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大正 玖

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イスラム国に人質にされたという御二人。
影より何より一番目を引いたのは小ざっぱり感。
捕虜とか人質とかって鎖を付けられて監禁されているイメージがあるから、それが長期になれば浮浪者のような姿であると思ってしまうが意外にそうでもない。
以前の欧米の人質の時にもそれは感じた。
余計な物を置かない背景のすっきり感、シンプルに統一されて且つ視覚に訴える力のある服装、短髪などもそうした小ざっぱり感を与えることを手助けしているんだろう。
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ヒゲは全くないわけではないが無精ヒゲというほどでもない
また後藤さんのほうは見事なまでに黒髪である。
個人差はあるだろうけれども、生まれた年に間違いがなければ白髪が混じる年齢。
現に湯川さんは白髪混じりである。年齢は湯川さんよりも後藤さんのほうが上。
染髪しているか画像レタッチしているかだろうと思う。
いったいこれはどういうことなんだろう。
監禁というほどではなく軟禁ということだろうか。
遠いイスラム教の国で捕えられても、欲しいものが与えられ、行きたい場所に行けるということを意味するんだろうか。
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人質や拘束される前の御二人の画像も見たが、湯川さんも後藤さんも白髪はない。

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それから湯川遥菜さんの遥菜という名前は昭和生まれの男性にしては珍しいなぁと思いませんか?
本名は湯川正行だそうだ。改名したということだが正式な改名ではないのでは?
以前私の知り合いが運勢が良くないと言われたとかで本名の名前を一部変更しようとしたが、そう簡単に変更は許可されなかったようだ。
「社会生活に支障を来たす」というような変更する正当な事由があることを証明できる資料を付けて、家庭裁判所へ申し立てる必要があり、家裁によって認められた場合にのみ変更可能なのだ。
有名人などで通名を長期間使用した時にはそれも認められることがあるようだ。
知人は正式な変更を諦め、しばらく自ら通名を使用していたが、思うところあったのか数年後にはそれをやめて本名に戻していた。
遥菜という名も通名なのではないだろうか。

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国の関係者との不可解な人脈(←今回の人質事件ではなく昨年夏に湯川さんが拘束された時の記事)
イスラム国の声明文に「彼の携帯電話の画像が、彼がスパイである証拠だ」と書いてあったらしく、続いて2枚の写真を掲載しているそうだが、そこに後藤さんも写っている。
湯川さんと後藤さんは、湯川さんが拘束された時に知り合ったのではなく、以前から知り合いだったということだ。
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※私事ですが、次男のお弁当に昨日は箸を入れ忘れ(食べてこなかったのよ・・)、今日はソースを入れ忘れました。


「戦勝国」を勝ち取れ

第一次世界大戦期間は1914年7月28日~1918年11月11日。
アメリカは1823年から他国の揉め事や戦いには首を突っ込まないというモンロー主義を取っていた。
イギリスに倣えば"Splendid Isolation" 栄光ある孤立。
およそ100年間アメリカの不干渉時代は続いたのだった。
日本も江戸時代について「鎖国していた」と表現するのはやめて、「孤高国していた」と改めるのはどうでしょうか?
島国であるイギリスや日本、欧州やアジアと大陸を別にするアメリカ、孤立や不干渉というのはそれが出来得る地理的な要因も多分にあったのだと思う。
そう広くない場所に国や民族がひしめき合う、つまるところ幾人もの権力者が存在する欧州はそれだけ戦いも起きやすかった。

アメリカがモンロー主義をやめるきっかけになったのが第一次世界大戦である。
アメリカは1917年4月にドイツに宣戦布告した。
中立を表明していた中華民国も1917年3月にドイツに宣戦布告した。
中華民国のドイツ領に駐留していたドイツ軍は日本が撃退したので、中華民国は連合国側で参戦すればもはや自国領内に敵はいない状況であった。
アメリカや中華民国が参戦した1917年には勝敗の行方が見えていたのではないかと思う。
要するに「戦勝国」になるための参戦だった、そのように考えられる。

第一次世界大戦は、特定の地域だけでなく、また国家権力者や軍人だけでなく、世界を、そして国民を巻き込むために行われた戦争だった。
なぜそんな馬鹿なことを、とお思いでしょうか?
世界進出!世界で活躍できる国際人に!グローバル推進!より大きな舞台で!国際社会尊重!
これらはどれも世界大戦を行う動機に十分成り得るものである。


コントロールの功罪

世界大戦の引き金がオーストリア皇子の暗殺だったというのは説得力に欠く。
日本でもそうだったけれど、昔は世界的に最高権力者が暗殺されるということはそれほど珍しいことではなかった。
覆らない社会を覆すには権力者に消えてもらうしかなかったわけである。
暗殺、クーデター、テロ、言い方は様々だが、目的とするところはほぼ同じである。
しかし標的になる権力者や状況はそれぞれ違う。
「そんな暴君だったら仕方ないだろう」と思われる場合もあれば、「あんな素晴らしい人になんてことをしてくれるんだ」と思われる場合もあるだろう。
これも地域や民族、同盟関係、個々の価値観やその時の世論に左右される。

また社会の体制に対する不満はいつの時代にも存在し、これが皆無になることは決してない。
それは歴史が証明することではないか。
古代とか近代とかそういう問題ではない。全ての人が満足する世の中なんて在りえないのだ。この世は楽園ではないのだから。人間はクローンではないのだから。
NO.1を争奪することが戦争に繋がり、「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」は不満の源となる。
さらには、NO.1にならなくてもよかった人達が、そのチャンスがあると知れば翻るのが世の常。
社会はいつもどこかに不満を蓄積させている。それが爆発するか否かの違いである。
そのコントロールを試みたのが第一次世界大戦でもあった。最大の成果は国際連盟の発足であった。
国際連盟の発足には世界大戦が必要だったと言い換えてもよいと思う。


2つの革命

もうひとつ第一次世界大戦で特筆すべき出来事がある。それは列強国の革命である。

【ロシア】
1917年、ロシア革命によりソビエト政権が誕生した。
帝政崩壊→共和制国家樹立→ソビエト(革命派によって作られた労働者・農民・兵士の評議会)政権誕生
さらに内戦を経て、1922年「ロシアは労働者・兵士・農民のソビエトの共和国であり、連邦制をとる」と宣言して史上初の社会主義国家であるソビエト連邦が誕生した。
ロシア革命の指導理念として考案された「マルクス・レーニン主義」を掲げたソビエト連邦共産党の一党独裁国家であった。軍事大国としても確固たる地位を築いた。

【ドイツ】
1918年、ドイツ革命によって帝政ドイツが崩壊しワイマール共和国が誕生した。
議会制民主主義を中心とした共和制国家の樹立である。


戦争とその混乱に端を発した大衆的蜂起によって2つの帝政が崩壊した。
戦争下の似たような時期に、革命にて大きな転換を強いられた2つの列強国が歩んだ道は異った。
この2国、とくにソ連はロールモデルとなったのではないだろうか。


イギリス(勝者)&ドイツ(敗者)

こちらに書いた通り、イギリスの王朝は1714年から現在に至るまでドイツを起源とした家系にある。
現在のウィンザー家は、第一次世界大戦中の1917年に、敵国ドイツの領邦であった公国の名を冠した家名から改称したものであり、家系自体が変わったわけではない。ドイツの血を引いていることになる。
敵国と言っても、同盟や連合といった関係はその都度変わっており、永遠の敵や味方ということではない。
そうした流動的な関係よりはやはり血統が重視されるのではないだろうか。
要するにイギリス王朝にとってのドイツは特別なものであると思うのだ。

但しドイツは国家連合や連邦国家であった時代も長い。現在も「ドイツ連邦共和国」である。
ドイツ全体を統一的に統治した国家体制をとったのは「神聖ローマ帝国」「帝政ドイツ」、そして「ナチスドイツ」である。
しかし実はドイツの正式名称は「帝政ドイツ」から第二次世界大戦敗北までの1871~1945年の間ずっと「ドイツ国」であった。
第一次世界大戦末期の革命によって共和制国家に移行した際にもその名は改称しなかった。
「ワイマール共和国」というのも「ナチスドイツ」と同様に通名である。
ごくごく一般的に用いられている「ナチスドイツ」という呼称は、分かり易いと言えば分かり易いが、ホロコーストと相まって非常に意図的なものを感じる。

イギリスの王朝のルーツはドイツにある。
しかしそれはドイツ全体、要するに統一ドイツ(帝政・帝国)ではない。
さらに欧州はイギリスやドイツに限らず国境を越えて血縁・親戚関係を持っている場合が多い。
太刀打ちできない血統関係と言うことも出来るし、可愛さ余って憎さ100倍となることも推測できる。
こう言ったら身も蓋もないけれど、とても複雑で難しい関係なのだ。


背後からの一突き

ナチスとは「国家社会主義ドイツ労働者党」である。ナチスとはいわば蔑称。
アドルフ・ヒトラーは「ナチスドイツ」と「独裁者」のイメージが強大であるが、実は第一次世界大戦のきっかけとなったオーストリア出身の人物である。
第一次世界大戦の時は20代後半。ドイツの兵士として戦うことを希望して入隊した。まだ一介の兵士に過ぎなかった。
頭角を現したのは戦後のことであるが、1920年以降は「国家社会主義ドイツ労働者党」の指導者になる。
第一次世界大戦後2,3年のうちに萌芽したということだ。
1930年に「国家社会主義ドイツ労働者党」は第2党となり、1932年にヒトラーは大統領選に出馬するも敗北。しかし同じ年に第1党となる。
1933年初頭にヒンデンブルク大統領がアドルフ・ヒトラーを首相に任命し、ここからナチスの快進撃独裁が始まった。

キーパーソンはこの大統領(在位:1925-1934年)である。
軍人であったが第一次世界大戦開戦前にはすでに優雅な隠居生活を送っていた。開戦時御年67歳。
大戦が始まると軍人に復帰。
1914年8月後半にドイツの東側(現:ポーランド近辺)で行われたドイツとロシアの戦いで勝利を収めて、急速に国民的英雄となった。
その地や戦いがどれほど重要だったのか私にはよく分からないが、戦争に勝ったわけではなく一時期の一場所の部分的な勝利である。
戦争終盤では(お飾りの)参謀総長にまで祭り上げられてしまった。
敗戦したにもかかわらずその人気は衰えることなく数々の「名誉」が与えられた。
敗戦に導いたはずの参謀総長が革命後の共和制国家で大統領にもなった。就任時御年78歳。
どちからといえば右翼・保守派であった本人もこうした事態には戸惑っていたようだ。
第一次世界大戦に敗北したドイツでは、特に戦火の中にいた者にとっては、敗因は国内にあるという見方が支配的だった。
これを「背後からの一突き」と言うが、それを最初に論じた人物でもあった。
ドイツ革命を扇動していた社会主義者や共産主義者、さらにユダヤ人がドイツの足を引っ張ったという意味である。
ナポレオンではないが、彼もまた利用されたのではないかと思えて仕方がない。
そんな大統領から首相を指名されたのがヒトラーであるが、それも大統領の積極的な意思によるものではなかった。

ヒンデンブルクとヒトラー、タイプは全然違うが、急進的に力を有した点について2者はオーバーラップする。


次なるノーベル平和賞受賞者

第一次世界大戦中の1918年1月8日、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が「14箇条の平和原則」を発表し、国際平和機構の設立を呼び掛けた。
第一次世界大戦後に締結された条約には国際連盟規約が記されており、これによって国際連盟は成立し、設立された。
やはり大戦と国際連盟はセットであり、早い段階から予定されていたものだと思う。

アメリカ人初のノーベル賞を受賞したセオドア・ルーズベルト大統領(第26代:1901〜1909年)は、公式な受賞理由が「日露戦争の停戦を仲介した功績」であった。
しかし本音は「大統領権限の拡大と世論誘導スタイル導入の功績」といったところだと思う。

ウッドロウ・ウィルソン大統領はアメリカ2人目のノーベル平和賞受賞大統領。(第28代:1913〜1921年)
大統領の受賞は現在までに4人、オバマ大統領含めて4人である。
ウィルソン大統領はモンロー主義と決別してアメリカを第一次世界大戦に参戦させた。
戦争に参加したのに終結と同時にノーベル平和賞の受賞である。
これは「世界初のSTAP細胞を作ります」と宣言したと同時にノーベル賞を受賞したようなものである。

100年もの間、不干渉主義を続けていたのだから、議会や国民を参戦に納得させることは容易ではなかったはずだ。
ところが意外に簡単にそれが出来たのである。
その功労者はエドワード・バーネイズ。心理学者ジークムント・フロイトの甥であった人物。
オーストリア系アメリカ人。「広報との父」として知られる広報活動とプロパガンダの専門家。
群衆心理学に着目し、大衆広報の基礎を築いた。

政府から参戦への大衆心理操作を依頼されたのだ。
マスメディアを使って「2億 ドルはあくまで人道支援のためのものです」「戦争は安全で平和な世界を作るためのものです」という広報活動を行って、戦争肯定イメージを植え付けることに成功したのである。


ウッドロウ・ウィルソン大統領

1856年、アメリカ南長老教会の創設者で初代牧師の息子として生まれる。
・学習障害(読み書き障害)を持っていたため、9歳(1865年)まで文字が読めず、11歳(1867年)まで文章を書くことができなかった。
・速記を独学で覚え、自宅で父親に学ぶ。
1873年、デイヴィッドソン大学入学。
1874年、プリンストン大学へ編入。
1879年、プリンストン大学卒業。
1879年、バージニア大学に入学し1年間法律を学ぶものの、体調不良にて卒業はせず。自宅で独学で法律を学んだ。
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1885年、ブリンマー大学で歴史学および政治学を教えた。
1886年、ジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号(Ph.D.) を受ける。
1888年、コネチカット州のウェスリアン大学に勤める。
1890年、プリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任。
1902-1910年、プリンストン大学の総長。
1910-1911年、アメリカ政治学会の会長。
1911-1913年、ニュージャージー州知事。
1913-1921年、アメリカ大統領就任。(第一次世界大戦参戦、国際連盟設立、ノーベル平和賞受賞)


ウッドロウ・ウィルソン大統領は名誉学位ではなく、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領だそうだが、学歴を見る限り少々不安な学位や職歴である。
また大正天皇ではないが、ウィルソン大統領も幼少の頃から病弱だったようである。
また自らを神の子と信じていたようで、前述のジークムント・フロイトの精神分析対象となったこともある。


by yumimi61 | 2015-01-22 17:55