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大正 伍

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大正時代

大正時代は1912~1926年。
大正天皇は明治天皇と側室(妾・官職)であった柳原愛子との間に生まれた子とされている。
明治天皇の皇后には実子がいなかった。
明治天皇には複数の妾がいて子も産んだがみな早世してしまい、子が皇位継承するとなると大正天皇以外の選択肢がなかったようだ。
この大正天皇は生まれつき病弱だったそうで、それが分かっていて継承させたということになる。
大正時代に確定された歴代天皇系譜では大正天皇が第123代天皇となる。

即位から5年後の1917年頃から病気が悪化し、公務を休むことが多くなった。
1919年(大正8年)には食事を摂ることも勅語を読むこともできなくなるほど病状は悪化していた。1920年(大正9年)3月26日、東京大学教授三浦謹之助は「幼小時の脳膜炎のため(中略)緊張を要する儀式には安静を失い、身体の傾斜をきたし、心身の平衡を保てない」という診断書を提出した。これを受けて松方正義内大臣が原敬首相に摂政の設置を提案したが、当面は天皇の病状を公表して関係者や国民の心の準備を待つこととした。摂政設置の動きが活発化するのは翌1921年(大正10年)半ばからである。
1921年に11月に天皇は詔書を発して、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)を摂政に任命した。
1901年4月29日生まれなので若干20歳の若者に君主代行が任されたわけである。
1926年12月25日(クリスマス)に崩御したということだが、死の原因となった病名や死因は発表されていない。47歳だった。
重い病気を患っていたということだが、病気というのは脳性麻痺や発達障害、脳機能障害、精神疾患といった類の疾患だろうか?
こちらの記事の「きな臭い祝日」のところに書いたが、明治と昭和の天皇の誕生日は祝日として残っているが、大正天皇の誕生日はだけは残っていない。

現在の皇太子と皇太子妃の子女・愛子内親王は大正天皇の実母と同じ名前であるが、この名は現在の天皇陛下が命名されたらしい。


第一次世界大戦の序章

1914年7月28日~1918年11月11日、およそ4年、主にヨーロッパを舞台して行われた戦争。
この第一次世界大戦の起こった理由や何を目的に行われていたのか、どうして「世界大戦」にまで発展したのか、明確に回答できる人はいないのではないだろうか?

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●サラエボ事件(1914年)
直接的な原因は1914年6月28日にサラエボで発生したオーストリア皇太子(王位継承者)夫妻の暗殺であったと言われている。
暗殺実行犯はボスニア出身のセルビア人青年。
暗殺計画はグループによるものでセルビア政府絡みとも言われる。
事件の起きたサラエボはボスニア・ヘルツェゴビナにある。
ボスニア・ヘルツェゴビナは当時オーストリア(地図黄緑)に併合されていた。
従ってその住民はオーストリアに反発していたわけだが、そこへオーストリア皇太子夫妻が訪問し、事件がその時に起きた。
セルビアはボスニア・ヘルツェゴビナの東隣国。ボスニア人らはセルビアなど南スラブ人諸国との統合を望んでいたという背景があった。

■露土戦争(1877-1878)
さらに原因を辿ればまずは露土戦争(ロシアvsトルコ)に行き着く。
露土戦争は日露戦争や日清戦争より前の出来事になる。
バルカン半島(イタリアの東側に位置する地中海に面した半島、半島の東側は黒海とトルコになる)のオスマン帝国(トルコ)領下にいたスラヴ系諸民族(南スラブ人・地図のオレンジ斜線辺り)がトルコ人の支配に対して反乱を起こした。
スラブ系というのはスラブ語を話す民族のことで(言語分類)、血統的な1つの民族ではない。
トルコに反した南スラヴ諸国をロシアが支援介入し、戦争に至り、ロシアの勝利で終わった。

露土戦争の条約ではセルビアやルーマニアなどがトルコから独立し、ロシアの影響を強く受けた広大な自治領「大ブルガリア公国」の成立が認められた。
しかしロシアの勢力拡大に対して警戒感を持った欧州がこれに介入し(仲介はドイツ)、元の条約を改正し新たにベルリン条約を結ぶ運びとなった。
元の条約ではボスニア・ヘルツェゴヴィナにも自治権が付与されることになっていたが、ベルリン条約ではオーストリア=ハンガリー帝国が占領することとなった。
これは露土戦争時のオーストリアとロシアの間の密約に基づくものだったため、ロシアはオーストリアの中立を条件にボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領するのを容認した。
1908年にオーストリアが正式に併合した。

この露土戦争まで欧州では「欧州各国の勢力均衡に基づいてバルカン半島は平和に維持されている」と思っていた。
何故そう思っていたのか。今度はクリミア戦争まで遡る。

■クリミア戦争(1853-1856)
クリミア戦争は、清とイギリス・フランス連合国との間で行われたアロー戦争(1856~1860)の直前まで行われていた戦争だ。
数年に及ぶ戦争を立て続けに行えるだけの体力や人力や財力を持っていたイギリスやフランスには目を見張るものがある。
戦場は主にクリミア半島で、フランス・イギリス・トルコ同盟軍 vs ロシアという戦いであった。
近代看護の祖であるナイチンゲールが従軍し活躍した戦争でもある。

この戦争にも表面的にはこれといった原因はない。
君主制の下に築いた欧州列強国の権威が揺らぎ、欧州の国際秩序が崩壊する危機に直面し出したことが戦争へと駆り立てたとでも言えばよいだろうか。
欧州とは違う宗教・言語・文化の台頭を恐れ、その抑止に動いたのである。(言語ならフランスもロシアも、あそこもそこも違うじゃないか?)
諸外国や各民族がアイデンティティを主張し始め、ナショナリズムが形成され出した。
貿易にも重要な地でのナショナリズムは片一方からすれば始末に悪い。
古くから様々な民族が入り乱れる象徴の地が欧州にとってはバルカン半島やクリミア半島だったのだろう。
これは現代でも変わらないが、その辺り一帯のトルコ・中東、北アフリカなど地中海や黒海周辺の国々がそうした背景を強く持つ。

クリミア戦争に勝利したのは同盟軍。
この勝利によりフランスとイギリスの発言力が高まり、その後アジアで行われた戦争にも影響を及ぼすことになった。
この戦争で結んだパリ条約(締結国:イギリス・フランス・オーストリア・プロイセン・サルデーニャ・トルコ、ロシア)においてバルカン半島の秩序に関しても取り決めされていたため、一応「バルカン半島は平和に維持されている」と思っていたのである。
それが露土戦争によって完全に崩壊した。もちろんその予兆が全くなかったわけではなく、イギリスなどでは十分に予想しうるものであったと思う。

クリミア戦争でイギリスやフランスと同盟を組んでいたトルコがなぜ露土戦争で支援を受けられなかったかと言えば、露土戦争前年の反乱においてトルコの軍人が数万人のブルガリア人を虐殺していたことが明らかになったからである。

●現在進行形の問題
黒海を挟みトルコと対面するウクライナは、かつてロシアの支配下にあり、その後ソ連の構成国となり、1991年ソ連崩壊に伴い1992年に独立した。
全体的に緯度の高い欧州にとってウクライナは魅力的な地であろう。
以後クリミア半島はウクライナに属していたが、昨年ロシアへの編入の是非を問う住民投票が実施されたことは記憶に新しい。
ロシアがクリミア半島併合を進めていることに対し、欧州連合(EU)とアメリカは「力による現状変更は認めない」としてロシアに制裁を加え、現在も係争状態にあるが、歴史的にみれば何だか微妙な争いである。

●アメリカ人の考えまではよく分からないが、日本にはロシアが欧州に属するという意識があまりないのではないかと思う。
それはたぶんロシアの国土が東西に長~く大きいからであり、またソ連が社会主義国家だったからだろう。
しかしロシアは古くから欧州の大国である。
「ロシア南下への恐れ」や「ロシアの勢力拡大の脅威」がとても重宝に使用されているように感じる。

●サラエボといえば冬季五輪(1984年)。サラエボが開催都市だった。
スピードスケートの黒岩選手(群馬県出身)が活躍していた時代でよく覚えている。
しかし1992年にはサラエボを首都とするボスニア=ヘルツェゴヴィナで内戦が勃発し3年続いた。
今でも民族対立の火種を抱えている地である。
こう言ったらなんだけど、オリンピックを開催するってわりと簡単なことなんだなぁと思った。







by yumimi61 | 2015-01-18 11:37