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昭和 百壱

威信ではなく維新?

黒船が来航し、日米和親条約(神奈川条約)を締結すると、広く攘夷思想が広まった。
倒幕派だった長州藩と薩摩藩は極端な尊王(尊皇)攘夷思想を持っていた。今で言えば過激派である。
長州は現代の山口県、薩摩藩は鹿児島県となる。

イスラム過激派にも幾つものグループがあるのと同じで、同じ思想を持っていても両者は別グループである。
「思想」とは時に、自分達の「夢」を叶えるための手段に過ぎないことがある。
思想をベースにしている場合には仲間になりやすいが、夢をベースにしている場合には仲間にはなれない、むしろ自分の夢を阻む憎き相手にもなってしまうのだ。

長州藩と薩摩藩はおそらく天下を取るという夢があったのだろう。当初両者は仲間ではなかった。
朝廷(天皇家)に近いところにいて信頼を得たのは長州藩であった。
現代においては明治維新を改革、長州藩や薩摩藩を改革革新運動の旗手として持ち上げる向きが強いが、鎖国開国という言葉を使えば「開国絶対反対!」「開国をした幕府なんか倒せ!」というのが長州藩や薩摩藩であったのだ。
みな言葉のイメージや歴史ドラマなどにコロリ騙されている。

維新という言葉は大昔からあった言葉ではなく、1830年に水戸藩の藤田東湖が藩政改革への決意を述べる際に用いた言葉。造語。
藤田東湖は水戸藩藩主・徳川斉昭の片腕(側近中の側近)であった。
徳川斉昭は江戸幕府最後の将軍となる第15代将軍・徳川慶喜の実父である。
「維新」は徳川幕府寄りの言葉だったわけで、倒幕派に乗っ取られたと言える。


歪曲路線

日米修好通商条約締結を指揮した井伊直弼は桜田門外の変*で暗殺された。

*安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。

日米修好通商条約と絡むのが将軍の後継問題である。
黒船が来航した1853年時の将軍は第12代・徳川家慶である。
黒船来航の3週間後に亡くなった。
享年61歳と当時としては決して若いというわけではなかったが、死因は熱中症と言われており、そういう意味では急逝だった。

第13代将軍・徳川家定(1824年生まれ)は、第12代徳川家慶(在職:1837-1853年)の実子である。他の実子は早世していた。
1841年に第12代将軍の後継者となることが決定したが、父である将軍・家慶は子・家定の継嗣としての器量を早いうちから心配していた。
そこで目を付けたのが上記に書いた水戸藩主・徳川斉昭の息子である。1837年10月28日生まれ。(10月28日は群馬県民の日ですね!)
徳川斉昭は攘夷派であり開国派の井伊直弼とは対立したと言われるが、どちらも将軍の信頼を得ていた人物であるわけで、真っ向から対立する思想を持っていたとは考えにくい。
このあたりも歴史が歪曲されているか、誤解があるように感じる。

弘化4年(1847年)8月1日、老中・阿部正弘から水戸藩に七郎麻呂(当時は松平昭致)を御三卿・一橋家の世嗣としたいとの第12代将軍・徳川家慶の思召(意向)が伝えられる。これを受けて七郎麻呂は8月15日に水戸を発ち、9月1日に一橋家を相続。12月1日に家慶から偏諱を賜わり慶喜と名乗る。
家慶は度々一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘の諫言を受けて断念している。


徳川御三家は徳川将軍家に後嗣がいない時に後嗣を出す資格を有していた。
その中でも一橋家は独立した別個の「家」ではなく、「将軍家の家族」として認識されていた。
そこを継がせたということは、将軍を継がせることが念頭にあったからに他ならない。
しかし老中・阿部正弘らに強く反対されていた。
そうこうしているうちに黒船がやってきた。
そして第12代将軍・徳川家慶は急逝。
結局後を実子である家定が継いだが実権を老中の阿部正弘に握られたことは想像に難くない。
第13将軍・徳川家定の在職期間は1853年-1858年。1858年8月14日に35歳で亡くなった。子はいなかった。
この間ずっと後継者問題で揉めていたわけである。

家定は病弱だった上、もともと悪かった体調が将軍就任以後はさらに悪化して、ほとんど廃人同様になったとまで言われている。このため、幕政は老中・阿部正弘によって主導され、安政4年6月17日(1857年8月6日)に正弘が死去すると、その後は老中・堀田正睦によって主導された。

歴史的にこの将軍継嗣問題はこのように語られる。
徳川慶喜を推す徳川斉昭(実父)や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。

攘夷と開国とで反対位置に置いた2人(徳川斉昭と井伊直弼)を、ここでも対立位置に置き敵対関係にあったと見せるのは分かりやすく納得しがちだが、実はそうでもないと思う。
老中の阿部正弘は前述のとおり家慶が後を継ぐことには率先して反対しており、だからこそ第13将軍・徳川慶喜が実現しなかったとも言えるわけで、徳川慶喜を推す派だったというのは正しくないであろう。
阿部正弘と井伊直弼の立ち位置を逆転させてもよいくらいである。


中から壊れていく

1858年に第14軍将軍となった徳川慶福(就任時に家茂と改称)は当時はまだ13歳に過ぎなかった。
国の采配を振るうには如何せん若すぎる。

阿部正弘の推薦を受け、阿部の後釜として老中首座(勝手掛老中;財政担当)に就いたのは堀田正睦であるが、堀田は外国掛老中(外交担当)も兼ねた。
水戸藩主で徳川慶喜の実父である徳川斉昭は蘭癖のある堀田に好感を持てなかった事からこれを反対していたという。
堀田正睦のほうも徳川斉昭とは外交問題を巡って意見が合わず、従って子である慶喜にも好感を持っておらず、徳川慶福(家茂)が第14代将軍に相応しいと考えていた節があるそうだ。
病弱の将軍を就任させて実権を握ったのと同様に、若い将軍ならば引き続き実権が握れるだろうという邪心もあったのではないか。

堀田は日米修好通商条約締結の際、孝明天皇から条約調印の勅許を得るように指示され京都に向かったものの勅許を得ずに江戸に戻った人物でもある。
勅許を得るようにと主張した井伊直弼とは対立関係にあり、日米修好通商条約締結の1か月前に老中を罷免されている。

これらを考え合わせれば、江戸幕府の老中だった阿部と堀田は、反徳川斉昭(父)、反徳川慶喜(息子)、反水戸藩、反井伊直弼であったと推測できる。
彼らもまた思想よりも夢をベースにしていたのかもしれない。

井伊直弼が日米修好通商条約調印の勅許を得ることに注意を払ったのは、日米和親条約で勅許を得なかったことが尊王(尊皇)攘夷派を勢いづかせることになったからだと思う。
井伊らは以下のように進めたのだが、尊王(尊皇)攘夷派は反対にあってなかなか上手くいかなかった。

・外国と対等な関係を維持するためにすぐに交渉のテーブルには着かない。⇒尊王(尊皇)攘夷派に準備期間を与えてしまった。
・反省を踏まえ無駄に時間を掛けずに日米和親条約調印に踏み切った。⇒尊王(尊皇)攘夷派を中心に反感を買ってしまった。
・反省を踏まえ調印の勅許を得ることを指示した。⇒勅許を得られないまま調印がなされてしまった。
・過激派の反乱が拡大することを危惧して反乱者を叩いた(1958-1959 安政の大獄)。⇒桜田門外の変での暗殺に繋がってしまった。

組織を倒す最も簡単な戦術は内部崩壊を仕掛けることである。
敵の中に味方を作り内部崩壊させて国を滅ぼすパターンは長いこと世界で広く利用されてきた方法であり王道である。
そして最も防ぐことが困難な策略であるとも言える。


薩摩藩の台頭

1858年に将軍に就任した13歳の徳川家茂(慶福)。実権を握ったのは老中の堀田正睦だった。
2年後の1860年には堀田と対立していた井伊直弼が桜田門外の変にて暗殺される。
やはりこれによって潮流は変化した。
台頭してきたのは薩摩藩である。
先に朝廷の信頼を得ていたのは長州藩であったが、おそらくそれに対抗したのだろう。
薩摩藩は倒幕を表には出さず、幕府と朝廷で協力していこうという公武合体という政策をアピールした。
これによって堀田も失脚。殺されはしなかったが以後表舞台に立つことはなかった。

1862年、公武合体策の目玉として繰り出されたのは、17歳になった第14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の異母妹の結婚だった。まさに幕府と朝廷の合体。2人は同い年であった。
親戚関係を結ぶという政略結婚である。孝明天皇は義兄になった。


薩摩藩の事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進したのは島津久光だった。
1862年4月に公武合体推進派兵を率いて鹿児島から京都に進出した。


薩摩藩と会津藩の提携

京都入りした島津久光と朝廷の公武合体派が江戸(幕府)に出した勅使の圧力の下、幕府はやむを得ず人事制度改革を行った。(文久の改革)
この改革にて新たに京都守護職という役職が設けられ、1962年9月、それに就任したのが会津藩主・松平容保であった。
松平容保は元々は水戸藩主の子であり、桜田門外の変の際には水戸藩の脱藩者が関与していて不利な状況の水戸藩をかばった人物である。
京都守護職就任は一旦は断わったものの、「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」という言葉に押し切られて就任するに至る。
朝廷と将軍(幕府)が合体していたので断れなくなってしまっていたのだ。

将軍・徳川家茂は婚姻の翌年1863年に朝廷のあった京都に入った。
将軍が京都入りしたのは実に229年ぶりのことだったそうだ。






by yumimi61 | 2015-06-25 12:25