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大正 拾参

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ドラマには悪役が必要なものです

1915年1月18日、日本の大隈内閣が中華民国の袁世凱大統領に対して5項21箇条の要求を行った。
最終通告は1915年5月7日。
拒否すれば武力行使に出るということだったのだろうか?
アメリカの干渉提案を拒否したイギリス・フランス・ロシア代表の最終通告直前の日本への談話。(渡辺明『満洲事変の国際的背景』)

●イギリスの外相
「北京政府が強硬に反対してきたのは主として第5号の各項であるが、日本がこれを本交渉から引き離したことは日本側の大きな譲歩といえる。北京政府は速やかにこれを受諾して、時局の妥協を計ることが得策である旨を、駐華公使に自分の勧告として述べておいた」
「5月7日朝ジョルダン公使に電報して、日本の最後の提案は非常に寛大であるから直ちにこれを承諾し、妥協を図るほうが利益である旨、非公式に強い勧告を与えるよう訓令した」
●ロシアの大使
「充分了解した。真に今度のご措置は賢明なる方法と考える。必ずや北京政府は承諾するだろう。袁世凱は最後通牒を待っているものと思われる」
●フランスの外相
「今更内容をうかがうまでもなく、貴国の成功を祝す」

述べた者が記したわけではなく、また聞いた者(もしくは訳した者)が直接記したとも限らず、そもそも訳文の場合は訳者によってニュアンスが変わってしまうので、まったくこのままの文章であったとは考えにくい。

おそらく最終の通告では「5項だけ」ではなく「5項全て」が「要求」から「希望」(’可能な限り’とか’出来る範囲で’など譲歩付)に変わったと説明したのではないだろうか。
悪代官3人組はそのことを知っていた。または主導した。
これを呉港五項トラップと言う。(私が名付けました。くれ?)
「それならばいいか。どうせ大戦終了後に見直されるだろうし」と袁世凱大統領が承諾したところで種明かし。袁世凱大統領ぶちぎれる。(そんなふうに推測しましたがどうでしょうか)


消えた中味

日本ではどのように取り扱われているか?
5項目(ごこうめ)の7箇条の希望条項を除いた1~4項の要求に中華民国は承諾したと伝えられてきた。

ここで「さんすう」の時間となりました。
21-7はいくつでしょう?
21-7=14です。
20から7をひいて13をだし、1をたしましたか?
それとも10から7をひいて3をだし、10と1とたしましたか?
11から7をひいて4をだして、10をたしましたか?
100くらいまでのすうじならばかんがえなくてもわかる?
あまたのなかで、またはゆびで、そろばんをはじいた?

交渉の結果、第5号希望条項は棚上げされ最終的には十六ヶ条が5月25日、2条約および13交換公文として結ばれた。

①山東省に関する条約
②山東省不割譲に関する交換公文
③山東省に於ける都市開放に関する交換公文
④南満洲及東部内蒙古に関する条約
⑤旅順大連の租借期限並に南満洲鉄道及安奉鉄道の期限等に関する交換公文
⑥東部内蒙古に於ける都市開放に関する交換公文
⑦南満洲に於ける鉱山採掘権に関する交換公文
⑧南満洲及東部内蒙古に於ける鉄道又は各種税課に対する借款に関する交換公文
⑨南満洲に於ける外国顧問教官に関する交換公文
⑩南満洲及東部内蒙古に関する条約第二条に規定する商租の解釈に関する交換公文
⑪南満洲及東部内蒙古に関する条約第五条に規定する日本国臣民の服従すべき警察法令及課税の決定に関する交換公文
⑫・南満洲及東部内蒙古に関する条約第二条乃至第五条の実施延期に関する交換公文
⑬漢冶萍公司に関する交換公文
⑭膠洲湾租借地に関する交換公文
⑮福建省に関する交換公文


21-7=14なのに、なぜか「16箇条」になっていて、さらには「2条約および13交換公文」に変わっている。
ここに至った経緯が分からない。
条約と名の付くものは2つのみ(①と④)。
残りの13は「交換公文」という名称を使用している。なぜ条約と交換公文とを使い分けたんだろう。なぜ箇条ではなくなったのだろう。
また2と13を足したとしても15である。16箇条にも14箇条にもならない。
さらには①~⑫及び⑭は5項21箇条の1項と2項に含まれることであり、それ以外のものは⑬と⑮しかない。
⑬の漢冶萍公司は3項で扱われていた内容。
⑮の福建省は5項に記されていた。

しかもこの2条約および13交換公文は「関すること」というタイトルのみで実際の要求内容が分からないようになっている。


第一次世界大戦時の日本の首相

第一次世界大戦の講和会議が催された時には、「対華21箇条要求」を承諾した中華民国の袁世凱大統領は亡くなっていたことは昨日も書いたところだが、要求を突きつけた側の日本の大隈首相(第17代)もすでに辞任していた。

(大隈首相)
早稲田大学創設者でもある大隈首相は明治時代に一度首相(第8代)を経験しており、16年ものブランクを開けての再登板だった。
2回目の在任期間は1914年4月16日~ 1916年10月9日。
1838年3月11日生まれということなので、76歳で就任したことになる。
第一次世界大戦の期間は1914年7月28日~1918年11月11日。(対華21箇条要求の承諾は1915年)
参戦を早急に独断専行したことを鑑みれば、第一次世界大戦のための、さらには対華対応のための再登板だったと想察されても致し方あるまい。

(寺内首相)
大隈首相の後は寺内正毅首相。在任期間は1916年10月19日~1918年9月29日。
これでもまだ第一次世界大戦終結には至らない。よって講和会議もまだ開催されていない。
陸軍大臣の時に韓国統監を兼任し、日本への併合を推し進めた人物であり、韓国併合(1910年)後は初代朝鮮総督に就任した。依然陸軍大臣も兼任していたたという。
朝鮮での功績が認められて首相に就任したということだが、日本で功績の人は、韓国側にとっては憎き人物である可能性が高い。
生まれは1852年2月24日で大隈重信よりは若いが、首相になってからはすでに病気がちであったとのことで、辞任した翌年1919年11月3日に亡くなった。

(原首相)
寺内首相の後は、原敬首相である。在任期間は1918年9月29日~1921年11月4日。
第19代の原首相が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という立場で首相に任命された。
第一次世界大戦の講和会議と条約への調印は原首相の時に行われたことになる。
1921年11月4日、東京駅で18歳の鉄道労働者の若者に刺殺された。
原首相は栃木県の足尾銅山の副社長に就任していたことがあったそうだが、その若者の父親は足尾銅山の技師であったという。
無期懲役の判決を受けるも恩赦により1934年に出所。
1937年に神戸モスクでムスリム(イスラム教徒)となり、以降の消息は不明であったという。


パリ講和会議出席者にみる力関係

1919年1月から始まった第一次世界大戦の講和条件を話し合う会議「パリ講和会議(Paris Peace Conference)」への主要関係各国の出席者を見比べてみたい。

■アメリカ
ウッドロウ・ウィルソン大統領
ロバート・ランシング国務長官、ニュートン・ディール・ベイカー陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐

■イギリス
デビッド・ロイド・ジョージ首相
アーサー・バルフォア外相、アンドルー・ボナー・ロー国璽尚書(こくじしょうしょ)、ロバート・セシル元封鎖相、ウィンストン・チャーチル戦争相・航空相

■フランス
ジョルジュ・クレマンソー首相
ステファン・ピション外相、フェルディナン・フォッシュ連合軍最高司令官、陸軍総司令官

■イタリア 
ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相

■日本
西園寺公望元首相、牧野伸顕元外相、珍田捨巳駐英大使、松井慶四郎駐仏大使

■中華民国
陸徴祥外交総長、王正廷外交次長、顧維鈞駐米公使


第一次世界大戦に勝利した連合国の中では、イギリス・フランス・アメリカがビッグ3であり、イタリアを入れてビッグ4、日本を入れてビッグ5だった。
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ビッグ4


君主制国家では王・皇帝・天皇などが国家元首であり、共和制国家では大統領が国家元首とされる。
君主がどれほど実権を持っているかは国ごとに大きく違う。
民主化とは反対の古臭いイメージを持つ君主制が流行らない先進諸国では儀礼上の存在となっている場合が多く、国政は首相に委ねられている。
法律においては今なお強力な権限を与えられている例もあるが、近代では表だって行使されないのが通例となっている。
日本は大日本帝国憲法では天皇を元首と定めていたが、日本国憲法では元首を明確に規定していない。

アメリカは国家元首である大統領が会議に出席した。
イギリスの国家元首は国王。フランスは大統領。イタリアも当時は国王だった。日本も当時は天皇と明記されていた。それらの方々は出席していない。
ナンバー2と言っていいのか分からないが、イギリス・フランス・イタリアは当時の首相が出席している。
日本は現役首相ではなく元首相(第12代と第14代)が首席全権として出席した。
出席者からみれば一番格上となるのは国家元首のアメリカである。


鉄は熱いうちに打て!?

西園寺公望元首相は天皇家に近く、1871~1880年(22~31歳)の間、フランスに留学していた。
その後の10年の間にも欧州の国で大使を務めている。
その経験が買われたのか、1919年のパリ講和会議に首席全権として派遣が決まったものの、69歳になっていた。
そもそもの決定が遅かったこと、船室(当時は船旅だったんですね~)の改装を待っていたため、日本を出発したのが1919年1月14日だった。(会議の開催は1月18日から)
同伴者は愛人と娘夫妻と、後に首相となる近衛文麿(娘が細川護熙元首相及び国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)会長兼日本赤十字社社長の母親)。
1919年3月2日パリに到着(2か月の船旅ですよ~)。

・フランス側からの出迎えはなし。
・日本にとって重要な検討事項はすでに討議済み。
・20年ぶりの訪仏であり、留学時代の旧友のフランス語はなんとか聞くことができても、話すことはできなくなっていた。
・病気がちであったために精力的な活動もできず。
・会議では一度も発言せず。


めざせノーベル平和賞!?

次席全権として派遣された牧野伸顕元外相は薩摩藩士・大久保利通の息子。
名字が違うのは養子に出ているから。

・11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わり渡米。
・フィラデルフィアの学校に通う。
・1874年(13歳)に帰国し開成学校(東京大学の前身となった学校)に入学する。
・1880年(明治13年)に旧東京大学(1877年設立)を中退して外務省入省し、ロンドン大使館などに赴任。

パリ講和会議のために日本を出発したのは西園寺公望元首相より1ヶ月早かったという。12月上旬ということだ。
次席とはいえ実権はこちらが握っていた。
それでも船旅に2か月かかったとすると、会議序盤には間に合いそうにもない。
同伴者には娘婿の吉田茂などがいた。
吉田茂(元首相)の孫にあたるのが麻生副総理(元首相)や皇族の三笠宮寬仁親王妃信子さま。

総理大臣の親戚繋がり
安倍首相の祖父である岸信介(元首相)の弟はノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作(元首相)。
佐藤栄作元首相のノーベル平和賞受賞に向けて尽力したのはオノ・ヨーコさんの親戚の外交官・加瀬俊一。
(加瀬俊一の妻が日本興業銀行総裁だった小野英二郎の娘。小野英二郎というのは、オノ・ヨーコの父方の祖父)


人種差別撤廃の旗手

日本の牧野伸顕元外相がパリ講和会議にて国際連盟規約にぜひとも「人種差別撤廃条項」を加えてほしいと提案した。
ウィルソン大統領の提案した「14箇条の平和原則」にもうひとつ加えて15箇条にするということだ。
しかしイギリスやアメリカが大反対。ここで全会一致が持ち出されたのだった。
それならば前文に入れるだけでもよいと譲歩するも受け入れられなかった。

牧野談「日本政府および人民は、永久不断の不満を解決せんことを目的とし、深甚なる国民的信念にもとづく公平なる主張が採択されなかったことを、はなはだ遺憾とするものである。・・・余はこの問題の将来の結果如何について多大な危惧を抱くものである

全米黒人新聞協会コメント「我々黒人は、講和会議の席上で人種問題について激しい議論を闘わせている日本に最大の敬意を払うものである。全米1200 万人の黒人が息を呑んで、会議の成り行きを見守っている

ジャパンタイムス(日本の英字新聞)コメント「歴史的かつ荘厳なるべき会議で、白人の代表は自分達と非白人を平等とする原則の承認と受容を今、正式に拒絶した。国際連盟委員会のこのような行動は、これまで世界的傾向だと考えられていた各人種の調和ある交流を妨げる永久的障壁をほぼ確実に築くことになろう

これが日本から出され拒否されたということは現代の風潮からすると意外ではないだろうか。
何だかこれも策略の一環だったような気がしてならない。
特に影響をうけたのはアメリカと日本の関係ではないだろうか。

ちなみに麻生副総理や妹の信子さまはクリスチャン(カトリック)を信仰しているそうだ。
安倍政権にはクリスチャンが多いという記事





by yumimi61 | 2015-02-01 18:18