人気ブログランキング |

by and by yumimi61.exblog.jp

カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

昭和 百弐

水戸黄門の功罪

京都守護職は、水戸藩主の子として生まれ会津藩主になった松平容保をトップに、会津藩の兵隊1000名ほど常駐させた。
今で言えば軍隊のようなものである。
兵隊は交代をしていたようで、毎年8月8日に次の1000名が会津から京都に到着し、入れ替わりで会津に帰る一行は8月11日に京都を出発することになっていたという。
後世にて非常に有名になった新撰組はこの配下組織であり、浪士(町人など)で構成されていた。
新撰組の人数は当初は20~30名ほどで、最大時で200名くらい。
会津藩正規軍に対して、新撰組は会津藩預かりの非正規軍であった。

この時代のキーは水戸藩なのである。
まず第一に、前記事に書いたとおり、第12代将軍・徳川家慶が水戸藩主の息子に将軍を継承させようとしていたことの影響が大きい。
もうひとつが「水戸学」と呼ばれる思想である。

水戸学は前期後期と分けられ、前期は第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた歴史書『大日本史』の編纂を中心とする。
徳川光圀というのはテレビ時代劇で有名な『水戸黄門』の偉いおじいちゃまである。
「頭が高い~この方をどなたと心得る~ひかえおろうひかえおろう~」おろおろささっ「はは~」という名シーンのおかげで最高権力者の将軍と勘違いしている人がいそうだが(私も子供の頃は昔将軍だった人が隠居して全国行脚しているのかと思っていた)、水戸光圀は水戸藩主だったのである。
さすがに水戸藩主というだけでは弱いと思ったのか、ドラマでは「恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあられる」とかなんとか言っていたが、副将軍という役職は現実には存在せず、そもそも『水戸黄門』自体が創作作品である。
実在の人物をモデルにしたといった程度のことで、史実を描いたものではない。
一説にはモデルは水戸光圀ではなく徳川斉昭(第9代水戸藩主、第15代将軍の実父)だと言われている。

後期水戸学はまさにその徳川斉昭が設置した藩校・弘道館がベースである。
その学校の教育理念を示した記述に「尊王攘夷」という言葉が出てくるそうで、幕末に流行した「尊王攘夷」はここが発祥である。
つまり「維新」も「尊王攘夷」も水戸藩で用いられた言葉だったのだ。
昨日も書いた通り、徳川斉昭は息子を将軍後継者に指名されるほど将軍から信頼を得ていた人物である。


タイムマシーンがなくとも歴史は変えられる

水戸学
儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたもの。全国の藩校で水戸学(水戸史学、水府学、天保学、正学、天朝正学ともいわれる)は教えられその「愛民」、「敬天愛人」などの思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。 戦後は水戸学に基づく尊皇攘夷思想等が一定の批判を受けることがあるが、本来水戸学は非常に幅の広い学問体系を持っている。徳川光圀の『大日本史』編纂のために集まった学者を中心としており、朱子学者が多かったが、あらゆる学派を網羅していた。

『大日本史』の編纂が始まったのは1657年。それが完成したのは1906年(明治39年)。
この間なんと250年!
これではもう最初に目指したものと違ったものが出来上がったとしても何ら不思議はない。
特に江戸幕府が倒され時代が大きく変わった明治に入ってからの完成では、編纂意図の連続性や一貫性は薄いと考えられる。
こちらの記事の、「天皇の起源は明治時代、確定は大正時代」というところにも書いたが、現在のようなスタイルの天皇の歴史は決して古いものではないのだ。
明治時代にリセットしリスタートしたという感じが強い。

徳川光圀は神話ではない史実に基づいた日本史の編纂を試みたのだと思う。
広く知識人(儒学者、漢文を読める人)を集めて、日本史の読解や解明を行わせた。
それはつまり『古事記』や『日本書記』といった書物に疑問を抱いた部分があったということだろうし、『古事記』や『日本書記』に書かれた後の時代を記録に残そうと思ったに違いない。
徳川光圀は幕藩体制に誇りを持っていたのだろうと思う。
日本において天皇が権力を持った時期というのは実はそう長くはない。
とくに大化の改新後、明治時代に入るまでは、ごく短期間を除き天皇が権力を持ったことはなかった。

広義では「朱子学」は「儒学」に含まれる。
孔子を始祖とする思考・信仰の体系が「儒教」と呼ばれ、それを学問として語る場合には「儒学」と呼ばれる。
御存知のとおり、中国では漢文を使う。
中国から伝わった学問を日本では「漢学」と言っている。
ヨーロッパから伝わった学問が「蘭学」、日本の学問は「国学」である。
学問というのは文字が読めないことには始まらない。文系理系で言えば文系がまず最初にあった。
ごく簡単に言ってしまえば、「儒学」は文系的な考え方やアプローチが基礎となっており、その中の「朱子学」というのは理系的な思想やアプローチである。
要するに現実を追求しようとしたのが水戸学だと思う。
その水戸学は歴史から抹消されそうである。


世界三大幕府のひとつですね・・・

朱子学や尊王攘夷思想を語る時に欠かせないのが鎌倉時代である。
鎌倉時代というより鎌倉幕府の倒幕と言うべきかもしれない。
鎌倉幕府を倒したのは誰だかご存知ですか?
(歴史に名高い)新田義貞です。群馬県出身。

新田義貞とは別に倒幕を企てていたのは後醍醐天皇。ガンダーラ~ガンダーラ~税制~♪
自身の後継問題をはじめ鎌倉幕府にいろいろと不満を蓄積させていたらしい。
そんな後醍醐天皇が新田義貞に討幕を指示! したわけではない。
後醍醐天皇とそれを支援する一派の討幕クーデターと、新田義貞の挙兵がたまたま同じ時期に行われ、新田義貞が鎌倉を陥落させた。
新田義貞は反幕府派の楠木正成が起した乱の際、幕府の指示に従って楠木討伐に向かったくらいである。
新田義貞は幕府の傍若無人な振る舞いに怒ったのだ。

義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、新田荘への帰還後に幕府の徴税の使いとの衝突から生じたその殺害と、それに伴う幕府からの所領没収にあった。楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府は、調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令した。新田荘には、金沢出雲介親連(幕府引付奉行、北条氏得宗家の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎(御内人)が西隣の渕名荘から赴いた。親連と黒沼は、6万貫文もの軍資金をわずか5日の間という期限を設けて納税を迫ってきた。これだけ高額の軍資金を短期間で納入するよう要請した理由は、新田氏が事実上掌握していた世良田が長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったためである。

両者の行動はますます増大し、譴責の様相を呈してきた。義貞の館の門前には泣訴してくるものもあった。特に黒沼彦四郎は得宗の権威を傘に着て、居丈高な姿勢をとることが多かった。また、黒沼氏は元々隣接する淵名荘の荘官を務める得宗被官で世良田氏の衰退後に世良田宿に進出していたが、同宿を掌握しつつあった新田氏本宗家との間で一種の「共生」関係に基づいて経済活動に参加していた。だが、黒沼による強引な有徳銭徴収は長年世良田宿で培われてきた新田本宗家と黒沼氏ら得宗勢力との「共生」関係を破綻させるには十分であった。そのため遂に義貞は憤激し、親連を幽閉し、彦四郎を斬り殺した。
これに対して、得宗・北条高時は義貞に近い江田行義の所領であった新田荘平塚郷を長楽寺に寄進する文書を発給した。これは、徴税の使者を殺害した義貞への報復措置であった。そして、間もなく幕府が新田討伐へ軍勢を差し向けるという情報が入った。


やらなければやられてしまう。こうして討幕を決意したのだった。たららららららぁらら~♪


やる気があるのかないのか分からない

鎌倉幕府は後醍醐天皇とその一派が元弘の乱(1331年)を起こした際、後醍醐天皇に代わって光明天皇を擁立した。
後醍醐天皇は元弘の乱にて一旦敗北し隠岐の島に追放されたのだった。
そこを脱出し再度戦いを挑んだのが1333年のことで、これが新田義貞の挙兵と重なったのである。
新田義貞が幕府を滅亡に追い込んだので、後醍醐天皇は京の都に復帰した。

上に「ごく短期間を除き天皇が権力を持ったことはなかった」と書いたが、鎌倉幕府が新田義貞によって倒された後の「建武の新政」時代はそのごく短期間の1つである。
後醍醐天皇が実権を持って自ら政治を行う「親政」を開始した。
このことからも新田義貞は自らが天下を取るために討幕を行ったわけではないことが分かる。

後醍醐天皇の親政もそう長くは続かなかった。
足利尊氏が離反したからだ。
足利という姓から分かるように足利氏のルーツは栃木県にあり、新田氏とは同祖とも言われている。
1331年元弘の乱の際に新田義貞同様、幕府から討伐を指示された。
足利尊氏は父の喪中だったので断ったが許されず、この時から密かに幕府に反感を抱くようになっていた。
しかしこの時の討伐では活躍し乱を制圧することに貢献した。

1333年再びの倒幕クーデターでは後醍醐天皇側に付くことを決意し参加する。
後醍醐天皇や足利尊氏は西の京都で挙兵。
しかし京都から鎌倉は距離がある。彼らは幕府本拠地鎌倉に乗り込んだわけではなかった。
近隣の反幕府勢力を結集し、京都にある幕府出先機関(京都守護)を滅ぼしたのだ。
同じ頃、東の群馬で挙兵し鎌倉に攻め込んだのが新田義貞だった。
これにて鎌倉幕府は滅亡。
幕府を倒す側にいた足利尊氏と新田義貞はともに後醍醐天皇に付くことになった。

この足利尊氏が1335年に勝手に京都から鎌倉に移動し、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど天皇を無視して好き勝手な振る舞いをするようになる。
足利尊氏の離反である。
もともと後醍醐天皇は権力は握ったものの武士の支持は得られておらず、各地に反乱因子を抱えていた。
足利尊氏の鎌倉での振る舞いは武家政権の復活を思わせるものだった。
足利尊氏は、後醍醐天皇の親政から離反しなかった武士のうちでは最大の軍事力を持っていた新田義貞を「天皇の敵だから討伐すべき」と主張するも、天皇は逆に新田義貞に足利尊氏の討伐を命じた。
しかし新田軍は敗北。1336年に足利軍が京都に入り、後醍醐天皇を幽閉し京都を支配した。「建武の新政」は3年あまりで崩壊。
京都入りした足利尊氏が光明天皇を即位させるも、後醍醐天皇は幽閉先を脱出し奈良の吉野に朝廷を置いた。
この時から室町時代に至るまで日本には2つの朝廷が存在することになった。

足利尊氏が擁立した天皇側の朝廷を北朝、後醍醐天皇側の朝廷を南朝(吉野朝廷)という。
京都内における栃木対群馬の対決で、朝廷は京都と奈良に分かれるという、よく考えるとわりと狭い地域での出来事である気がしないでもない。
皇室は南朝を正統な朝廷と認めているそうである。短くとも親政の時代があったからであろうか。
しかしその親政の時代も「建武」という名称が付いていることはどこか皮肉めいているというか、、、それとも後醍醐天皇の人の良さでもあるのか。










by yumimi61 | 2015-06-26 10:43