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昭和 百参

愛がなかった?

なぜ朱子学や尊王攘夷思想を語る時に欠かせないのが鎌倉時代であるかと言うと、後醍醐天皇が朱子学を信奉していたと考えられているからである。

後醍醐天皇や楠木正成は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけてのかれらの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。

「建武」という名称もその表れの1つかもしれない。
そんな後醍醐天皇が短いながらも天皇自ら政治を行う親政を実現したことから、これが後世に於いて特別視されるようになったと思われる。

しかしその特別視が有らぬ形で利用されるようになった。
後醍醐天皇は天皇であったが現実を直視し力を重視した人である。
だからこそ自ら討幕を試みたのだし、「建武」などという元号を付けたのだろう。
ところが後世においては「尊王」ばかりが持て囃されるようになった。
天皇を「王」、武家政権(幕府)を「覇」とみなし後者を否定する文脈で用いられ、鎌倉幕府の滅亡から「建武の新政」への原動力になったと言われるようになったのだ。
天皇の後継問題で揉めたあげく武力に訴えかけ、その後も2人の天皇が存在し、一方の天皇は一方の天皇を否定するという状態であったにも関わらず。


力では変わらない現状とは何だろう

太平記
『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の一つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。
全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318-1368年頃までの約50年間)を書く軍記物語。

第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。 

古典文学作品としての『太平記』は作者や完成時期が不明であり、なぜか第22巻が欠けているという。

一貫して南朝よりであるのは、南朝側の人物が書いたとも南朝方への鎮魂の意味があったとも推測されている。
また、「ばさら」
*と呼ばれる当時の社会風潮や下剋上に対しても批判的に書かれている。

*ばさら 
身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった名ばかりの時の権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識であり、後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽となった。

南朝というのは昨日も書いた通り、後醍醐天皇の朝廷ということになる。
後醍醐天皇はどちらかと言えば実力主義的であったと思われるので、実力主義に批判的だったとは思わない。
しかし権威を軽んじて嘲笑したり、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識を持っていたとも思えない。
別のものを一緒にしてしまうので誤解が生じてしまうのだろう。

全体の構想にあるのが儒教的な大義名分**論と君臣論、仏教的因果応報論が基調に有り、宋学の影響を受けたとされる。この考え方にもとづき、後醍醐天皇は作中で徳を欠いた天皇として描かれるが、水戸光圀は修史事業として編纂していた『大日本史』において天皇親政をめざした後醍醐天皇こそ正統な天皇であると主張した。これにより足利尊氏は逆賊であり南朝側の楠木正成や新田義貞などは忠臣として美化され(徳川将軍家は新田氏の末裔を称していた)、これがのちに水戸学として幕末の尊王攘夷運動、さらに太平洋戦争前の皇国史観へと至る。

**大義名分
儒教に由来する考え方で、本来は臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を指した。
今日では転じて、「行動を起こすにあたってその正当性を主張するための道理・根拠」を指す事が多い。

現実を追求し尊重しながら、臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を説いた。
それが儒教に由来する考え方であり、水戸学だったのだと思う。
現実をないがしろにして盲目に権威に服従することとは一線を画するものであった。
ところが次第に権威に服従することを良しとする風潮が「尊王攘夷」として強調されるようになっていった。

すでに江戸時代以前の古注釈の頃から指摘されているように、『太平記』の引く故事は時に単純な勘違い以上に漢籍(あるいは『日本書紀』など日本の史書)と相違するものがあり、しばしば不正確とされる。


満月の夜に海をゆけ~

「聞くところによれば、日本を創造した伊勢の天照大神のおおもとは大日如来であり、民衆を救うために龍神の姿となって大海原に出現したとの事。
わが君、後醍醐天皇は、その天照大神の末裔でありながらも、臣下の者の裏切りによって西海を流浪しておいでです。
今、この義貞は、天皇の臣下の道を貫かんがため、武器を持って敵陣の前に立ってます。
目指すは、天皇を助け、国民が心安らかな世にする事、どうか全世界の龍神よ!この義貞の忠義の心をご理解いただいて、潮の流れを遠くに退け、道を開いてくださりたまえ」
こう言って自らが持っていた黄金造りの太刀を抜いて海中に投げ入れた。


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太刀を海に投じる新田義貞
画:月岡芳年***


***月岡芳年
幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師。
衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる。浮世絵が需要を失いつつある時代にあって最も成功した浮世絵師であり、門下からは日本画や洋画で活躍する画家を多く輩出した芳年は、「最後の浮世絵師」と評価されることもある。

義貞は、部隊を三隊に分割した。義貞の本隊が化粧坂切通し、大舘宗氏と江田行義の部隊が極楽寺坂切通し方面から、堀口貞満、大島守之の部隊が巨福呂坂切通しから鎌倉を総攻撃する手はずを整えた。

5月21日未明、義貞は極楽寺坂方面の援軍として、稲村ヶ崎へと駆け付けた。幕府側の切通しの防備は万全の状態で、稲村ヶ崎の断崖下の狭い通路は逆茂木が、海には軍船がそれぞれ配置され、通行する軍勢を射抜けるようになっていた。加えて18日に大舘宗氏が稲村ヶ崎突入に失敗したことで、再度の侵入を防ぐためにさらにその防備は厳重となっていた。しかし、義貞率いる軍勢は稲村ヶ崎の突破に成功した。
現在、稲村ヶ崎突破については、干潮を利用して進軍したという認識が広く浸透している。
『太平記』では、義貞が小金作りの太刀を海に投じた所、龍神が呼応して潮が引く『奇蹟』が起こったという話が挿入されている。『梅松論』も、義貞の太刀投げにこそ言及していないが、同様に『奇蹟』が起こった事を記述している。龍神が潮を引かせた、という話は脚色とみなされているが、義貞の徒渉とそれに付随した伝説には、様々な解釈がある。


新田義貞の鎌倉ぜめ(声入り)

後醍醐天皇も新田義貞も現実的な人であった。水戸学も同様である。
現実的な力を認めたくない人は新田義貞の稲村ヶ崎突破と鎌倉攻略を奇跡の賜物に仕立て上げたかったのだろう。
奇跡とは偶然であり、それを確実に起こすことが出来るのは天(神)のみ。
神への信仰が不可能とも思われる稲村ヶ崎突破と鎌倉攻略を可能にした。
このようなストーリーにして極端な「尊王」思想に繋げた。
この場合の天(神)は見えない大いなる力ですらなく、王や天皇という絶対的権力であることが分かる。
海に道を開くという奇跡は、聖書におけるモーセの海割り、古事記や日本書紀における神功皇后の三韓征伐の際の引き潮にも見ることができる。


『水戸黄門』(『水戸黄門漫遊記』)も弱い者の味方のようでいて、結局最後は絶対的権力で土下座させる(ねじ伏せる)のがお決まりのパターン。
最後は悪代官も虐げられていたか弱き庶民も等しく土下座なのよ、ねえ分かってるの?
庶民は権力を憎みながら、その一方で単純明快な絶対的権力にどこか憧れている。
黄門様がどこを旅しようとも、その絶対的権力が物語の中で動くことはない。
予定調和の筋書きを逸脱することはなく、フラグクラッシャーも出てこない。
人々はその物語に自分を投影するのだ。そしていつでも安心して見ることができる。
だからこそ『水戸黄門』は支持され続けてきたのだろう。
権力とは厄介なものだ。
『水戸黄門漫遊記』は明治時代に講談として広まったと考えられている。


スイカの名産地~

さてまた長州藩と薩摩藩の話に戻ろう。
薩摩藩の事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進したのは島津久光だった。
1862年4月に公武合体推進派兵を率いて鹿児島から京都に進出した。
島津久光と朝廷の公武合体派が江戸(幕府)に出した勅使の圧力の下、幕府はやむを得ず人事制度改革を行った。(文久の改革)
この改革にて新たに京都守護職という役職が設けられ、1962年9月、それに就任したのが会津藩主・松平容保であり、京都守護には会津藩の兵が集められた。


島津久光と朝廷の公武合体派が出した勅使が江戸から京都に戻る途中、その事件は起きた。
生卵事件生麦事件。
1862年9月14日に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。 

この事件によってイギリスと薩摩藩の関係が悪化する。
そしてついには薩英戦争に発展する。
文久3年7月2日(1863年8月15日)-7月4日(8月17日)は、生麦事件の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と鹿児島藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘である。 
薩英戦争後の交渉が、英国が薩摩に接近する契機となった。 


この一連の流れは出来すぎている。スイカが腐ったような匂いがプンプンする。(スイカは泡を吹くことありますよ!腐って発酵して最後は爆発するんですね)


当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退した結果となったのは西洋には驚きであり、当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」とも評している。


ニューヨーク・タイムズは随分褒めてくれたけれど、この流れは出来過ぎだと思います!




by yumimi61 | 2015-06-27 12:49