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昭和 弐拾弐

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かおなし~






岡倉大吉

1931年、日本側が武力行使に出たいがため自ら仕掛けた柳条湖事件を端に満州事変が勃発した。
満州事変は日本と中華民国の武力衝突である。
国家間の戦いなので戦争と言ってもよいものだが、宣戦布告はなく、満洲にいた関東軍が日本の天皇や政府の意向に沿わず暴走した(勝手に行った)という見解にあるので、戦争ではなく事変と呼んでいる。
もしもそれが本当に日本の意に添わない関東軍の暴走であるならば、関東軍を反乱軍と見做し制圧や鎮圧するべきだったのではないか。
日本政府は不拡大方針であり、そう指示もしていたというが、「話せば分かる」はいかにも悠長だったのではないだろうか。
この満州事変から日中戦争、大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)の流れを「15年戦争」と呼ぶ。
満州事変は「15年戦争」の起点でもある。
戦争や紛争というものはどれも単発に突然起こるわけではなく、区切りを入れなければ全てがみな繋がっているものだと思う。
「変化こそ唯一の永遠である」を分かり易く言い換えると「戦争(争い)こそ唯一の永遠である」になる。
これなら歴史的にもすごくしっくりするでしょ?

「そうです。だから私達はISIL(アイシル)と断固戦うのです!強い姿勢を見せなければ、はは~んまたかと疑われてしまいます!」 

関東軍は 僅か5ヶ月程で満洲全土を占領することに成功した。


徳川埋蔵金とは要するに金(Gold)

1924年からアメリカの株価が高騰。
一夜にして億万長者を目指す人々やバブル経済に酔った人々が投機に手を出す。
こうなるとマネーは投資ではなく投機で回っていくようになる。
投資と投機というのは似ているようだが目的が違う。従って結果も違う。行う人も違う(同じ場合もある)。門戸が広がる。
投資の過剰も悪影響を及ぼすことは確かだが、投機でお金が回るようになると製造業など従来の産業はどうしても弱体化してしまう。
こうした中で1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落した。
これを発端に世界大恐慌(不況・金融危機)が起こった言われ、この日はBlack Thursday(暗黒の木曜日)として知られている。
しかしこれがウォール街の騒動に留まらず世界大恐慌に繋がった直接の原因は、1931年5月11日のオーストリアのクレジットアンシュタルト銀行(ロスチャイルド系)の破綻だったと考えられている。
また世界経済に大きく関わっているのは戦争に掛かった費用や賠償金などである。

この世界大恐慌は金(Gold)の確保のために起こされた恐慌ではないだろうか。
この時の世界大恐慌によって金本位制が揺らぎ、1931年のイギリスを皮きりに相次いで金本位制を停止し、1937年のフランスを最後にすべての国が金本位制を離脱した。


日本では第一次世界大戦と関東大震災の影響から1927年に昭和金融恐慌と呼ばれる金融恐慌が起こった。前述した震災手形がこれに関係している。
それに引き続いて1930~1931年には農業恐慌が起こった。
同時期に発生した世界恐慌によって生糸の輸出が激減すると、連鎖的に農産物の価格も崩落した。
収入が絶たれるという大きなダメージを受けたのは農業に従事する者が多い地方である。
併せて自然災害や気候の影響なども受けて、厳しい状態は1935年頃まで続いた。

しかしそれでも「土地」という資産を持つ者には底力がある。
「金(Gold)」もそれと同じである。
江戸時代まで日本は「黄金の国」と呼ばれるほど、世界有数の金産出国だった。
アメリカもまた多くの金(Gold)を所有していた。
現代において世界で一番金(Gold)が産出できるのは中国だろう。
日本やアメリカが保有していた金(Gold)はいったいどこに流出して誰が持っているのか?


新たな黄金の国のラストエンペラー

満洲事変は1931年9月に勃発し、1932年2月には満州全土をほぼ占領し、3月1日に満州国の建国を宣言した。
国家元首にあたる執政には、清朝の廃帝である愛新覚羅溥儀が就いた。別名は浩然。
清のラストエンペラーが満洲国で見事に復活を果たしたわけだ。
1934年に帝政に移行し、愛新覚羅溥儀は皇帝(康徳帝)となった。 (康徳は満洲国の元号だった。徳川家康由来?漢字はこっちが先だから?)
この体制が第二次世界大戦終結まで続いた。ナポレオンの100日天下など足元にも及ばない復活である。
愛新覚羅溥儀は清のみならず中華圏(中国)のラストエンペラーとなったのだ。(今のところ)

日本の皇室との関係は非常に良好で、1935年に国賓として康徳帝が訪日した際には昭和天皇自らが東京駅まで迎えに行くという、日本の歴史上無いほど異例の歓迎ぶりだったという。(今年は訪日80周年記念!)
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昭和天皇(左上)、康徳帝(右上)、スターリン(左下)、蒋介石(右下)
『タイム』(1936年2月)



気力が無かった

僅か5ヶ月で満洲の占領に成功した日本(関東軍)であったが、実は当時満洲を支配していた張学良(関東軍に暗殺された張作霖の息子)は交戦しなかった。不抵抗を指示したというのだ。
「どうぞご勝手に」ということである。
政府の意に添わない武力行使や侵略を行っている自軍(関東軍)に「不拡大方針」を指示しただけで放置しておいた日本政府も日本政府ならば、父親が暗殺されて激怒したはずなのに「不抵抗方針」を指示した張学良も張学良である。自分の身にも危険が及ぶから?
そうとなれば中華民国最高指導者の蒋介石に采配を振るってもらうしかないと思ったら、「不抵抗方針」は中国国民党(蒋介石)の指示だったという。あららららら。
じゃあ中国国民党に指示なり助言したのは誰か?という話になるわけで。誰?


満洲人ではないのに満洲国で幅を利かせた日本人

イスラム国は国ではなく過激派組織だということだけれども、満洲国はその名の通り、国になったのである。
軍による、つまり武力による占領であったが、日本の植民地にしたわけではない。中華民国から独立させたのである。
日本の右翼の方々(?)がよく「満州事変は侵略戦争ではない!」「日本が列強国の侵略から守ってあげただけ!」などと言われる所以でもある。
このあたりは非常に策略的である。
満洲国(帝国)は、日本とりわけ関東軍の強い影響下にある「日本(帝国)と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。
さらに強烈なのは、満洲国は満州民族と漢民族と蒙古民族からなる「満洲人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとしたことだ。(満洲に漢や蒙古も含んでしまっている。いいような悪いような・・)
そして建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」と「王道楽土」を掲げた。(日本人や朝鮮人までひっぱり出してきている・・いいような悪いような・・)
原則や理念を決定しても、具体的に国籍法などは制定しなかった。また相も変わらず治外法権の南満州鉄道付属地も存在した。
1922年のワシントン会議でフランス代表に「 シナとは何ぞや」と質問されて、満洲から派遣された中華民国代表はそれに答えられなかったということだが、この時も「満洲国民とは何ぞや」ということが明確ではなかった。
そこには「ユダヤ人」という定義の面影を見ずにはいられない。
大日本帝国と満洲国(満洲帝国)は同じ国なのか違う国なのか。植民地でないとするならば連邦国家なのか国家連合なのか。これもはっきり分からない。

ロシアやドイツといった旧帝国が中華民国の権益を返還したとはいえ、イギリスやフランス、アメリカや日本などは依然租界など多くの権益を所持していたし援助もしていた。
歴史的には東北地方の満洲ばかりが目立ち、そこに深く関係した日本(関東軍)ばかりが取り沙汰されるが、南の方にも権益はあったのだ。
そうした国の中にありながら勝手に軍隊や軍閥を中心に独立国家を樹立させ、再び君主制を布くということは、満洲や中華民国のみならず列強国や国際連盟との軋轢が生じるのは必然的な成り行きである。







by yumimi61 | 2015-02-13 00:23