人気ブログランキング |

by and by yumimi61.exblog.jp

カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

昭和 弐拾陸

e0126350_14185995.jpg





議定書

1900年の北清事変(義和団の乱)が名前に似合わず大規模な国家間戦争であったことはこちらに書いた
清と清に進出した外国勢の間に起こった戦争であり、外国勢はイギリス・フランス・ドイツ・ロシア・アメリカ・イタリア・オーストリア=ハンガリー・日本と錚々たる顔ぶれである。
イギリスとの2度の戦争(アヘン戦争、アロー戦争)、日本との日清戦争、その全てで敗北した清は膨大な賠償金を取られ、不平等条約を結ぶことを余儀なくされた。
さらには戦争していない国々にまで脅され不平等条約を結ぶ羽目となり泣きっ面に蜂。
国は弱体化しておりどう見ても勝算はないように思うが、清は果敢にも列強国相手に宣戦布告したのだ。それが北清事変である。
戦争のきっかけとなる反乱を支持し煽ったのは女(清末期の権力者だった西太后)であった。
敗戦後は責任を取ることも無く西洋文化に親和したというから何とも痛ましいかぎり。
ドイツの「背後からの一突き」ではないが、やはり崩れる時は大抵内部からなんだろうと思わずにはいられない。


北清事変終結後に清と交戦列国との間で「北京議定書」と呼ばれる条約が締結された。
この戦いを「戦争」と呼ばず、終戦後に結ばれた国家間の約束事を「条約」ではなく「議定書」と呼称することが、何だか怪しい気もする。
これまでに清と結んだ不平等条約の補則であるといった意味での「議定書」だろうか?
議定書と言えば「京都議定書」しか思い出さないという人もいるだろうが、議定書も条約と言い換えることが出来る。


矛盾

北京議定書は清に有無を言わせない条約であった。無条件降伏とも言える。
無条件降伏といえば日本ではお馴染みの言葉だが、軍隊の無条件降伏であり日本という国が無条件降伏したわけではない、有条件降伏だったと解釈する人もいる。
裁判や交通事故の過失割合のように発生状況や事情や程度を考慮せず、勝者の言い分に必ず従わなければならないというのであれば、どんな手段を使っても勝ったほうがいいと思うだろう。捨て身になりやすい。
よって戦争に至る前の仲介のみならず、戦争に対しても公平に冷静に評価や判定がなされるべきだと思うが、公平中立というのが何よりも難しいし、戦火の中にいる人は限られており解釈や感じ方は個々に違い、人間は時に嘘もつくわけだから調査や判定にも限界がある。

清は革命によって中華民国に変わった。
革命という大きな変化があった国で旧体制が受け入れた条約はどのように扱われるべきだろうか。
そうした条約そのもの、又はそれがもたらした状況に不満を抱き、革命が起こされ成功したとするならば、条約の意義は揺らぐ。
列強国は少なからずその革命を支援したのだ。
無条件に条約を受け入れた国を崩壊させることに手助けしたということになる。

北京議定書に以下のような条文が含まれている。

・各国公使館所在の区域を特に公使館の使用のみに充てる。この区域は、各国公使館の警察権下に属する。また、この区域内における清国人の居住を認めず、公使館を防御できる状況におく。
・大沽砲台および、海岸から北京までの自由交通の妨げとなる砲台をすべて撤去する。
・清国は、列国の海岸から北京までの自由交通を阻害しないために、列国が同間の各地点を占領する権利を認める。その地点は、黄村・楊村・郎房・天津・軍糧城・塘沽・盧台・唐山・濼州・昌黎・秦皇島及び山海関とする。
・ロシア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア、ベルギーの天津租界の設定。


これ以前の不平等条約で清にはすでに多くの外国人居留地(港や貿易拠点地周辺、駅周辺など市街地、避暑地、各国の租界、共同租界など)があったが、さらに公使館区域や主要拠点の占領権・警察権・駐留権などが追加され、半植民地化はいっそう進んだ。
これらの地はみな治外法権であり、清の主権を奪うものである。
中国の土地はよほど魅力的だったのであろう。
これは第二次世界大戦終結まで続いたので、蒋介石の国民政府時代にも当然存在していた。

なぜ北京議定書の話をしたかと言えば、これが支那事変(日中戦争)に関係するからである。


黄金の国対決!?

戦争は突然起こるものではなく、必ずといって歴史的背景を持つ。
抗日運動が吹き荒れる最中の1937年7月7日に事件は起きた。
盧溝橋事件、日本の支那駐屯軍(天津軍)第3大隊と中華民国の国民革命軍第29軍との衝突事件であり、これが支那事変(日中戦争)への引き金となった。

e0126350_21275763.jpg

北京議定書にある「列国の海岸から北京までの自由交通を阻害しないために、列国が同間の各地点を占領する権利を認める地点」は、北京から天津、渤海湾岸の塘沽までの赤ライン上と赤丸にある。
満洲国熱河省と冀東防共自治政府と書かれている辺りが満州事変で国境を争った地域。
しかし満州事変を戦った日本の軍は関東軍であった。
支那事変のきっかけは支那駐屯軍(天津軍)である。
同じようでこれが結構違うものなのだ。派閥とは恐ろしいものであることを皆さんよく御存知ですね?
中華民国も軍閥や政党間の争いが絶えなかったわけだが、郷に入ったから郷に従ったのか、それともそれが本質なのか、日本軍にもそうした傾向が認められた。
敵が多いので理由はそれだけに限らないかもしれないが、華北への進出を企てる関東軍を阻止するために支那駐屯軍も兵力を増大させていた(日本軍権力争い)。

「冀東防共自治政府」は満州事変後の日本の華北分離工作・自治運動(中国人を利用して自治を宣言させる)によって誕生した自治政府。
「冀察政務委員会(緩衝政権)」は国民政府(中国国民党・蒋介石)によって設置された地方政権(自治政権)。
日本が民衆自治運動を利用して勢力を拡大しつつあった頃、、日本が要求し支援している自治運動の形式をとって作られた地域。
国民政府の国民革命軍の宋(軍人)が委員長であり、日本人の軍事顧問が招聘されていた。
盧溝橋事件はこの中で起きたものである。

日本軍支那駐屯軍第3大隊(第7、8、9中隊、第3機関銃中隊)および歩兵砲隊は「冀察政務委員会(緩衝政権)」領内の豊台に駐屯しており、1937年7月6日7日は、盧溝橋近くの荒蕪地で演習を実施していた。
7月7日22時40分頃、夜間演習を行っていた第8中隊に向けて中国兵が堤防から実弾を発射し、それがもとで武力衝突に至る。
この場所での戦い自体は5日ほどのものであった。
兵士は中華民国の国民革命軍のほうが圧倒的に多かったが、この戦いによる死者は国民革命軍のほうが多かったそうだ。

支那駐屯軍が駐留していたことは北京議定書に基づくもので正当であるとよく言われる。
駐留していたことは北京議定書に基づくものであったとしても場所が問題である。
豊台及び盧溝橋近辺は占領の権利を与えられた地点ではない。
位置的にも境界付近だから一般的に考えても不安定で危険が多い場所であると予想される。
なぜそんな場所を駐留地にしたかと言えば、1911~1927年までイギリス軍が駐屯していたという実績から選ばれたそうだ。

演習は中華民国側に通知すれば可能だったそうで、事前(7月4日夜)に通知してあったということだが、一口に中国側に通知したと言っても、どこに通知したかも問題である。
日本軍にも幾つかあったのと同じで、同じ国民革命軍と言っても指揮系統に違いがある。

盧溝橋という場所はマルコ・ポーロの書いた『東方見聞録』に登場しており、「この橋は世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と記してあるそうだ。
このことから欧州では「マルコポーロの橋(伊:Ponte di Marco Polo、英:Marco Polo Bridge)」と呼ばれていた。
事件が起こる前より、ちょっとした有名な橋であったのだ。
橋の欄干には、それぞれが異なる表情や姿をした501基の獅子の彫像が置かれていて、その数を通行人が正確に数えることは難しいことから、中国語では「数えられないもの」のことを「盧溝橋の獅子」と表したりするそうである。
『東方見聞録』には「黄金のジパング」も紹介されている。

e0126350_17374916.png

e0126350_17381231.gif

ウイグルとはウイグル語を話すムスリム(イスラム教徒)。
新疆ウイグル自治区はウイグル族の民族自治区であるが、
居住者はウイグル族とは限らず、漢族やモンゴル族などもいるという。
中華人民共和国というのはあらゆる方角からの圧力があり、落ち着かない地であることが分かる。









by yumimi61 | 2015-02-17 11:55