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大正 拾捌

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日本が日本を!?日本であって日本で無し!?

昨日の西原ローンの話の続き。
昨日もリンク及び転載したが「西原亀三」wikipediaの中で、西原借款についても触れている。
西原借款の情報が西原亀三の中に書いた程度しかないせいか、「西原借款」wikiは存在しない。
英語版では"Nishihara Loans"が存在する代わりに"Nishihara Kamezo"は存在しない。

興業銀行、朝鮮銀行、台湾銀行からそれぞれ資金を調達し、総額1億4500万円という莫大な西原借款(英語版)を提供する。

銀行名のトップに名が挙がっている興業銀行。
これは「日本興業銀行」だと思う。
現在中国にも興業銀行という名の銀行があるが古くない。
1988年に開業した福建興業銀行が前身で、福建が取れて興業銀行になったのは2003年。


●日本勧業銀行
1896年(明治29年)、農工業の改良のための長期融資を目的に日本勧業銀行法が制定され、翌年1897年に政府を中心に設立された銀行。
東京に本店を置き、支店は大阪のみに限られ、各府県に事実上の子会社である農工銀行が設置された。
基幹産業(特に重化学工業)向けには別途日本興業銀行が設置され、北海道には勧銀や興銀の代わりに北海道拓殖銀行が設置された。
1911年に農工だけでなく商業に対する融資も解禁された。不動産金融にも乗り出す。
1921年以降、各府県に置いていた農工銀行を悉く合併した。これが後身の第一勧業銀行やみずほ銀行が全県にある理由である。
宝くじを扱う銀行であることで知られていると思うが、宝くじの元は戦時債券であった。
宝くじと第一勧銀の闇勢力事件についてはこちらにも。確かみずほになっても何かありましたよね。


●日本興業銀行
日露戦争を契機に急成長した製鉄、造船、電力などの重工業を対象にした。戦争で儲けることができる企業と言い換えることが出来る。
国内資本の不足を補うため外資導入の必要性が叫ばれたことを背景に、政府保証下で外国にて債券を発行し、企業へ融資することを目的として設立された銀行。
こちらにも書いたことがあり、下記のように記した。
債券の保証を国がすることには問題がないわけではない。国会で紛糾したあげく、有耶無耶にお茶を濁して日本興業銀行はスタートした。
国会(帝国議会)で散々揉め一度は廃案にもなった日本興業銀行法案が1900年に成立し発布された。
一番大事な肝とも言うべき「政府保証規定」や「外債発行」について、法律で明確に定めないことで決着したのである。(臨機応変に対応できると言えば聞こえがいいが、幾らでも悪用できるということでもある)
オノ・ヨーコさんの祖父・小野英二郎が第4代の総裁(1924-1927、在職中に心臓麻痺で逝去)。


●第一銀行
前身の第一国立銀行は1873年に創業した日本初の商業銀行。国立銀行条例に基づく国立銀行であるが民間経営であった。
こちらの記事の三井の歴史で触れたが、要するに「三井小野組合銀行」(前身)が「第一国立銀行」(後身)となった。初代頭取は理化学研究所の創設者でもある渋沢栄一である。
日本銀行が創設されるまでは紙幣の発券が認められていた銀行。日本初の株式会社となった。
しかし「三井小野組合銀行」から三井組も小野組も手を引いてしまう。(ということはなに?国営株式会社?)
1876年に三井組は日本初の私立銀行を設立。(日本初と言えるのかどうか?小野組は破産)
第一銀行は1884年に李氏朝鮮(後の大韓帝国、1910年からは日本併合)と契約して、関税取扱業務を代行し、後に同国の中央銀行の業務を代行していた。(→朝鮮銀行*
第一銀行はその後1896年に普通銀行(民間銀行)となり、1943年に三井銀行と再び合併して帝国銀行となった。
しかし1948年にまたまた分離。
一方が現在の三井住友。
一方は1971年に日本勧業銀行と合併し第一勧業銀行となり、現在はみずほ銀行となっている。


●みずほフィナンシャルグループ
前身が、第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行である。
第一勧業銀行と日本興業銀行の歩みは上記のとおり。
富士銀行の前身は安田銀行である。戦後(1948年)に安田銀行から富士銀行に改称された。
安田財閥の中核をなす銀行であり、安田財閥の創始者はオノ・ヨーコさんの曽祖父(母方)・安田善次郎。
安田財閥というのは金融財閥として特化しており、金融資本は他の財閥の追随を許さなかった。当時の資本規模は日本最大であった。


●日本の3大メガバンク
三井住友フィナンシャルグループ、三菱UFJフィナンシャル・グループ、みずほフィナンシャルグループである。
日本の大企業の株式を多く握っている。
郵便貯金(日本郵政公社)はかつて国営で、民営化された後も特別な位置付けにあり、ゆうちょ銀行はメガバンクに含まれないことが多いが、日本において1,2を争うメガバンクである。
世界銀行ランキングでもトップ10に数えられるくらい。


●日本銀行(日銀)
1872年に 国立銀行条例制定。これによって前述の第一国立銀行が設立される。
1881年に三井銀行の為替方を廃止し、1882年に日本銀行条例を公布して、日本銀行を開業した。
明治政府の誕生に重なるように金融に携わった安田善次郎はあっという間に巨万の富を得て、1880年に安田銀行を名乗った。
安田銀行は鉄道・築港などの大規模公共事業に資金を提供して政府や自治体と密接な関係にあったせいか、安田善次郎は1882年に開業した日本銀行にも理事などとして関与していた。
オノ・ヨーコさんの祖父・小野英二郎も1896年に当時の日本銀行総裁の招きによって日銀に入行している。その後に日本興業銀行に移った。
前にも書いたが日本銀行の資本については不明な点が多い。日本政府であり日本政府でないとい噂は根強くある。


*●朝鮮銀行
1902年に日本の第一銀行が大韓帝国で第一銀行券を発行し、それを朝鮮の公用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行となった。
朝鮮を正式に併合する前のことであり、しかも第一銀行は1896年に普通銀行(民間銀行)になっていた。
それが外国の中央銀行業務を行っていることには問題ありとして、日韓併合直前の1909年に大韓帝国政府、日本皇室、韓国皇室および個人からの資本金により中央銀行として韓国銀行が設立された(韓国銀行条例に基づいた銀行)。
日本併合後の1911年には朝鮮銀行法に基づく特殊銀行として朝鮮銀行と改称された。
建前は日本の銀行が撤退したということだろうけれども、看板に韓国や朝鮮という名を入れてそれらしくしただけで、実質的には日本の資本によって設立された日本の銀行と言えよう。(但しその日本が表向き日本という可能性もある)


●台湾銀行
台湾は日清戦争後の1895年から日本の植民地となった。
台湾銀行は1897年に公布された「台湾銀行法」によって1899年に設立された銀行である。
台湾の貨幣の発行権を持つ特殊銀行であるとともに、日本統治下の台湾における最大の商業銀行であった。



要するに、(日本)興業銀行、朝鮮銀行、台湾銀行からそれぞれ資金を調達した総額1億4500万円という莫大な西原借款は、日本の銀行からの調達と考えてよいと思う。
銀行はそんな大金を誰にでも、ただで貸したりなんかしない。
アメリカの信用力の低い借り手向けの住宅ローン「サブプライム」が壊滅的な損害をもたらして、世界金融危機のきっかけになったように、回収できない貸し付けは非常に危険なものである。
だから一般的には借り手を審査し、貸す時には保証人や担保を取るのだ。
逆を言えば、それほどの金額を回収できないまま何事もなかったとは考えられない。
何か代償があったはずだ。


あの~日本が貸したお金はどうなったんでしょうか?

日本から巨額の資金援助を受けた安徽派の段祺瑞は、1920年の安直戦争で直隷派(+奉天派)にあっけなく敗北。
このとき段祺瑞は失脚して天津の日本租界(不平等条約で得た日本の居留地)に逃げ込んだ。

段祺瑞の参謀であったのが徐樹錚。
安徽派にて武力行使を強く主張し、奉天派の張作霖を説得して安徽派を支持させた。
直隷派の重要幹部を暗殺した人物でもある。
また日本に訪れ交渉して資金や武器などの援助を取り付け、段祺瑞への支持も獲得しており、日本との関係も深い。
安直戦争で敗北した際には日本大使館に逃げ込んだ。

つまり安徽派のトップ段祺瑞と、その参謀であった徐樹錚は、安直戦争敗北後ともに日本に避難した。日本と言っても中華民国国内である。
日本は貸出金が焦げ付くところなのに呑気と言うか、焦げ付いたら困るから取り敢えず匿ったと言うべきか。
その後、徐樹錚は孫文(国民党)**と面会したり、奉天派の張作霖と連絡を取り合い、再起と直隷派打倒同盟を結束した。(奉天派は安徽派の味方だったはずだが、1920年の安直戦争では直隷派に味方した)

安直戦争の翌年1921年12月に安徽派の梁士詒が奉天派の張作霖の支援を得て国務院総理(首相)に就任した。(何度も言うようだけれど、1920年の安直戦争では奉天派は直隷派に味方した)
1922年4月28日~5月5日には第1次奉直戦争(奉天派vs直隷派)が行われた。
原因は安直戦争の勝利の成果に対する分配の不均等(勝利したのは直隷派と奉天派)および親日親奉的な梁士詒内閣への不満であった。
敗北したのは奉天派で、奉天派が支持した梁は日本に亡命した。政権は直隷派が取得。

1924年9月には第2次奉直戦争が勃発。(1924年9月15日~1924年11月3日で、規模は第1次よりも大きい)
10月には直隷派の馮玉祥が北京政変(首都革命・クーデター)を引き起こした。
馮玉祥(直隷派)と張作霖(奉天派)と段祺瑞(元安徽派)が密約を結び、馮玉祥が寝返ったのである。

このクーデターにより馮玉祥と張作霖の支持を受ける形で、同年11月に安直戦争で失脚した段祺瑞が臨時政府執政として返り咲いた。
しかしもちろん実権を握っていたのは馮玉祥と張作霖である。
孫文(国民党)**も政権に取り込む予定だったが1925年3月12日に病没し、政権を握ったのは奉天派の張作霖だった。

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**(国民党と孫文)
孫文は1917年に広東省に広東軍政府を樹立して、全国統治を目指して北京政府や各地の軍閥との争いを繰り広げた。
1919年に中国国民党を結成。本部は上海。
ヴェルサイユ条約後に高まった反日愛国運動にて中華民国の若者に共産主義思想が拡大したが、孫文もこの頃から革命政党を志すようになる、ソビエトの過激派ボルシェビキをモデルとし、ソビエトの赤軍にあたる中国革命軍を設立。
このように共産主義に傾倒していたわけだが、1921年に毛沢東や北京大学の組織をまとめて中国共産党が設立されると、中国国民党は民族主義の立場から反共主義をとった。
中国共産党の設立は、ソビエトのボリシェヴィキの呼びかけに応じて結集した世界革命の実現を目指すグループ・コミンテルンの指導によるもの。

1923年に入ると、急速にソ連との関係を深め、中国共産党とも近づく。
1924年9月18日に「北伐宣言」を発表し北京政府に対抗した。しかし、同年10月23日、北京政府内で全国統治をかかげた馮玉祥がクーデター(北京政変、首都革命)を起こし、合わせて孫文にも北上を要請。
これに応えて孫文が北京入り、北伐は一旦は立ち消えになる。(たぶん事前に打ち合わせ済みだった)
1925年3月に孫文が病死。後継者は蒋介石。
1926年7月、蒋介石が中国共産党や北洋軍閥等に対し北伐を開始し、1928年に完遂。中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となった。
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徐がお金の行方を知っているんじゃない?

徐は1925年1月から12月まで、世界各国を外遊して回っている。
12月11日、帰国すると、広東の中国国民党に対抗しようと、安徽派・直隷派・奉天派による連合の結成を目論んだ。
しかし馮は、この時すでに国民党への傾斜を強めており、さらに、馮の親族にあたる陸建章を暗殺した徐への恨みを募らせていた。
12月30日、馮玉祥の部下は上海にいた徐樹錚を襲撃し、これを銃殺した。享年46(満45歳)。


あら。もしかして世界旅行に使われちゃった?






by yumimi61 | 2015-02-06 14:42