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昭和 伍拾捌

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絶対的価値と相対的価値

高橋是清が行った外債発行  -『明治大正財政史』第12巻より-
①1904年5月― 1億円、6%、関税収入
②1904年11月― 1億2000万円、6%、関税収入
③1905年3月― 3億円、4.5%、煙草専売金
④1905年7月― 3億円、4.5%、煙草専売金
⑤1905年11月―2億5000万円、4%、無担保
⑥1907年3月― 2億3000万円、5%、無担保

合計13億円。
日露戦争は1904年2月8日~1905年9月5日。
戦時中の支払いが残っていたのか、戦争が勝利にて終結してもまだ公債を発行している。
終結後の発行については無担保とあるが、その前から借金を重ねていたにもかかわらず、この金額を全く無担保で引き受けたとは考えにくい。
「なんとか金」というようには書けない担保(約束)があったのではないかと推測できる。

こちらに書いたとおり、日露戦争にかかった費用は約17億5000万円。
これに各省の関連臨時経費もプラスするとおよそ20億円ほどになる。
開戦直前に日本政府が見積もった戦費は4億5000万円。
当時の日本のGNPは約30億円。
一般会計予算が約3億円。
全国の銀行預金残高がおよそ7億5000万円。

高利な13億円という借金はそれだけでも十分大変なことであるが、それでも戦費全額を賄う金額ではない。
外債と同時に国内でも公債を発行している。
さらに言えば、明治維新がすでに外国からの資金提供で行われたものであると考えられている。
明治元年は1867年だが1872年には外債発行の動きがあったようだ。
日露戦争前の1899年にはイギリスで公債を発行している。この時の金利は4%で、金本位制の維持を約束した。

日本は1871年に金本位制を導入した。
金属の金が紙幣を保証する制度なので、発行した紙幣と同額の金を保有していなければならない。
しかし黄金の国であったはずの日本に何故か金が見当たらなかった。
それで仕方なく銀本位制を取っていた。
正金を集めるべく横浜正金銀行が開業したのが1880年。これも思うような成果を上げることは出来なかった。
金本位制に移行できたのは、日清戦争(1894-1895年)の勝利によって清から賠償金を得たからである。
清からの賠償金3億5000万円を準備金として金本位制に移行したのだ。
こちらに、「日本はロンドンに2億5000万円ほどの金銀貨を保存していたという」と書いたが、この時は金本位制によるポンドの基軸通貨体制(1850年確立)が布かれていたので、賠償金の一部をロンドンに保管したということだと思う。
賠償金は銀払いだった言われているが、ロンドンで銀で金と交換したのか、賠償金の一部は金でそれがロンドンに持ち込まれたのかはよく分からない。
ともかく2億5000万円が全て賠償金から出たものならば、賠償金のおよそ70%はロンドンに運び込まれたということになる。
賠償金の使い道をもう一度確認してみよう。(こちらの下の方に書いた)
海軍拡張費+陸軍拡張費(62%)と皇室財産(6%)を合わせた数字が70%に近い。


日清戦争から日露戦争まではちょうど10年だが、この間に日本の国家予算もGNPも飛躍的に増大している。
 一般会計予算 8000万円→3億円
 GNP 3億2000万円→30億円

つまり日清戦争当時には国家予算の4倍にも上った賠償金も、10年後にはそこまで価値ある金額ではなくなってしまったということである。
10歳の時には価値のあった500円が20歳になったらそれほど有難い金額ではなくなってしまったというようなこと。
10年間500円で買えるものが全く変わらなかったとしても、お金の価値は変わるのだ。
インフレやデフレについて語られることは多いが、これは見落とされることが多い。

そして日清戦争勝利から5年後に日本はイギリスにて公債を発行していたのだった。
日露戦争後にも発行している。
どちらも戦争には勝利した。尤も日露戦争は賠償金を全く得ることが出来なかったというが。


あまりに壮大すぎて受け入れられない人々

ロシア帝国のロマノフ王家はドイツ系の家系ということもあり、ドイツの銀行は公債を引き受けるならロシアであるべき立場にあった。
フランスも当時露仏同盟を結んでおりロシア側であった。
ロスチャイルド家もロシアの油田の権益を持っていたので、表だってロシアの敵国を援助するわけにはいかなかった。
ところが日露戦争も終わりに近づいた④1905年7月発行の公債ではドイツの銀行が日本の公債の引き受けに参加。
日露戦争が終結した⑤1905年11月発行と⑥1907年3月発行の公債にはフランスの銀行やロスチャイルドも引き受けに加わっている。
6回全てに参加したのは、パース銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、クーン・ローブ商会であった。


ドイツで引き受けに応じた銀行にウォーバーグ商会がある。
ドイツのウォーバーグ家は貿易と商業で栄華を極めたヴェネツィアで1500年代に一番裕福な一族と言われたデル・バンコ家に始まった家系である。
俗にいう黒い貴族の1つである。
金融業を営んでおり、ロスチャイルド家&シフ家とも親しかったという。
こちらにロスチャイルド家はユダヤ教の神秘主義(サバタイ派・フランキスト・改革派ユダヤ教)を信奉していたと書いたが、ウォーバーグ家も同様であった。

ウォーバーグ家にはマックスとポールという名の兄弟がいた。
ポールはクーン・ローブ商会のクーン&ローブ家の娘と結婚した。
これでクーン&ローブ家とウォーバーグ家も親戚となったわけである。さらにシフ家とも親戚である。

※下記の♥は結婚
■ソロモン・ローブ・・♥・・エイブラハム・クーンの妹
 ①2人の間の娘・・♥・・ジェイコブ・シフ =2人の間の娘・・♥・・フェリックス・ウォーバーグ(ウォーバーク兄弟の従兄弟)
 ②2人の間の息子・・♥・・エイブラハム・クーンの弟の娘
 ③2人の間の娘・・♥・・銀行家
 ④2人の間の息子 -重い病気でクーン・ローブ商会を退社。精神医学の学術研究所に多大な寄付をする。その研究所はユダヤ人差別主義であり入院患者も殺害された。
 ⑤2人の間の娘・・♥・・ポール・ウォーバーグ

ポール・ウォーバーグはロスチャイルドの代理人とも言われ、アメリカのFRB(連邦準備制度)設立メンバーの1人で、しかも中心的人物であった。(参照:器官76器官77)(隠された真実-連邦準備制度


大きさを受け入れさせる方法

ジェイコブ・シフと高橋是清の出会いは偶然だったのだろうか?
本当に初対面だったのだろうか?
初対面どころかシフやクーン・ローブ商会のことを知らなかったと言うが、そんなことがあるだろうか?

現代においては、シフと高橋の出会い(パーティーで隣の席になった)については偶然ではなかったと言われるようになった。
ジェイコブ・シフはアメリカのユダヤ人協会の会長であったが、1904年2月上旬にユダヤ人の有力者を集め、「72時間以内にロシアと日本は開戦する」として資金提供についての協議を持っていたというのだ。

この話はシフのみの案ではなかったようだ。
ロスチャイルド家より早くロンドン金融センターに君臨したベアリング家のベアリング商会は、シフに対してニューヨークで日本の公債発行引き受けに応じるように働きかけていた。
またドイツの高利貸の家(ユダヤ人)に生まれたイギリスの銀行家・アーネスト・カッセルもシフに指南した。
アーネスト・カッセルはイギリス王室とも非常に関係が深いとされる人物である。
イギリス王室はロシア帝国・ロマノフ王家と婚姻によって繋がっていた。
そのせいかイギリスが日本の公債を引き受けたと言っても戦時中は有名どころは前面に出ていない。
アメリカや香港や日本といった外国に足場を置く銀行を介しての引き受けだった。

クーン・ローブ商会のジェイコブ・シフは戦争が勃発することを事前に知っており、日銀副総裁の高橋是清がニューヨークやロンドンに資金調達に行く前にすでに資金供給に応じる用意があったということである。
有力者らの意見を聞きながら、一番適した時期に意図的に日本に接触した。


日露戦争後の1906年、シフは日本政府に招聘された。
3月8日にパシフィック・メイル汽船会社のマンチュリア(満州)号にのり、サンフランシスコを立ち、3月25日に横浜に到着。グランドホテルに宿泊する。3月28日には皇居を訪れ、明治天皇より最高勲章の勲一等旭日大綬章を贈られた。 シフらは呉を見学するなどしたあと、5月3日、門司より韓国・仁川に向かう。

上記はシフWikiからだが、ニューヨークを発ったのは2月22日だったそうだ。ハワイを中継して横浜に到着したのは3月25日。
シフはこの来日を滞在記として残したらしく、ある本に「ミカドの謁見」として記載されている。
『日露戦争に投資した男―ユダヤ人銀行家の日記』 著者:田畑則重(新潮新書 2005年11月発売)
ニューヨーク発日とハワイ中継はそちらから。

「ミカドの謁見」というタイトルが付いているが、シフは日本語では書かないと思うので翻訳者がいただろう。
この「ミカドの謁見」という言葉はおかしい。
ミカドは帝だと思う。なぜ天皇と訳さなかったんだろう。御門?三門?神門?みかんどう?
謁見は自分より偉い人に会うことである。
帝にしても天皇にしても、民間人であるシフが会ったのならば、「ミカドとの謁見」と訳されるべき。
「ミカドの謁見」ではシフのほうが格上の存在になってしまう。
単純な間違いなのか、それとも隠された秘密があるのか。はてさて。
形式な格付けではなく感謝の度合いです??

1906年3月28日、明治天皇がジェイコブ・シフを宮中午餐会に招いた。
それまでに既に瑞宝章を授与していたが新たに最高勲章の旭日章を贈った。
宮中午餐会に招待された外国人も旭日章を授与された外国人もシフが初めてだった。
宮中午餐会の他にも、政府主催の晩餐会、尾崎行雄東京市長の招宴、日本銀行主催の小石川後楽園での園遊会などが行われた。

それでもシフは忠告も忘れなかったという。
わたしは真剣に、新たな起債をして国家に過重な負担を負わせることの危険を忠告した。とりわけ、日本に価値ある資産がないことは、高い信用がないことと同じだという事実を詳しく説明した。信用は、日本が世界の市場で重ねて得てきたもので、周到に守るべきものなのだ。

ジェイコブ・シフと高橋是清の出会いは偶然なんかではなかった。
それが伝えられてもなお、「日本の恩人」というジェイコブ・シフへの日本での評価は変わっていない。
その評価の妥当性を語るまでもなく、日露戦争自体が虫の息なのかもしれない。
日本人にとって大事なのは、本当に高橋是清はシフやそのバックを知らなかったんだろうかという疑問を持つことであるが、もはやそこまで到達することはないであろう。



by yumimi61 | 2015-04-26 17:24