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昭和 弐拾壱

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張作霖爆殺事件(皇姑屯事件)

大正時代の終わり頃から、中華民国の張作霖は欧米寄りになっていた。
満洲の馬賊出身で非合法組織のトップとなり、奉天派という軍閥を率いた人物である。
日露戦争を契機に日本に囲われた張作霖は満洲を支配し中華民国統一を目指した。
軍閥のライバルであった安徽派や直隷派を倒し倒れていく中、最後まで生き残ったのは張作霖であり奉天派であった。
しかし張作霖の最期はあっけなかった。

1928年6月4日、張作霖は乗っていた列車もろとも爆破された。
鉄道の橋脚に爆薬が仕掛けられていたのだ。
日本は予めこれは中国国民党の仕業であると思わせるがごとくアヘン中毒患者を利用して偽装工作を行っていたという。
当初は統一を目指して争っていた中国国民党が疑われたが、ほどなくして日本の犯行であったことが判明する。
しかし日本と言っても、日本側が認めたのは「関東軍の独断による犯行」であって、日本政府の関与は認めていない。
また終戦(第二次世界大戦)までは日本の関与は隠されており、日本政府内では「満洲某重大事件」と呼ばれていた。
当時は天皇の許可なく勝手に軍事行動をする事は死刑に処される程の重罪であったが、独断で犯行に及んだ首謀者達は処罰されるどころかみな出世したそうだ。

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緑線は中国人が作った鉄道で、当時は北京~奉天間を京奉線と呼んでいた。
赤〇が奉天で事件現場。南満州鉄道と交差する。
張作霖は緑の線に乗っていた。


関東軍というのは満洲にいた日本の軍隊。
国外には、台湾軍、朝鮮軍、天津軍(清国駐屯軍→支那駐屯軍)という名の日本の軍隊があった。
関東というのは中国で山海関の東側(要するに満洲)という意味で使われていた地名であった。
現代の日本にも関東地方が存在するが、日本の関東も古くは近畿地方から東(アルプス山脈あたりを境)を関東と呼んでいた。
満洲にいた軍隊だから関東軍なわけだが、現代の感覚だと日本の関東地方の軍隊が派遣されたように感じてしまう。


次世代

私には息子がいた。(まあ今もいるけれども) 張作霖には息子がいた。1901年生まれの張学良である。
1901年ということは昭和天皇と同い年ということだ。
父が暗殺された時には27歳だった。
父の満州における全権力と財産を承継した。

欧米寄りになっていた父の張作霖が生前すでに「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との条件で、中国国民党(蒋介石)に歩み寄っていた。
父が日本によって暗殺されたことを知った張学良も反日となり、中国国民党へ融和。
警戒した日本の田中義一首相は張学良のもとへ外交官を派遣し考えを変えるように懇願するも、張学良は日本の要求を拒絶した。
張学良は中国国民党への服属を表明することを条件に、満洲への不干渉を蒋介石に認めさせた。
1928年12月29日、満洲の全ての旗がこれまで用いていた北洋政府(北京政府)の五色旗から蒋介石率いる中国国民党の旗に変更された。
奉天派は南京政府(中国国民党の政府)の東北軍という位置づけとなった。
これにて蒋介石は中華民国統一を果たした。
ただし、満洲への不干渉といういわば独立状態を認めたように、中国国民党・蒋介石の圧倒的支配力による統一というよりも抱え込み混成チームのようであった。



あれから3年3ヶ月

1日があっという間に終わって、気が付けば年末で、もう何年もそんな日々を過ごしているような気がするけれど、どうしてか不思議とあれから3年3ヶ月も経ったように思えない。
子供はいつか大人になると知っているのに、いつも子供だと思っていた。
私が思うよりたぶんきっと大人になっていて、遥か昔に私が大人を疎んじたように、同じことが繰り返されても、そう全然おかしくないのに、それに気付かないで、ある日ふとそれに気付いた。


1931年9月18日、南満州鉄道の線路が爆破されるという事件が起こった。
事件発生場所は張作霖爆殺事件現場の近くである。
南満州鉄道を管理していた関東軍はこれを中華民国東北軍の犯行によるものだと発表した。

すでに述べたことであるが、日露戦争後に満洲が日本のもの(租借地)になったわけではない。

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下記は日露戦争の講和会議にて日本が提示した講和条件の中で満洲について触れている部分。

・ロシア軍の満州よりの全面撤退、満州におけるロシアの権益のうち清国の主権を侵害するもの、または機会均等主義に反するものはこれをすべて放棄すること。
・満州のうち日本の占領した地域は改革および善政の保障を条件として一切を清国に還付すること。ただし、遼東半島租借条約に包含される地域は除く。
・日露両国は、清国が満州の商工業発達のため、列国に共通する一般的な措置の執行にあたり、これを阻害しないことを互いに約束すること。
・ハルビン・旅順間鉄道とその支線およびこれに附属する一切の権益・財産、鉄道に所属する炭坑をロシアより日本に移転交附すること。
・満州横貫鉄道(東清鉄道本線)は、その敷設にともなう特許条件にしたがい、また単に商工業上の目的にのみ使用することを条件としてロシアが保有運転すること。
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合意した講和内容骨子(ポーツマス条約)のうち満洲に触れている部分。

・日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
・ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
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鉄道付属地という占領地

現代では空路という手段もあるわけだが、それでも鉄道の敷設権というのは非常に重要なものであり、発展途上国などでは各国の思惑が入り乱れるところである。
敷設権というのは鉄道を引く土地を確保し、そこに鉄道を建設して、運営する権利である。
他国の領土に入り込んで、鉄道という大量輸送可能な武器とも戦闘機とも言えるものを通すわけだから、敷設権を取られた側にとって、ある意味においては全土を占領された状態よりも落ち着かない。
うかうかしていられず非常に脅威である。

1896年、清の対日賠償金(日清戦争)に融資したフランスとロシアは、その見返りとしてシベリア鉄道の短絡線となる東清鉄道の敷設権を得た。(露清密約)
また1898年に旅順と大連の租借権を得たロシアは東清鉄道と大連とを結ぶ支線(南満洲支線)の敷設権も得た。

これらの条約でロシアは鉄道の建設に必要な土地を清から獲得している。この土地を「鉄道附属地」と呼ぶ。
本来は「鉄道の建設や運営」であるが、条約には「その保護のために必要な土地」も含まれていた。
そこでロシアは、列車の燃料である石炭を掘る炭鉱、線路に敷く枕木や砂利のための森林や河川なども鉄道付属地とした。
さらに鉄道を利用してもらうためには駅も必要である。利用者が快適に利用するには駅周辺を整備しなけれなならないと拡大解釈していき、駅周辺に広大な土地を確保。
鉄道警備のための軍隊や警察を駐留させるだけでなく、インフラを整備して町を作った。
そうなれば鉄道建設運営に必要な土地の管理権では済まなくなる。絶対的排他的行政権を認めさせた。
そこは租界のように中華民国政府の権限が及ばない治外法権の地となった。

日本は日露戦争の勝利で、東清鉄道の南満洲支線を得て、1906年に半官半民の南満州鉄道を設立した。
この時に鉄道附属地制度もそっくり継承したと言われている。
確かに日本が提示した講和条件では「これに附属する一切の権益・財産、鉄道に所属する炭坑をロシアより日本に移転交附すること」とある。
しかし合意した講和内容骨子には「付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する」としか記されていない。


南満州鉄道を日本が経営するようになってから、鉄道付属地はさらなる拡大をみせた。
もともと明確な線引きがなく、「鉄道の建設や運営、その保護のために必要な土地」という定義なので、「ここも必要だ」と言えば改めて中華民国の了承を得ることなく、どんどん拡大できてしまうのだった。
要するに鉄道会社は個人から土地を買い取ればよい。
買い取った場所は鉄道会社の管理行政管轄となる。
こうやって南満州鉄道の附属地と住民が増えていったのである。


取り残された地域
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ロシアが敷いた東清鉄道というのは元々はシベリア鉄道の一部であった。
1904年(日露戦争中)のシベリア鉄道全線開通では東清鉄道(短絡線)がシベリア鉄道のルートとして利用されていた。
ロシア領だけを通るシベリア鉄道ルートが完成したのは第一次世界大戦(1914-1918年)中の1916年のこと。
その翌年の1917年にロシアでは革命が勃発し帝国が崩壊した。
革命政府は中華民国内の権益をすべて放棄することを宣言し、1921年に東清鉄道関連権益も返還された。

1922年に張作霖が東清鉄道沿線を特別区と定めて行政権を持った。
1924年には鉄道両側15キロメートルの地域を「東省特別行政区」と定め、ここは省政府の行政権が及ばない特別区として扱われ、満洲(張作霖)に委ねられた。
1928年に蒋介石(中国国民党・南京国民政府)が統一を果たした時にも特別行政区は維持された。
さらに張作霖らは南満州鉄道に対抗すべく新しい鉄道を作り、利益を奪い合うようになっていた。

ロシア革命政府が返還した1921年というのは、中華民国がドイツと第一次世界大戦の講和条約を結び国交を回復した年でもある。
この時にドイツも日本に移った山東省(膠州湾・青島)以外の権益はすべて中華民国に返還した。
日本がドイツから獲得した山東省の租借地および山東鉄道も1922年のワシントン会議にてイギリスとアメリカ仲介のもと締結した条約にて返還が決まった。
こうなると南満州鉄道が重要性としても懸念材料としても際立ってくる。

そんな中、満洲王と呼ばれた満洲の支配者・張作霖が欧米寄りの姿勢を見せていたのだ。
これを脅威に思い、これ以上利用できないと踏んだ日本(満洲駐留軍)が張作霖を鉄道を利用して暗殺。
その3年後には日本が管理していた南満州鉄道の線路が爆破した。
これが満州事変の発端となった鉄道爆破事件(柳条湖事件)である。
関東軍(日本の満洲駐留軍)はこの爆破を中華民国東北軍の犯行と発表することで、満州における武力行使の口実としたのだった。
張作霖爆殺事件同様に、日本では第二次世界大戦終結まで、日本の謀略事件であったことが隠されていた。








by yumimi61 | 2015-02-11 15:52