人気ブログランキング |

by and by yumimi61.exblog.jp

カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

昭和 肆拾質

e0126350_17463771.jpg

e0126350_1751522.jpg




ルターのパラドックス

下記青字はマルティン・ルターWikiの修道院生活におけるルターと「神の義」に書かれている文章である。
少々長くなるが転載する。

ルターの心を捉えて離さなかったのはパウロの『ローマの信徒への手紙』に出る「神の義」の思想であった。いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、できうる限りの善業を行ったとしても、神の前で自分は義である、すなわち正しいと確実に言うことはできない。この現実を直視していたルターは苦しみ続けたが、あるとき突如光を受けたように新しい理解が与えられるという経験をする。そこでルターは人間は善行(協働)でなく、信仰によってのみ (sola fide) 義とされること、すなわち人間を義(正しいものである)とするのは、すべて神の恵みであるという理解に達し、ようやく心の平安を得ることができた。これが「塔の体験」と呼ばれるルターの第二の転機であった(「塔の体験」という名前はヴィッテンベルク大学学生寮の塔内の図書室において新しい福音の光が与えられたと、後年述べたことに基づいている)。ここでルターが得た神学的発想は、のちに「信仰義認」と呼ばれることになる。

ルターはこの新しい「光」によって福音と聖書を読み直すことで、ルターは人間の義化に関しての理解と自信を増していった。「正しいものは信仰によって生きる」、かつてあれほどルターを苦しめた「神の義」の解釈を見直したことによって大きな心の慰めを得るようになったのである。



ルターが最初にぶつかった信仰上の悩みが綴られている。
神は完全で絶対、人間の上に立つ最高位にあって、唯一無二の存在。全知全能なのは神だけ。
こうした場合、人間は必ず神の下にある。人間が人間である以上神と並ぶことは決して出来ない。
従ってどんなに善行に努め正しい人を心掛けても、神を正しいとするならば人間は正しくはなれない。
神と並ぶことは許されないからだ。

以前私はこちらの記事の「科学者達のパラドックス」で全能の逆説について書いた。
ルターの悩みもパラドックス的である。
正しさを追求すればするほど正しくない自分を実感してしまう。
上を目指せば目指すほど決して到達できない現実を突きつけられてしまう。
真摯に信仰すればするほど救いになるはずの宗教が自分を苦難へと導く。
これはルターという人の性質がどうこうという悩みではなく、神の絶対性から生じるものであるので改善の余地がない。
目の前に広がるのは絶望という荒野だった。

そこでルターが何を見出しかと言えば、正しさの基準である。
人間の性質や行いを基準にしてはいけない、基準は信仰心にあるのだという境地に達したのだ。
神を信じてそれに素直に従った人間は神から正しさを与えられるから心配しなくていいと安心したわけである。
今風に言えば、洗脳、マインドコントロールに足を踏み入れている。
しかしまあ救いになることは確かであろう。
自分であれこれ悩み考えなくても、神の指示に従いさえすれば正しさを享受できて、それによって心の平安や幸福感を得られるのだから。

ルターはおそらくローマ教皇など人間を神として見ることが出来なかったのだろう。
かといってルター自身は神から啓示が与えられる人間でもなかったし、そう嘯く(うそぶく)ことも出来なかった。
そんなルターが神としたのは聖書だった。
ローマ教皇には盲目になれなくとも、聖書には盲目になれてしまう。それを愛と言うならば。


神の義に支配された世界

「義」は正しさや道徳・倫理的であることを表す言葉(漢字)である。
正義、仁義、意義、忠義、大義、義理、、
これらの言葉は皆そうした意味の中にある。
ところが現代人が感じる「義」は「偽」に近い。
義理や義父母などといった言葉から「義」に本物ではないという意識が働いてしまうのである。
人間としての正しさや社会生活上大事なのは「義」だと言っているのに、「いやいや血縁のほうがよっぽど大事だ」ということになってしまう。
会社より家庭、赤の他人である夫婦より血の繋がった子供、同じ血の繋がった子供ならば嫡子、こういう価値観に移行していく。

上記ルター記述にあるように、「義」はユダヤ教やキリスト教においては「神の義」の意味で用いられる。
この際、義は普通の倫理的な意味における「正義」とは異なり、唯一神の属性であり、それに則ることこそ人間の義なる(正しき)生活の規範とされた。


STAP細胞のパラドックス

無意味な時間稼ぎが功を奏したSTAP細胞を蒸し返して申し訳ないが、あれは人々が考えるよりずっと深刻な問題を内包していた。
緑色蛍光の画像とか、キメラマウスやマウス管理とか、遺伝子や放医研のこととか。
ES細胞で幕を閉めた観があるがそのES細胞そのものとか。

沢山の矛盾があったSTAP細胞論文の最大のパラドックスは、TCR(T細胞受容体)の遺伝子再構成である。
T細胞という分化した細胞が小保方処理によって全能性(のち多能性)を持つ初期化した細胞になった。
そのことの証明の1つとして、初期化した細胞にTCR(T細胞受容体)の遺伝子再構成が認められたと論文では述べていた。
つまり元の細胞は分化した細胞だったと主張したかったのである。
しかし初期化したのに分化した細胞の遺伝子再構成が残っていることはおかしい。
分化した特定の細胞の遺伝子再構成という現象を細胞の初期化の証明に用いていたというパラドックス。
初っ端のこれが決定的だったのだ。
そう思ったら、理研はその後、STAP幹細胞を調べてみたら遺伝子再構成は認められなかった、だからSTAP幹細胞が分化した体細胞に由来したとする証拠は無いと判明したと訂正発表した。

この「STAP幹細胞にはTCR再構成が確認できなかった」という理研の報告に多くの専門家が衝撃を受けたと語っていた。
しかしここで衝撃を受けるのはおかしい。
論文ではSTAP細胞が万能性を発揮しキメラマウスを作ったと述べているのである。
STAP細胞が胎仔にも胎盤にもなることが分かったと喜んでいたのである。

何故STAP幹細胞を作ったかと言えば、STAP細胞に増殖性がなかったからだそうだ。
増殖性がないということはマウスや人間を形成していくことは不可能である。
STAP細胞だけでは何にもなれないと言っているわけだが、誰も突っ込まない。

小保方さんはSTAP幹細胞を作れなかった。記者会見でもそう述べていた。
幹細胞を作ると言ったって何かを自分で組み立てるわけではなく、何かを添加しての培養である。
培養が苦手で出来ないと言われたら・・・。

ともかくSTAP細胞から幹細胞樹立(増殖性獲得)には副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)が使用されたと書かれていた。 
副腎皮質ホルモンはリンパ球の活性を抑制する。培養中のT細胞に添加すれば死滅に至る。
STAP細胞の基になったのはT細胞である。
STAP細胞は初期化したのだからT細胞はもう関係なくなっているはずだが、万一関係が残っていたとしても幹細胞樹立の過程でT細胞は壊れてしまう。
TCR遺伝子再構成が綺麗に保たれていることのほうが不思議であるから、ここでTCR遺伝子再構成が認められなくても別に驚かない。

問題は幹細胞ではなくSTAP細胞なのだ。
それなのに理研もそれについては触れなかった。幹細胞に話をすり替えた。

元の細胞は分化した細胞だったと証明する(人々に知らしめる)方法がない。
しかしそれをしないと分化した細胞が初期化したという証明にならない。
そこでTCR(T細胞受容体)遺伝子再構成を利用して、細胞の特定と分化細胞であることの証明をしたが、逆にそれが命取りとなった(それが残っているということは初期化していないことの証明にもなってしまうため)。
パラドックスまみれ。








by yumimi61 | 2015-03-31 11:27