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昭和 百肆

最後は「人」の問題

1862年に薩摩藩と会津藩が京都入りした。
京都入りしたと言っても、京都は朝廷と長州藩が牛耳っていた。
土佐藩も尊皇攘夷論を掲げ長州藩に追従していた。
薩摩藩は長州藩を追い出して実権を握りたいと考えており、一方の長州藩は討幕を企てていた。


長州藩の討幕を主導したのは久留米藩の真木保臣である。

久留米の水天宮の神職の家に生まれる。文政6年に神職を継ぎ天保3年、和泉守に任じられる。国学や和歌などを学ぶが水戸学に傾倒し、弘化元年、水戸へ赴き会沢正志斎の門下となり、その影響を強く受け水戸学の継承者として位置づけられる。
(水天宮の第22代宮司である)

真木は、文化十(一八一三)年に久留米で生まれ、藩校明善堂で学び、弘化元年に水戸遊学を許されて、江戸に赴いている。四度、会沢正志斎を訪ねている。嘉永五年(一八五二)年に、藩政改革の建白をして執政有馬監物らを排斥する藩政の改革を企てるが失敗、以後十年の長い間、塾居生活を余儀なくされた。この時期に真木が書いた倒幕の戦略書が「大夢記」である。山口宗之氏は『真木和泉』において、次のように書いている。 http://www.taimukan.com/taimuki.html


上記のように真木は水戸学を学びに久留米から水戸に赴いている。
繰り返しになるが水戸藩はあらゆる学派を網羅し、また臣下としてあるべき姿つまり道徳を説いた。そして将軍からも信頼されていた。
尊皇攘夷を掲げて倒幕をけしかけるような学問でも藩でもなかったのだ。
水戸学に明治維新のルーツを求めるには無理があり過ぎる。

後期水戸学を代表する徳川斉昭の妻は宮家出身者。
有栖川宮*織仁親王の娘であり皇室と無縁というわけではなかった。
しかしそれと尊王(尊皇)攘夷とも別物である。
実権を握っていたのは幕府である。そのうえで幕府と皇室は上手く共存していたのだ。
前に「民度が保てれば国営企業でも民間による自由貿易でも実はどちらでも上手くいく」と書いたことがあるが、それに似ている。
尊王(尊皇)攘夷は「王を敬い上位に置いておきなさい」という教えのような気がするが・・・。

*有栖川宮
江戸時代1625年に創設された宮家。
明治時代以前は天皇との血統の遠近にかかわらず、親王宣下(天皇の命)を受けることで親王になれ、4つの宮家が存在しており、そのうちの1つ。
逆を言えば例え天皇の子であっても親王宣下を受けない限り、親王や内親王を名乗る事は出来なかったのである。(厳しいですね)
有栖川宮は歴代、書道・歌道の師範を勤めて皇室の信任篤く、徳川将軍家や水戸徳川家をはじめ、彦根井伊家や長州毛利家、広島浅野家、久留米有馬家などとも婚姻関係を結び、公武ともに密接であった。
1913年に後継者なく10代目が亡くなり、旧皇室典範では皇族の養子縁組が禁じられていたため、有栖川宮の断絶が確定した。
しかし大正天皇は、10代目が亡くなったことをまだ公表していない死の翌日に特旨をもって、当時8歳だった息子・宣仁親王(大正天皇と貞明皇后の第三皇子で現天皇陛下の叔父にあたる)にこれを引き継ぎ「高松宮」の宮号を与えた。
10代目の未亡人が亡くなると、有栖川宮の祭祀及び邸宅や財産が全て高松宮に引き継がれた。
但し旧皇室典範の決まりにより宣仁親王は有栖川宮の当主を正式に継承することはできなかった。
その高松宮宣仁親王は、1930年、徳川斉昭の息子であり江戸幕府最後の将軍(第15代将軍)となった徳川慶喜の息子・徳川慶久の娘と結婚した。
これによって有栖川宮や徳川幕府や水戸藩との繋がりが出来た。
子が生まれれば有栖川宮の血統も繋がったが子は出来なかった。
1987年に宣仁親王、2004年に妃が亡くなり、有栖川宮は再び断絶した。
旧皇室典範は1889年(明治22年)に制定され、皇族の子は天皇からの世数にかかわらず永遠に皇族とする永世皇族制を定めた。またそれまでの氏族や家系などの格式は廃止された。
戦後1947年に旧皇室典範は廃止され、新たな皇室典範が同年5月3日に日本国憲法と同時に施行された。
この時に11宮家が皇室離脱となった。
憲法9条ばかりが話題になるが、皇室典範の9条は「天皇及び皇族は、養子をすることができない」である。
要するに現皇室典範でも養子縁組は認められていないため、子が出来なければ断絶してしまう。(こっそりと・・・)
天皇の命令で後継者を選んだりすることも出来ない。


DNAに刻まれた恨み!?

1840年代に水戸や江戸で学んだという真木保臣は早いうちから倒幕の夢を持っていた。
その後は久留米に戻り、久留米藩でクーデターを企てるが失敗し、1852年に幽閉された。
1863年旧5月に解放されるが、この時の幽閉は3度目だった。幽閉解放を繰り返していたことになる。
1863年の解放が許されたのは、朝廷に付き従い京都にいた長州藩から久留米藩に圧力がかかったからだった。
長州藩は意のままに操れる急進派の公卿(朝廷に仕える最高幹部)を利用して、勅命として真木の解放と京都入りを久留米藩に要求した。(開放要求なんてまさに過激派っぽいですね!)
天皇の命令となれば無視することもできず、久留米藩はその要求を受けいれ、真木を開放する。

真木は京都へ向かう途中で、当時の長州藩主・毛利敬親**と面会している。
長州藩は1863年旧4月に藩庁を萩から山口に移していた。


**毛利氏

長州藩の藩祖は毛利輝元であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として、徳川家康の東軍と戦った。
しかし西軍が負けると判断していた西軍武将の吉川広家(毛利氏家臣で周防岩国領初代領主)は、黒田長政(筑前福岡藩初代藩主)を通じて家康と水面下で交渉を行っていた。領地と家系の存続のためである。
吉川は毛利にも戦わないほうが得策だと説き、毛利軍も不戦を貫いた。
吉川は家康との交渉の中で毛利氏も西軍には関与してないと説明していたが、戦後、吉川広家の説明とは異なり、毛利輝元が西軍に関与した書状が多数押収された。
そこで家康は毛利輝元の領地を没収し、吉川広家に周防国と長門国の2ヶ国を与えて、毛利家も広家に継がせようとした。
吉川広家は家康に直談判して毛利家の存続を訴えたため、毛利輝元は隠居のまま、その子である毛利秀就に周防国と長門国の2ヶ国(37万石)を継承させる形で決着した。但し領地は大幅に削減された。
これにより毛利秀就が初代長州藩主となったが、藩の実権を握っていたのは毛利輝元であった。

毛利氏は鎌倉幕府の名臣・大江広元の子である大江季光を祖とする一族だが直系ではないため名字が毛利となった。
毛利という名は秀光が父から受け継いだ領地・相模国愛甲郡毛利庄(現在の神奈川県厚木市周辺)に由来する。
鎌倉時代末期頃に越後国佐橋庄南条(現在の新潟県柏崎市)から安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移り領主として成長し、戦国時代には戦国大名となって中国地方最大の勢力となる。
そして関ヶ原の戦いにて西軍の総大将に担ぎ上げられた。

要するに関ヶ原の戦い前の毛利氏は安芸国の広島を居城として山陽山陰10か国にまたがる120万石の領地を持っていたが、それが大幅に減少してしまったのだ。
また長門国・周防国を領地として存続を認められた際、徳川幕府に対して周防国の山口か防府に藩庁(居城)を置きたいと希望したが、幕府の指示は長門国の萩であった。

藩の名前というのは基本的に藩庁(城)のある場所の地名となっている。一部は国の名称を使用している。また国を州と呼ぶこともある。
長門国=長門州=長州、周防国=周防州=防州である。
藩庁が萩に置かれたので、毛利氏の領地である周防国と長門国は両方を合わせて「萩藩」と呼ぶのが適している。
ところがこれを萩藩を呼ぶことはない。(藩という呼び方は明治時代以降に定着したもので、江戸時代には藩主の名を用いた呼称だった)
萩は毛利が希望した防府や山口に比べると、三方を山に囲まれ日本海に面したひなびた土地であったため、気に入らなかったらしい。(今では風光明媚な良い観光地になっているのにね)
徳川幕府を恨んでいたのだ。
長州藩士は毛利家が広島から萩に移った時の家臣をルーツに持つため、大都市広島から移転させられた恨みを継承して結束が非常に固かったという。
これが長州藩を倒幕へと駆り立てた要因でもあった。

1863年旧4月、毛利敬親は幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き「山口政事堂」と名付けた。
その後幕府にも申請し、正式に萩藩は山口藩となった。(山口移鎮)(できちゃった藩)
その翌月に幽閉を解かれた真木が毛利を尋ね、倒幕クーデター計画を披露したのだった。
現代では、萩藩時代、後の山口藩時代を総称して「長州藩」と呼んでいる。


天皇が旗頭

最初に真木保臣が計画したクーデターは「大和行幸」だった。
孝明天皇を行幸として大和国(奈良県)に誘い出す。
表向きの予定は神武天皇陵や春日神社などの参拝である。
本当の目的は討幕のための挙兵だった。
何故天皇の行幸に合わせるかと言えば、天皇が指揮を取っているように見せるためである。
尊皇攘夷派にとって天皇の存在ほど心強いものはない。

「大和行幸」クーデターを実現させるため、暗殺や脅迫など荒っぽい手法で朝廷の反対者を押さえつけた。
尊皇攘夷を信奉する急進派の公卿は元々積極的に関与していたわけだが、それ以外の公卿も過激な行動に委縮して計画を征することが出来なくなっていた。
これを憂慮したのが京都守護職の会津藩主・松平容保である。
クーデターを計画している側にとってはこの松平容保と会津藩兵が目の上の瘤であった。
真木は松平容保を京都守護職から解任させることも画策したが、結局は勅命によって松平容保を江戸に行かせている間に計画を実行することにした。

「大和行幸」クーデターの先鋒隊が「天誅組」***である。
天誅組は中山忠光を大将として同志38人(内、土佐脱藩18人、久留米脱藩8人)で編成された。
中山忠光は孝明天皇の皇后の弟であり、 明治天皇の叔父にあたる。
急進的で過激な公卿であり、官位を辞してまでして天誅組を結成した。
旧8月15日に挙兵し、大和国(現在の奈良県五條市)の幕府代官所を襲撃した。

***天誅
神などの人間を超越した存在が、悪行を行った人間に対して誅伐を下すこと。天罰。
転じて、イデオロギーが対立する相手や私怨の相手などに対する殺害・粛清を正当化するため「天の誅伐の代行」の意味合いで用いられるようになった。


八月十八日の政変

「大和行幸」の詔は旧8月13日に発せられた。
同じ日、薩摩藩が尊皇攘夷派のクーデターを阻止するためという理由で会津藩に提携を依頼。
薩摩藩は長州藩や急進派公卿を一掃するクーデター計画を練っていた。
8月15日松平容保から一掃クーデターの了承が得られたため、翌16日には孝明天皇を説得し、17日に天皇の密命が下った。
孝明天皇は尊皇攘夷派に付かなかったのだ。

そして1863年旧8月18日、クーデターは実行された。これを「八月十八日の政変」という。
大和行幸クーデターに先回りして実施した形になる。
京都にいた徳島藩・岡山藩・鳥取藩・米沢藩など諸藩がこれに協力した。
この政変で急進派と呼ばれていた公卿7名(七卿落ち)と長州藩が京都から追放された。

八月十八日の政変によって大和行幸クーデターを計画していた尊攘過激派が逆に京都で討伐されると、天誅組は孤立。
朝廷からも見放され、幕府に命じられた彦根藩や紀伊藩によって鎮圧された。
中山忠光は大坂へ脱出し長州に逃れ保護されるも、1864年に暗殺された。

(日付は旧暦)
1863年8月8日 交代のための会津藩兵が京都に到着。
1863年8月11日 任期を終えた会津藩兵が京都を後にする。
1863年8月13日 大和行幸の詔が発せられる。
            薩摩藩が会津藩(会津藩主で京都守護職・松平容保)に共闘依頼する。
            京都を出発していた会津藩兵も再び京都に戻す。
1863年8月15日 天誅組が挙兵。
1863年8月15日-8月17日 薩英戦争(薩摩藩兵は鹿児島を離れず)
1863年8月18日 政変クーデター(八月十八日の政変)、長州藩の追放に成功する。

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by yumimi61 | 2015-06-28 11:31