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甍(いらか)二百

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ちまた

日子番能邇邇藝命將天降之時 居天之八衢而 上光高天原下光葦原中國之神於是有 故爾天照大御神高木神之命以 詔天宇受賣神 汝者雖有手弱女人 與伊牟迦布神【自伊至布以音】面勝神 故專汝往將問者 吾御子爲天降之道誰如此而居 故問賜之時答白 僕者國神名猨田毘古神也 所以出居者聞天神御子天降坐 故仕奉御前而參向之侍爾
そこでヒコホノニニギ命が、天降りをしようとする時に、天の八衢(やちまた)にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神がここにいた。
そこで、アマテラス大御神とタカギ神はアメノウズメ神に「お前はか弱い女であるが、向き合った神に気後れせずに勝つ神である。そこで、お前一人で行って尋ねて、『私の御子の天降りする道に、そのように居るのは誰か』と尋ねなさい」と命令した。
そこで、尋ねる時に彼が答えて言うには、「私は国つ神で、名は猿田比古(サルタビコ)神である。出て居るのは、天つ神の御子が天降りすると聞いたので、先導役に仕えようと思い、迎えに参りました」と言った。


・天之八衢(天の八衢)とは四方八方に通じる道の事。分岐点である。
境界でもあるし、ターニングポイントとも言える。
「衢(ちまた)」は「巷」や「岐」と同語源で、「道の股」ということ。
その場所で上の高天原と下の葦原中国に光を当てていた神がいた。
光を当てるということは道を照らすということで、交通案内・交通整理、振り分けのような役目を担っていると考えられる。
それが誰なのか確認させる役目を命じられたのが天宇受売神だった。

・天宇受売神を覚えているだろうか?天岩戸の話に出てきた神である。
こちらの⑧で名前の「宇」の説明をした。
この神もまた境にいる神なのである。但し「衢」ほど多くの道(境・選択肢)は担当していないと思われる。
確認役に天宇受売神が選ばれた理由は、雖有手弱女人與伊牟迦布神【自伊至布以音】面勝神、だとお上の方々に認められているからである。
「伊牟迦布」の音読みは「いむかふ(いむかう)」。
「手弱女であって(あるけれども)、向かい合う神、面に勝つ神だから適任」と認められているのだ。
これはこちらに書いた「鏡よ鏡よ鏡さん」の出来事を踏まえている。
天照大御神に対して、「あなたより役に立って貴い神がいる」と言い切った神である。
神懸かりして、胸乳を露出し、紐を陰部に忍び垂らした神である。
天照大御神から金に執着していただろう八百萬神や思金神が実権を奪い取った際の立役者である。
天照大御神が現役ならば、天宇受売神もまた現役。

・天の八衢に派遣された天宇受売神が問えば、「国神(国つ神)の猿田比古神」と名乗った。
そして「ここに居るのは天神の御子が降臨すると聞いて出てきたから」と答え、「天神御子にお供する所存でございます」とも言う。
つまり天宇受売神が尋ねた神は天の八衢に居て役割を担っている神ではなかったのだ。
野望を持ってどこか違う国から出てきて、天神御子を待ち伏せていただけのことである。
高天原と葦原中国が光っていたというのは、その選択肢しか持たなかったということ。
交通案内の助言や本人の意思を聞く耳を持たない者たちには、高天原と葦原中国のみが光っていたように見えた。
道の途中で遭遇する犬・猿・雉をお供にする童話『桃太郎』を彷彿する。


星は五つの天でえがく

天兒屋命布刀玉命天宇受賣命伊斯許理度賣命玉祖命 幷五伴緖矣支加而天降也
そこでアメノコヤネ命、フトダマ命、アメノウズメ命、イシコリドメ命、タマノオヤ命の合わせて五伴緒(いつとものを)を従えさせて、天降りをした。

天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命、物事の始まりに伴った5者を支えに加えて天から降りた。

こちらの記事に名を連ねる面々。天照大御神を誘き出す作戦に加担した者たちである。
ここでも天照大御神のいる世界は世代交代しないのだということを窺い知ることが出来る。
この記事の「鏡よ鏡よ鏡さん」の後に書いた部分と関連するが、天照大御神は後継者を失う(殺してしまう)象徴なのだ。

・5者を「五伴緒神」と命名したようで辞書にも掲載がある。
「幷五伴緖矣支加」から名付けられたものだと思うが、ここは「矣」が意外に重要。
「矣」は終尾詞として文末に置かれ、断定や確認の意味を持つ。すなわち強調となる。
「伴」と「緒」、要するに、伴うこと、一緒であること、物事の始まりを強調した上で、御伴に加えたとある。
その後に「支」が使われている。「伴」(伴う)と「支」(分かれる)は対比語にもなるが、「伴」(ともなう)と「支」(支える・つかえる)のように同類の語ともなる。
みな支配下にあり分かつ者がいないことや別の道がないこと、さらには新たな支配を加えることなどが示唆されている。
また「支」は支度や支給などにも用いられることから分かるように物事をはかっていることが暗示されることから、天宇受売命を派遣する前からすでに準備されていたとも取れる。

・「支」と言えば、そう、「支那」を思い出す。
この支はいったいどういう意味だったのだろうか。
「那」という漢字自体には拒むような理由はないと思われるが、そうだとすれば重要になるのは「支」であろう。
その場合、「那」は固有名詞的に捉えられていると考えられる。
さらには「科(しな)」と読みが重なることが、「支那」が忌避される理由なのではなかろうか。


変化

この後に有名な「天孫降臨」と「その時に持たせた三種の神器」が来る。
しかしこの辺りから急に漢文の文体が変わっている。
どういう漢文が正統派であり高尚なのか、私もはっきりと分かるわけではないが幼く拙い印象を受ける。
だからというべきか、それにも係わらずというべきか、ここからの文は非常に分かり難い。
また内容もこの辺りから初代天皇の話が始まるまでは、どちらかと言えばおとぎ話や童話のような感じとなっており(ただし身籠る話などはある)、統治の話からは遠ざかっていく。


肖ってほしい

於是副賜其遠岐斯【此三字以音】八尺勾璁鏡及草那藝劒 亦常世思金神手力男神天石門別神而 詔者此之鏡者專爲我御魂而 如拜吾前伊都岐奉 次思金神者取持前事爲政
そこであの八尺の勾玉、鏡、また草那藝の剣、また常世のオモヒカネ神、タヂカラヲ神、アメノイハトワケ神を副えて、言うには、「この鏡はひたすらに私の御魂として、私を拝むように敬い祀りなさい。次にオモヒカネ神は、私の祭祀を取り扱って政(まつりごと)をしなさい」と言った。


是にてあの「えんぎし」八尺勾玉鏡及び草那藝の剣、また常世の思金神、手力男神、天石門別神を賜り、詔は「この鏡(の者)を専ら私の魂として、我を前にして拝むがごとく治める都(聖職者の都)の分かれ道に奉りなさい。次に思金神が取持ち事の前には政(まつりごと)を成すように」であった。・・・私の訳

この直前は猿田比古神及び天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命が先に天から降りたことが記されている。
従ってこれから降りるのは葦原中国の統治者となるべき日子番能邇邇藝命であろう。

・其遠岐斯【此三字以音】八尺勾璁鏡及草那藝劒
音読み指定の「遠岐斯」は「えんぎし」で「演技を示す」「縁起担ぎ」などの意だと思われる。
「遠岐斯」を訓で解釈すると、離れて別の道を行ったり、分かれ道があるような状態というふうに取れるので、それが音読み指定により否定されているということ。
踊らすことに成功すること、、別の道を選ばぬこと、分かつ者がいないこと、新たな支配を加えることなどを願いに込めて持たせ添わせたのだった。
その願いを込めたものは、八尺勾玉草那芸の剣常世思金神手力男神天石門別神である。

●八尺勾玉と鏡は天照大御神の誘い出しに成功した縁起物。

●草那芸の剣はスサノオが肥の国で異なる物を見つけ天照大御神に渡したもの。異なったのは者(人)だったのだがスサノオは刀こそが異なる物だと思い込んでいた。しかし天界では異を唱える者や逆らう者から奪い取った物だから縁起物と見做している可能性もあり。

●いつか河原で思金神の発案により常世の長鳴鳥を集めて鳴かせていたが、ここで初めて思金神は常世の神だということが知らされている。河原の場面で登場した際には高御産巣日神の子であると記されていただけだった。
常世は死後の世界である。従ってこれをそのまま受ければ、高御産巣日神も、その子である思金神もすでに亡くなっていると考えられる。世代交代がありということだ。
高御産巣日神が亡くなっているとするならば、当然のことながら高木神(高御産巣日神の別名)も亡くなっている。死後の世界の神となっているはずだ。
天照大御神の弟のスサノオも須賀という国にいたはずなのにいつの間にやら黄泉国(根堅州国)へいることになっていた。
しかし天照大御神一派は交代もせず未だ天にいたのである。これはおかしい。
また常世の思金神が天に居たり葦原中国に行ったりと、気軽に移動していることはどのように考えるべきなんだろう。

●手力男神は天岩戸の戸の脇に潜んで、隙を見せた天照大御神を外へ引っ張り出した神。
直接の功労者で、一時八百萬神は間接的功労者のスサノオに褒美の一種として付き添わせるつもりでいたが、スサノオが無自覚にも八百萬神の機嫌を損ねてしまったため、手力男神は一緒に行かなかったと思われる。

●天石門別神はここで初めて登場した神。

・者と物の混同がいっそう激しくなっているようだ。
さらに奉りと祭りと祀りが混同されている。祭と政が一緒になる祭政一致も見られる。
統治の話をしていた大物主に大国主神が素っ頓狂な質問をして奉るように助言されたことがあったが、あの時に奉りと祀りと祭りが混同されていく兆しが見えた。
ここでは「鏡を私の魂と思って奉りなさい」との詔が紹介されている。
誰の命令なのか名が記されていないが、仮にも日子番能邇邇藝命へ命令する立場で鏡に関係が深いといえば天照大御神だろう。
(一緒には行かないが)これを私だと思って奉り拝みなさいと指示しているのである。

・罰を科す者に本当に大事な物は与えないだろうと思う。自分の地位すら継承させていないのだから当然だろう。
我が国に相応しくない者が改心し、あわよくば降りた国が我が国のようになれば万々歳といったところ。
御守りとお目付け役や補佐役を添わせたに過ぎない。







by yumimi61 | 2015-01-08 11:06