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甍(いらか)百八十七

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また、まだ、古事記の続き。

無敗、無配、無杯

於是 八百萬神共議而 於速須佐之男命負千位置戸 亦切鬚及手足爪令拔而 神夜良比夜良比岐
そこで八百万の神は共に相談し、スサノヲ命に罪を償わせるためにたくさんの品物を科し、また髭と手足の爪とを切ってタカマノハラから追放しました。
八百万の神は相談し、須佐之男命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。

この時に八百万の神は協議し(相談しあい)、スサノオについては千位置戸を負わせ、また鬚を切り手足の爪を抜くよう命じて、神の夜の良さと夜の良さを分けた。 ・・・・・私の訳

現代では「千位置戸」を罪に科せられたもの(財産没収など)の意で捉えられているが、これも完全ではない。
その不完全さは、こちらにもあるように「神が神を裁き追放したのだろうか?」という疑問として一部表出するが、十分なその答えを見たことはない。

そのヒントは漢字にある。
「位」という漢字はもともと人が立つという意味であった。
「戸」に立って、汚氣/汙氣(受け、桶)を伏せたのは、天手力男神であった。
そして彼が天照大御神を引きずり出したのである。
天照大御神の統治していた地の掌握に成功した八百萬神にとっては彼が直接の功労者となる。
きっかけを作ったのはスサノオであるから間接的な功労者とでも言えばいだろうか。
ノーベル賞のように基礎と実用と考えてもいいかもしれない。
つまりスサノオに直接的功労者(転じて見合った高い位)を授けたということである。

多くの場合、「負」という字に「負ける」を見てしまうので良いこととして捉えられないのだが、「負」の元々の意味は価値あるものを背負う(背にする)ということである。
価値あるものを表現したのが「貝」である。(貧困の貧は貝を分けている状態)
実はここにも前述した「即」の状態、対立している二つの事柄が実はとても良く似た背中合わせのものであるということが示されている。
「負けるが勝ち」(負けるが価値)などという言葉にもそれが表れている。

八百萬神は強奪によってそれを奪ったのであり、それが悪であるとの認識を持っていることを垣間見せている文章でもあるのだ。
負い目を感じている。
しかしその負い目を作った者はスサノオと天手力男神であるというのが八百萬神の見解である。
八百萬神は、それが賞であっても、罰であっても、受け取る者にはならない。あくまでも与える側である。
自分こそがここを仕切る神であり君主であるという自負があるからである。
一つ場所に君主は何人もいらない。いては困る。
そのことを加味すれば、「八百萬神」にも「神の数が多い」という意味と、「数多の力を持つ唯一の神」という意味が背中合わせに存在することが分かる。
そしてやがて神は紙(紙幣)にとって代わるのである。

またここでは授けた褒美が自分の物ではなく、他者から巻き上げた物であることも示唆される。
他者が供えた物(賽物・賽銭)を分け与えてやったのだ。
漢字として記されてはいないが、ここに「祓(払)」を見ることもできる。
邪魔なものや不要なものや嫌いなものを取り除く、除ける、開けるという意の「払」。
注意を払う、敬意を払う、犠牲を払うなど、心や大切なものを注ぐ「払」。
金銭を渡す「払」。
千位置戸には対価と代償という2つの意味が含まれている。


鬚を切り、爪を抜いた理由?

まずはこちらに書いたスサノオの誕生と与えられた場所、そこでの統治が嫌で泣き喚いたことなどを思い出してほしい。
そこでは細かく文章には触れなかったが、その箇所にこんな文がある。

故各隨依賜之命 所知 看之中 速須佐之男命 不知所命之國而
八拳須至于心前 啼伊佐知伎也【自伊下四字以音下效此】
其泣狀者 青山如枯山泣枯 河海者悉泣乾 是以惡神之音如狹蠅皆滿 萬物之妖悉發

そうしてそれぞれ委任された言葉に従って治めていた中で、タケハヤスサノヲ命だけは命じられた国を治めず、長い顎鬚が胸元に届くようになるまでの間、泣き喚いておりました。
その泣く様子は、青山が枯山になるまで泣き枯らし、海や河がその泣く勢いで涸れてしまうほどでした。
そのため、乱暴な神の声が夏の蝿のように充満し、あらゆる禍いがことごとく起こりました。


ここでもうひとつの場面が浮かび上がってくる。こちらの「世相反映!?」に書いた箇所である。
・於是萬神之聲者狹蝿那須【此二字以音】皆滿 萬妖悉發
聞く耳を持たない数多の神々が忙しない蝿のようになって満ちており、あらゆる妖(妖怪・妖魔・妖気・妖婦など)が放たれている。
まるで今年の世相を反映したような文である。
「發」は発射という意味もあり、放たれると言えば鼻垂れるともなるわけ。
蝿は聖書に登場するベルゼブブを思い出させる。


2箇所の原文(漢字)を比較してみてほしい。そっくりである。
・惡神之音如狹蠅皆滿 萬物之妖悉發  →スサノオが海原の統治を拒否し泣き喚いている時の状態
・萬神之聲者狹蝿那須【此二字以音】皆滿 萬妖悉發 →天照大御神はスサノオを畏れて引き籠った時の状態

大きな違いは「悪⇔萬」、「聾」と「那須」の有無である。
下の方は為す術(那須)があったにもかかわらず聞く耳を持たなかったため、こうした状態が引き起こされたという意味が隠されている。
天照大御神はスサノオを恐れたのではなく畏れた、つまり溺れたのであろうことが分かる。
そしてここにも数の多い神と数多の力を持った天照大御神という2つの意味が重ねられている。
スサノオが泣き喚いている状態を示す「青山如枯山泣枯 河海者悉泣乾」は、泣くと枯れる(涸れる・駆れる・嗄れる・刈れる・狩れる)、溢れると困る、泣くのに渇く(乾く)などの関係性が上手く表現されている。


黄泉に行く覚悟

少し離れると忘れてしまいがちだが、スサノオは海原を統治せず父であるイザナギから追放されたのである。
それでスサノオは天照大御神のところに立ち寄ってから黄泉に行くことにしたのである。
この神話における黄泉というのは穢れの世界である。
つまり、天照大御神の地で穢れて黄泉に行く(追放される)ことは、スサノオ自身が立てた予定でもあったのだ。
黄泉での再生(更生)を願ったのかどうかは不明だが世捨て人となる覚悟だったのだ。
今風に言えば死を覚悟していたということになる。
死に至る方法には、自殺という方法もあれば、わざと事を起こして死刑に処せられるという方法もあり、自暴自棄となり病気や怪我をして死に至る方法もある。また単に殺されるという方法もある。
どんな方法であるにせよ、スサノオはそれが穢れであることを十分に分かっていたということである。
天照大御神はそれを制し諭し罰する必要があった。しかしそれをしなかった。


伊佐知伎とは何ぞや

鬚についても上で触れられている。この部分である。
八拳須至于心前 啼伊佐知伎也【自伊下四字以音下效此】

八拳須というのは八束鬚のこと。「須」という漢字は古くには鬚という意味があった。
鬚が心臓のあたりまで伸びていると記されている。
そして泣いていたのだ。
訳文には何故泣いていたのが書かれていない。
肝心な音読み指定の4文字「伊佐知伎」をガン無視している。
「伊佐知伎」の音読みは「いさちき」又は「いさちぎ」であろう。
「伊」という漢字には神の意志を伝える聖職者や統治者の意味がある。
「佐」には指揮官や脇で支え助ける者という意味がある。補佐官とでも言えばよいだろうか。
「伎」は巧みな技や芸達者という意味がある。
スサノオはただ泣いていたわけではない。
統治には技量が必要であること(それが自分にないこと)を知ったのだ。
または技量のある指揮官や補佐官がすでにいることを知ったのだ。

しかしそう、本来音読み指示の漢字一つ一つには意味がなくてもよく、むしろ「いさちき」や「いさちぎ」に意味があるはずなのだ。
これは同意を得られるか自信はないが「いせさき」(伊勢崎・群馬県の地名)ではないだろうか。
伊勢崎の隣には佐波郡という地もあり、群馬県では佐波伊勢崎などと括ることもある。
佐波郡に属するのは現在は玉村町のみ。
かつては赤堀町・境町・東村も佐波郡だったが、平成の市町村大合併にて伊勢崎市と合併し、玉村町だけが踏ん張って残っている形になった。
以前こちらに書いたが、小保方という姓は群馬県に多く、地名でも存在する。
これが旧佐波郡東村(現:伊勢崎市)内である。東小保方と西小保方がある。
またそれより以前に、徳川家康と関係があると言われている世良田という場所(旧:新田郡世良田村)は、新田郡尾島町(現:太田市と合併)と佐波郡境町(現:伊勢崎市と合併)にそれぞれ編入している。
ゴキブリが入っていたと報じられたカップ焼きそば「ペヤング」を製造販売する「まるか食品」は群馬県伊勢崎市に本社を置く会社である。
群馬県太田市は焼きそばの街を自称している。
ちなみにゴキブリというのはSONYファンの蔑称でもある。
また私は「まる」「丸打ち」というタイトルで記事を書いたことがある。
泣き喚いていた洟垂れ小僧の「いせさき」は「いさちき」になってしまったのかもしれない。
しかしその中にはちゃんと「伊」や「佐」が入っているという落ちもありの。


鬚を切らせた理由

八百萬神は功労者であるスサノオに対し「技量がないなんて卑下する必要はない」というお世辞や励ましの意で鬚を切らせた。
泣き喚いていた時に鬚が伸びていたということは、彼は年齢的にはもう立派な大人であることと(速が名に付くので飛び級で大人になったのかも)、伸びた鬚が無精鬚であることを伝えている。
その鬚を切らせたということは自立を促したということになる。

また鬚は高い世界(神)との繋がりの標にもなるものである。。
キリスト教やユダヤ教のレビ記では「あなたがたのびんの毛を切ってはならない。ひげの両端をそこなってはならない」と記されている。
イスラム教でも鬚がなければ一人前と見做されない。
びんは漢字で書けば「鬢」であり、 耳際の髪や頭髪の左右側面の部分。
これは聞く耳を失ってはいけないということだろう。
謙る(卑下する)ことが出来てこそ一人前。上位世界への第一歩。
君主であるならば助言に耳を傾ける必要がある、御付の者が必要という教えになるし、君主でない者ならば神の教えに従う必要あり、上位世界との繋がりには自分を卑下することが重要という教えになる。
こちらの記事の「コリン☆あります」に書いたことと似ていて、尊い教えを土煙で見えにくくした消える魔球のようになっているのだった。
差がないようで差が明らかにあるということが隠されていたりもする。

「鬢(びん)」の下部は来賓や国賓などといった言葉に使われる「賓」という字。大切なお客様。
賓は大事ではあるが決して主ではない。その場に置いては脇役である。
頬髯を意味する髯(ひげ)という漢字の下部は再という字の上の横棒がないものである。
八百萬神がスサノオのどこの鬚をどの程度切らせたのかの情報はないからおそらく全部すっきり切らせたのだろう。
そこには自立した大人の姿と聞く耳を持たず教えに従わない人物像が見え隠れし、上位世界との繋がりを失ったことが示唆される。


爪を抜いた理由

啼いていたスサノオはどこか野性味漂う。
スマートさでも単なる弱々しさではないものを感じさせる。
形振り構わない泥臭さがある。
爪は野生の生き物が生きていく上で重要なものである。
それを抜かれたたということは闘争力を失ったことを意味する。
気が変わり、まかり間違って、天照大御神の代わって自分が統治者になるなどと言いだされては始末に悪い。
また下手に褒美をやり過ぎて自分達が追い込まれるほど力を持たれても困るから、飴とムチのバランスが大事となる。
爪を抜き、手柄への褒美はそこそこに。
去勢の一種だが、手柄は評価し立てなければ。






by yumimi61 | 2014-12-23 13:16