる。
咫(あた)は円周の単位で、約0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていた。したがって「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)の円鏡を意味する」という。
八(8)に囚われてしまったのだろう。
古代中国での長さの単位の「咫」は「あた」ではなく「し」である。

八や尺が意味するものはおそらく楽器の尺八である。
尺八という名は長さが一尺八寸(約54.5cm)であったことに由来する。
また尺八は古くにはオーラルセックス(フェラチオ)の隠語であった。
0.8尺、つまり尺(約30cm)の八掛け(約24㎝)が、「八尺」になったのであろう。

では注釈の「八阿多」は何を意味したのかといえば、地名の「阿多(あた)」だと思う。
九州・鹿児島県(薩摩国)に古くからある地名である。
八は発に掛けているのかもしれない。
鍛冶屋が金属から作った鏡だから光っていたのかもしれない。


天手力男神が殿脇に隠れて立った。

天手力男神(アメノタヂカラオ)は、漢字のとおり「手の力の強い男神」の意であり、腕力や筋力を象徴する神。
現代では力の神・スポーツの神として信仰されているそうだ

スサノオと天照大御神が剣と勾玉から子を作り出した時に、剣から生まれた子(スサノオの子)が女子であったためスサノオが私の心が清いからだと勝ち誇ったことを、覚えているだろうか?
原文ではその女子を「手弱女」と書いている。
手力男⇔手弱女、このような対比があることが分かる。

一般的には世を治めるような立場にいる人は跡継ぎに男子を臨むと思う。
昔の君主(上に立つ地位の人)というのは知力だけでなく武力(またはそれらをまとめ指揮する能力)も必要だった。
武力は不可欠なものだったのだ。従って肉体的生理的に男性のほうが適している。
だからスサノオの子が女子であったことを勝ち誇ったことを私は意外に思った。
しかし後の文を読んでいくとその理由が分かる。
「手弱女」を男が喜ぶ場面や場所があるということだ。それは統治の場ではない。
スサノオが海原を与えられたにもかかわらず統治が嫌だと泣き喚いたこともそれで腑に落ちる。


天宇受売命が天香山の天の日影の手次を繋ぎ、天の真拆を髪飾りにし、天香山の笹葉で手草を結った。

天宇受売命 手次繋天香山之天之日影而
手次というのは代々受け継いでいくこと。手次寺などという言葉もある。
訳を見ると「襷(たすき)にかけ」とある。
駅伝のバトンになるのが襷で、「襷リレー」とも言ったりするから、これも比喩の一種には違いないが、若干意図するものがぼやけてしまう。
ここは前述したように継承における男女差、統治の場とそうでない場の対比の暗喩である。
それは天宇受売という名にも記されている。
「宇」という漢字は、建物の軒(のき)や庇(ひさし)、帽子のつばなど、陽射しや雨を避けるものの意がある。
ある意味、空(天)との境と言えなくもない。それを受けたり売ったりするという名前である。
つまりこの場合には日影(日陰)を継承したであろうことが示唆されている。

爲𦆅天之眞拆而
真折というのは「蔓柾(ツルマサキ)」という植物の別称とされている。「柾木の葛(マサキノカズラ)」という別称もあり。
柾(まさ)という字は正(まさ)と同語源。
よって「真を折る」と書き「柾」であるとするのはなかなか意味深。

手草結天香山之小竹葉而【訓小竹云佐佐】
「小竹」は読みが「ささ」と指定れている。
現代でもそう読ませることがあるが古事記由来なんだろうか。
竹と笹は植物学上は別物だが見た目がそっくりなので区別が付けにくいものである。、


天の石屋戸にて受けを伏せ、戸女郎虎視(コジョロコシ)を踏む。

於天之石屋戸伏汚氣【此二字以音】蹈登杼呂許志【此五字以音】
須らく「石屋戸の前で桶を伏せて踏み鳴らし」と訳されている部分である。
音で「登杼呂許志」と読むべしという箇所を「とどろきし(轟し)」と読んでいるが、音読みではそうは読めない。
また続き文で主語も見当たらないことから前にある天宇受売命を主語と考えている。
しかしこれは全く違うと思われる。

主語は⑦に登場した戸の脇で待機している天手力男神である。
「汚氣」は女の子が生まれたスサノオの「清らかさ」との対比である。
汚れた気持ちを伏せたということになる。
そしてここでは「汚氣」が音読み指定となっている。
これをみな「おけ」と読んだ。汚物を受けるものが桶だとすればそれも間違いとは言えないが、これでは狭く弱い。
ここは「うけ」と読む(そう音読みできます)。受けを伏せたのである。
ここでの受けは、天照のあるべき姿や正しき継承、子を慈しみ生み育てること、明確な境界(宇)、他人からの要請、他者に受け入れられること(他者が面白がったり喜んでくれること)などである。
もちろん桶を伏せての汚物拒否も含むことができる。しかしはたしてそれは「清らかな心」なんだろうか。
ちなみに古い漢字で「汚」は「汙」である。

もう少し詳しく訳せばこうなる。
・天の石屋戸にて受けを伏せ、虎が獲物を狙う時のように鋭い目つきで辺りを見回しながら、戸の脇でその時を(女郎*を)待っていた。  *女郎(じょろう)は「じょうろ」とも「じょろ」とも言う。

・天の石屋戸にて受けを伏せ、上がりで女郎は子死だと踏む。
 (この場合の踏んだは、経験あり、そう予想した、願った、それが当然だ、などの意味)
 (上がりは、遊郭の言葉に「上がり花」とあるように待っている状態、玄関の境目にある横木の「上り框」などを念頭に)
 (戸を上がりと訳したが、結果を待つ上がりと、始まりの上がりに掛けている)


神懸かりして、上衣(トップス)を脱ぎ捨て胸乳を露出し、下衣(ボトム)の紐を陰部に忍び垂らした。
すると高天原は動き 数多の神々が共に咲きし。


爲神懸而 掛出胸乳 裳緖忍垂於番登 爾高天原動而 八百萬神共咲
この文章は掛が使われているだけあって様々なものに掛けられている。

=掛出胸乳= ※胸だけでも乳だけでもないところがポイントです!
駆け出す
掛け(身に着けているもの)を出す(取る)
胸乳(乳房)を出す
胸の内を出す
八(掛)の八を出す
繋がっているものを出す
命がけや心がけなどの掛けを追い出す

=裳緖忍垂於番登= ※忍という字がポイントです!(説明する必要あり?)
下衣の緒(紐)を陰部に忍ばせ垂らす
下衣の緒が陰部から忍び垂れる
へその緒を垂らす
下心が丸見えになる

皆さんが「八百万の神が一斉に笑った」と訳している箇所「八百萬神共咲」を、私は「神々が共に咲きし」と訳した。
たしかに咲には笑うという意味がある。
それはそれでよいが、もうひとつ「綻ぶ(ほころぶ)」にも掛っていると思うのだ。
網目や布がほどけること、笑顔になること、花が咲きだすこと、隠していたことがばれだすこと、鳥が鳴くこと。
笑顔や花の開花以外に、裂くことや破綻することを重ねることが出来てしまう。
そしてまた「共に咲く」ということには、「一緒に咲く」という意味と「共(仲間・従者)に咲く」という2つの意味が成立する。
笑いには、姿がおかしかったことへの笑い、自分を見失っていることへの嘲笑、共が生まれることに対する喜びの笑いがある。
もちろん笑いではない「咲」もあるはずだ。

神懸かりしたのは天宇受売命だった。
こともあろうに、境の受け売りが使命の神が、境(衣服やらなんやら)を見失った姿が描かれている。






by yumimi61 | 2014-12-18 12:38