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昭和 肆拾捌

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言いたいけど言わない

前回STAP細胞の話を蒸し返したが、それで思い出したのが野口英世だった。
野口英世は晩年ロックフェラー医学研究所に所属して研究に携わっていたが、STAP細胞からキメラマウスを作製したり幹細胞を樹立した若山教授もロックフェラー大学に助教授として在籍していたという経歴をお持ち。
さらに野口英世はチフス(黒死病)とも無縁ではない。

野口英世は紙幣の肖像にもなっているくらいなので、彼を知らないと言う日本人は少ないであろう。
しかし野口の何を知っているかと問えばかなり微妙なのではないだろうか。
細菌学者だったらしいということくらいは知っているだろうか。
現代の子供達がどうかは分からないが、一昔前の子供と野口英世との最初の出会いは伝記であったと思う。
日本の伝記シリーズには必ず名を連ねていて知名度は抜群である。
(ちなみに野口英世の最初の名は清作であり、英世は改名後の名)
私も子供の頃に伝記を読んだ記憶があるが、残っている記憶というのは、農家に生まれて、囲炉裏に落ちて火傷して、手に火傷跡が残り「てんぼう」と呼ばれていたというくらいなこと。
それでも立派な学者になりました。ちゃんちゃん。ってな感じ。かろうじて黄熱病という言葉が入ってくるだろうか。

何故か私は中学生の時に猪苗代湖と野口英世記念館に母親に連れて行かれた。
「何故か」というのはそれが普通の旅行や観光だったような記憶ではないから。でも何だったのかよく覚えていない。
その記念館で伝記の記憶が増強され、その後さらに知ったこともあるが、そんなことでもなければ今でもちゃんちゃんな感じだったかもしれない。


先日ペスト(黒死病)のことを書いて北里柴三郎について触れた。
過去にも、北里柴三郎、北里大学、北里ユウ(不破ユウ)など北里関連の記述をしたことがある。
野口英世はその北里柴三郎とも関係がある。

1898年(明治31年)10月 - 順天堂(現在の順天堂大学医学部)の上司である編纂主任・菅野徹三に頼み込み、順天堂医院長・佐藤進の紹介という形で、血清療法の開発などで世界的に名を知られていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始める。研究に携わることはなかったが、語学の能力を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳、および研究所外の人間との交渉を担当した。

順天堂の上司とあるが、野口英世は順天堂で助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わっていた。
順天堂の職も野口のパトロンだった歯科医師・血脇守之助の口利きで得ている。
順天堂から伝染病研究所へ転職したということなのだ。
そして1899年に横浜港でペスト患者を発見し診察。
北里が香港でペスト菌を発見したのが1894年で、ペストの日本初上陸は1896年の横浜港説と1899年の神戸港説があることは前述した。
ともかくその頃に野口英世もペスト診断に携わっていたようだ。

1899年5月 - 伝染病研究所の蔵書が、野口経由で貸し出された後に売却されるという事件が発覚。この事件を理由に研究所内勤務から外されたが、北里所長の計らいで横浜港検疫所検疫官補となる。
     9月 - 横浜港に入港した“あめりか丸”の内部で、ペスト患者を発見・診断した。
    10月 - 検疫官補の仕事ぶりが認められ、清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省より要請のあった、国際防疫班に選ばれる。しかし支度金96円を放蕩で使い果たしたため、資金を血脇に工面してもらい渡航。
清国では牛荘を中心に一般的な病気の治療にあたった。半年の任期終了後も国際衛生局、ロシア衛生隊の要請を受け残留。国際的な業務を体験し、翌年5月にフレクスナー宛にアメリカ留学を希望する手紙を出す(ロックフェラー大学・noguchi-paper)。この時期は大変な高給に恵まれたが、放蕩で使い果たしてしまったため、渡航のための資金を得る事はできなかった。



野口英世は伝記などから漠然と抱いているイメージとは随分違う人物だったようだ。
一度じっくりWikipediaでも読んでみてほしい。
とは言っても多くの人はリンク先には飛ばないと思う。世の中そんなものである、自分の経験からしても。
そこでまた一部を抜き出してきた。
野口英世は博士には値せず、学歴詐称・肩書詐称の状態にあるという。
日本一有名な医学者が実は詐欺師であったというのはなかなか衝撃的な事実ではなかろうか。
そうとなれば医師免許も「計らい」かと思わずにはいられないが、仮に医師免許は正当な取得だったにしても、野口はペストと出会うまで医師としての診察経験がなかったのである。
それどころか伝染病研究所でも研究に携わったことはなかったのだ。

・フレクスナーに渡した履歴書には、1893年(明治26年)5月に東京医科大学に入学し3年で卒業とあり、ロックフェラー医学研究所の公式記録にもその旨記載されている。実際には1893年(明治26年)には会津若松で書生をしており、その後も医術開業試験予備校である済生学舎(現在の日本医科大学)にも数ヶ月通っただけであった。またアメリカで出した初論文から一貫して医学博士(M.D.)であることを明示していたが、日本には当時医学博士は数十人程度しかおらず、学歴詐称・肩書詐称の状態であった(もっとも済生学舎は当時、「東京専門学校済生学舎」と称しており、医師免許取得とともに卒業を認定したので、東京専門学校済生学舎の卒業生であること自体は事実である。ただし半年で卒業しているので3年も在籍はしていない。またMDは医師免許と同義語であり、医学博士PhDとは異なる。現在でも日本の医師は、医学士BMBSであっても米国ではMDと称している)。1927年(昭和2年)に友人・堀市郎がアメリカの新聞記者に取材を受けた際に苦学生であったことを説明するために野口が大学を卒業していないことを語ったところ、憤慨し、電報で取り消しを求めた。

どんな人でも資金力のあるそれなりの人物の計らいがあれば、偉人有名人になれる。
伝記では知り得なかったことを大人になってから学んだ。
しかし小保方さんのような失敗例もありますね。(失敗は成功の母と言うではないか!?)(間違いなく超有名にはなったか)


世界最強への道

こちらにも書いたことだが、金と才能の混合によって世界は混沌としてしまった。
それに輪を掛けたのが慈善事業である。
かつては宗教の一側面であったが、ビジネスとの繋がりを強くし、慈善事業は宗教から切り離され独り歩きするようになった。
これが一層世界を混乱に陥れていく。

しかしもう一度、大航海時代と宗教改革、世界の大転換期、1500~1600年代に話を戻そう。
日本で言えば戦国時代から安土桃山時代を経ての江戸時代初期頃までの時代である。
ヨーロッパ人が航海にて大陸や半島や島々を発見し、人や物が活発に動いた。
またヨーロッパではこの時期に新たなキリスト教宗派プロテスタントが勃興した。
布教や弾圧や移民によって新旧問わず宗教や宗派も世界的に拡散することになった。


1517年が始まりとされるドイツのルターによる宗教改革。
1534年8月15日にはカトリックにてイエズス会が創立され、アジアなどへ布教に赴いた。(日本にザビエルが上陸したのは1549年8月15日とされている)
イエズス会の創立年と同じ1534年、時のイングランド国王ヘンリー8世が国王至上法を発布し、自らをイングランド国教会の長とし、カトリック教会から離脱した。
1555年5月にはローマ教皇によってローマ・ゲットーが作られた。これはユダヤ人差別的なゲットーであった。

およそ700年かけてレコンキスタ(カトリック国家再征服活動)の成功したイベリア半島(スペイン・ポルトガル)を足がかりにカトリックを死守するローマ。
宗教改革を主導しながらもプロテスタンに統一できず、カトリックとプロテスタントで割れたドイツ。またユダヤ人が皇帝によって保護されていた地域があったのもドイツである。
カトリックを離脱しながらもカトリックに非常に近く、他宗教の信仰やイングランド国教会改革派は許さないイングランド。

秘鍵になったのはやはりイングランドであろう。


世界で最初はローマに非ず

多神教だったローマ帝国がイエスの起こした新興宗教・キリスト教を公認したのは313年、キリスト教を国教にしたのは392年のことである。
国教化した皇帝が他でもない、ローマ帝国を東西に分けて息子に分治させたその人である。
そうは言っても皇帝はそれぞれの国を分割独立させるつもりなどなかった。
分治自体も遺言によるものらしく、十分に本人の意思が反映されたものかどうかは不透明である。
結果的にローマ教皇が西側の支配権を握り、以後ローマ帝国が統一されることはなかったことを思えば、公認・国教化・帝国分裂という一連の流れはローマ教会の策略だったという推測も成り立つ。


世界で一番最初にキリスト教を国教にしたのはアルメニアで301年のこと。
早い時期からキリスト教徒が多かった地域である。
現在のアルメニアは地図の赤い部分であり、内陸の小さな国である。
下側の地図は第一次世界大戦前の1911年頃の地図(色は民族分布)。
現在のトルコは小アジアとなっている。その東側にアルメニアも見られる。
ピンクはトルコ人で、アルメニア近辺で斜線になっているのはクルド人とアルメニア人。
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アルメニア人はユダヤ人とも共通点が多いと言われている。
12世紀にアルメニア王国や東ローマ帝国が衰退・崩壊した後は世界中に拡散し、商工業の担い手として各地にネットワークを広げて活躍した。この点はよくユダヤ人と比較されることも多い。移住先に於いても独自のネットワークを築き、宗教をアイデンティティとすることなど、両者には共通している側面もある。
強制移住を強いられたり虐殺されたりした歴史もある。


イエスは神に非ず

ルターによる宗教改革以前にカトリックに異を唱えた者はいなかったのかと言えば、そんなことはない。
多かれ少なかれ、いつの時代にもいたが、反逆者として弾圧されたり処刑されたり歴史から抹殺されたりして、継続や大成しなかったのだ。
異端児や反逆者を処刑することは珍しいことではなかった。

キリスト教の最大の失敗はイエスを「神の子」としてしまったことだと前にも書いたが、やはりそう考えた人達がいた。それも200年代という非常に早い段階で。
その代表がアリウス派
アリウス派の主張内容については、「イエス・キリストの神性を否定した」とも、あるいは「イエス・キリストは神的であるとは言おうとしていたが、その神性は神の養子とされたことによる」とも、「イエス・キリストの人性を主張し、三位一体説を退けた」とも言われる。

しかしこうした考え方はキリスト教の全教会会議で否定されていく。(これが国連の走りだろうか!?)

3世紀にアリウス派の思想が論議になるにいたって、地域の主教(司教)や地方教会会議だけでは解決が難しい事態となった。これは放置すればキリスト教の分裂を招きかねず、当時キリスト教をローマ帝国の一致に利用しようと考えていたローマ皇帝コンスタンティヌス1世にとっても頭の痛い問題だった。ここにおいて皇帝の指導と庇護の下に初めて全教会の代表者を集めて会議が開かれることになった。

ローマ皇帝コンスタンティヌス1世はキリスト教を公認した皇帝。
本人は東側で生まれたが西側の皇帝筋と結婚して有力者となった。

アリウス派の創始者はサモサト出身(地図の赤文字記入箇所)。
多くのことが地中海の東側から始まっているのである。
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アリウス派はゲルマン民族にも伝わっており、ゲルマン民族のほとんどはアリウス派だったとも言われている。
ゲルマン民族が大移動した400年代、つまり西ローマ帝国が亡びローマ教皇が力を持った時代でもあるが、この時にゲルマン民族が建国した諸国はローマカトリックを国教としたためアリウス派は少数派となり廃れていった。


IS(イスラム国)が狙うのはメソポタミア?

上の地図の緑部分は紀元前にアッシリア帝国があったところで、古くから文明が開けていた。(未開の地じゃないもん!?)
最古は遊牧や農業によるスバル人社会がありシュメール人と交渉をもっていたともいわれる。
紀元前3000年にアッシリア人がこの地を奪い都市国家を建設、盛衰を繰り返した。


それにはやっぱり日本に混ざってもらわないと!?





by yumimi61 | 2015-04-03 15:48