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大正 拾玖

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孫文と日本

前の記事にも書いたが、中国国民党を結成したのは孫文。
孫文は清朝を倒してアジア初の共和制国家・中華民国を樹立させた革命の中心人物であった。
よって中国では「国家の父」や「革命の父」と崇められている。
広東省生まれだが、子供時代の数年間、ハワイにいた自身の兄のもとで暮らした。
そこでキリスト教など西洋思想に傾倒した。これが革命思想の萌芽でもあったのだろう。後にアメリカ国籍も取得した。
青年期は香港にて医学を学び、医業に従事していた。

清朝を倒した辛亥革命は海外居住者や留学生が主となったことを前にも述べたが、孫文も革命組織をハワイで旗揚げした。1894年(孫文28歳)のことである。
武装蜂起を企てるが事前に発覚し、孫文は日本へ亡命。
清は駐日公使を通じて孫文の追放を要求したが日本は応じず。
孫文は中山という通名を使用し、後に日本の首相となる犬養毅などにより早稲田界隈に匿われ、1911年(孫文45歳)の辛亥革命まで清も含め世界各地を外遊した。犬養は辛亥革命も支援した。
革命前の10年余りを日本で過ごした孫文は当然のことながら日本と関係が深い。日本滞在中に日本人と結婚もしている(重婚)。
しかしながら、西原(早稲田大学元総長)によれば、「日本人が孫文を扶けた動機は国粋主義的な思想ではない」そうです。 


孫文と蒋介石

孫文の後継者として中華民国統一を果たした蒋介石と孫文との出会いもまた日本だった。
蒋介石は1907年に来日。日本にて軍事訓練を受け、1909~1911年まで大日本帝国陸軍(高田連隊の将校)にいた。
そして1911年の辛亥革命に参加する。

孫文は日露戦争の日本の勝利に強く影響されていたという。
日露戦争の日本勝利は、孫文のみならずアジア人やアラブ人の革命思想に大きな影響を与えたものだった。
報復の成就を、弱が強を倒す夢を、そこに見たのであろう。

しかし孫文は広東州出身の漢民族であり、満洲民族のことは快く思っていなかった。
これもまた多くの漢民族に共通する思いである。
漢民族は満洲民族の清王朝に支配されていたという屈辱感を持っていたからである。
つまり「清≒満洲」という構図もあるのだ。
満洲は今では地域として扱われているが、かつては民族名であった。
清王朝(満洲民族)に不満を抱いていた者たちが起こした辛亥革命によって清朝が崩壊したわけだから、革命後は満洲民族への風当たりは強い。虐げられる側に回った。
その満洲民族が日本の支援で満洲国にまでなったことで漢民族や革命家の悪夢が再現したのだ。
満洲国(満洲民族)への嫌悪と懸念はそのまま、それを支援した日本への嫌悪と懸念にも繋がる。
また満洲民族は満洲民族で日本に支配されたという屈辱感もあるだろう。

日本は漢民族と満洲民族をそれぞれ支援しながら、それぞれに嫌われてしまうという歴史的背景を持っている。


分からないという幸せもある

この時代の中国が複雑なのは軍事と政治が入り乱れていることも一因である。
武力による結束が軍閥。
その軍閥が特定の地域を実効支配したり中央政権とは別の場所で別の政権を勝手に樹立させたりした。
思想や政策による結束は政党。(場所によっては宗教)
しかし国家統一を目指すには武力(軍事力)も必要不可欠であった。
「話せば分かる」が可能と信じているならば、世界の国々は軍隊を持つ必要は無いはずだ。
核の問題で散々言われてきたことだけれど、「人に文句を言うならばまず自分達が放棄しろ」という話になる。
差別がいけないことだと言うならば、自分達が差別されることを放棄しろということになる。
人が100%同じにならない限り解決されない問題なのだ。100%は無理としてもかなりの少数に追い込まない限り難しい。
世界人口の1%と言われる富裕層が世界の富の半分を保有していると言われるように、少数であっても多くの資金を握ったような場合には少数の意味がなくなってしまう。
富を持つ少数の者は侵略されないように、あの手この手の方法を繰り出す。
少数の者を蔑ろにするなとシュプレヒコールが起きる。
100%の夢を見た者は社会主義や共産主義に走った。
民族単位で考えれば最初から100%になることはありえない。
民族の違いを乗り越えて100%を目指すならば、グローブ化を推し進め優性遺伝を利用するか、民族大虐殺をするかといったところになる。それでもゴールは遠い。クローンはもっともっと遠い。

軍閥が力で支配したり、力を背景にして勢力拡大している国で、思想や政策を訴え納得同調してもらい天下を取るなんてことは現実的ではない。
「話せば分かる」というのは幻想なのだ。世界は多様。人間も多様。
それを知っていたから国際連盟やら国際連合でコントロールを試み、マスメディアを利用した洗脳という方法を使った。
実際これはかなり効果を上げた。だからほどほどにしておけばよかったのだ。
しかし人間は立ち止まれない生き物なんだなぁ。

一度行ったら二度と帰って来られない火星への片道切符を世界各国20万人もの人が求めるという世界では、同じことがイスラム国に起こってもちっとも不思議ではない。

ついでなのでもう一言。
「イスラム国(Islamic State)」と言うと国を承認しているみたいだから、略語の「ISIL」で「アイシル」と呼ぶと日本政府は申し合わせたようで、安倍首相もアイシルなどと言っていたけれども、違和感がある。
ISILだって「イラク・レバントのイスラム国(Islamic State in Iraq and the Levant)」の略語に過ぎない。
「イスラム国(Islamic State)」は認めないけれど、「イラク・レバントのイスラム国(Islamic State in Iraq and the Levant)」は認めたんですか?と言いたくもなる。
イスラム圏全体に及ぶような支配は困るからほどほどにしてねという意味があるんだろうか。
略語でイスラム臭を消したのであれば「IS(アイエス)」でいいと思うし、そもそも「ISIS(アイシス)」やら「ISI(アイシ)」とある中、なぜ「ISIL(アイシル)」を選ぶのか?
よくニュースなどで提示される地図を見れば「ISIS(イラク・シリアのイスラム国)」のほうが合っていると思うけれども。
ヨルダンとイスラエル(パレスチナ)にも参加してもらいたいということなのかな。
さらに言えば「ISIL」を「アイシル」と読むのがおかしい。アイフォンじゃないんだから、日本人は「イシル」と読むべき。
WHOを「フー」や「ダブルホー」とは言わないから素直に「アイエスアイエル」でもいいと思う。
英語風なら「アイスル」?愛する??


国民党時代への道

孫文は1917年に武力を背景にした別政権を樹立し、1919年には中国国民党という政党を結成した。
孫文はどちらかといえば、いわゆるエリート派だったのだ。
しかしヴェルサイユ条約に高まった反日愛国運動にて若者の共産主義思想が拡大したことに呼応するように、自身もソビエトの過激派でロシア革命勝利者のボルシェビキをモデルに革命政党を目指すようになる。

1921年には毛沢東や北京大学の組織がまとまり中国共産党が設立された。
北京大学にあった組織の指導者はやはり日本に留学していた者である。
中国国民党に中国共産党と相次いで政党が誕生したわけだが、革命をルーツにし、過激派をモデルにしたくらいなので武力(軍事力)は欠くことの出来ないものだった。(中国国民党-国民革命軍、中国共産党-中国人民解放軍)
中国共産党の結成を受けて、中国国民党は一旦は反共主義に傾く。

しかし1923年頃から両政党はともに大きな影響を受けたソビエトのボルシェビキが主導したコミンテルンの指導の下、「国共合作」の方針が打ち出され、両党は協力関係となる(1924~1927年)。

・奉天派(張作霖) ←日本
・直隷派 ← 欧米 ×
・中国国民党と中国共産党 ←ソビエト連邦

1924年9月 第2次奉直戦争(奉天派vs直隷派)が勃発。
1924年10月 直隷派の馮玉祥が寝返りクーデター(北京政変・首都革命)。
          段祺瑞が臨時政府執政、実権は張作霖と馮玉祥。馮玉祥は国民軍を結成。
1925年3月 中国国民党の指導者・孫文が病没。
1925年11月 張作霖の部下の反乱。その後ろに馮玉祥あり、さらにその後ろにはソ連の影があった。
1926年 北京にて奉天派と馮玉祥(元直隷派)率いる国民軍が対立。
      張作霖は直隷派の有力指導者・呉と和解し手を組み、「討赤」を発して国民軍を打倒した。馮玉祥は失脚。
1926年7月 孫文の後継者・蒋介石率いる中国国民党が北伐を開始。これにより直隷派は崩壊。
1927年4月 中国国民党が上海にて中国共産党を弾圧。国共合作は崩壊し国共内戦に突入した。
         また北京のソビエト連邦大使館を襲撃したため中華民国とソ連の国交は断絶した。

張作霖はこのあたりから親日から反日反共という欧米寄りの姿勢にシフトする。
国際連盟に加盟せず軍縮したアメリカはアジアに進出しておきたく、これを積極的に支持。
満洲で良好な関係を保っていた張作霖と日本は、満洲を巡って険悪な関係になっていく。
また中国共産党の台頭に不安を抱く欧米や中華民国の資本家らは中国国民党の蒋介石に対し、中国共産党を排除して早期の治安回復を要求した。
これによって1924年から続いていた国民党と共産党との協力関係が終焉した。
中国共産党(ソ連)の協力なくしては国民党の北伐は事実上不可能であったが、欧米の支持を得たことで可能となり、ついに1928年悲願の統一を果たす。

・奉天派(張作霖) ←欧米 ・・日本 ×
・中国国民党 ←欧米 ・・日本
・中国共産党 ←ソビエト連邦 △


蒋介石の曾孫

蒋介石の曾孫さんは政治家にはならず、第二次世界大戦敗北まで日本の植民地だった台湾でデザイン会社を創業してご活躍だそうだ。

東日本大震災の時に一番多く義援金を送付してくれた国(地域)が台湾でしたね。
中国と台湾については、こちらの「ちょっとやそっとじゃ理解できない歴史」と「2つの中国」にも書きました。




by yumimi61 | 2015-02-08 12:35