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昭和 百伍

失敗は成功の母

長州藩の過激な行動の中心にあったのが、吉田松陰の私塾であった「松下村塾」である。
危険思想と過激な行動により幽閉された時期もあったが、松下村塾出身者が倒幕に貢献した。
現代では松下村塾出身者を偉大な改革者とした崇める風潮が強いが(現在のNHKの大河ドラマが松下村塾を描いている)、その改革とは「尊王(尊皇)攘夷」だったのだ。
ともかく前記事に書いた通り1863年旧8月に長州藩は京都を追われた。

一旦は朝廷と親密な関係を築きながらも倒幕の夢果たせず失脚。
しかしそれでも諦められなかった。

1864年旧6月、池田屋事件。
京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。
京都に潜伏して以下のクーデターを企てていた。
「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋(徳川)慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものであった。

1864年旧7月、禁門の変(蛤御門の変)。
長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。
大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなった。


1864年旧8月、下関戦争。
長州藩攘夷の思想に基づく、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4国との間に起きた、武力衝突事件。
幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていなかったが、長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施した。戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、米英仏蘭に対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。

池田屋では新撰組に襲撃され、禁門の変で敗れ、下関戦争でも敗北した。
長州藩の計画実行は悉く失敗した。


皮肉な巡り合わせ

風向きが変わったのが1865年。慶応元年。

慶応時代は1865‐1868年。
慶応への改元は江戸時代最後の改元となった。
長州藩の起こしたクーデターや戦争による社会不安を払拭するための改元だった。
江戸時代では一貫して幕府が元号の案を出してきたが、最後の慶応は将軍・徳川家茂が孝明天皇に委ねたものである。
幕府は尊皇を実践したわけで、それはつまり長州藩の行動は真に尊皇ではないというということを示したものではなかろうか。
結果的に最後の元号になったが、幕府が力を失って朝廷側に奪われたものではなかったはずだ。
この時の改元で「平成」も候補の1つとなっていた。
慶応は、『文選』の「慶雲応(まさ)に輝くべし」から採用された元号だそうである。

慶応元年(1865年)、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵し、椋梨藤太ら俗論派(保守派)を打倒するクーデターを実行する(功山寺挙兵)。これにより正義派(倒幕派)政権が成立すると、高杉らが結成した奇兵隊や民間の軍事組織である長州藩諸隊を整備し、大村益次郎を登用して西洋式軍制を採用し、ゲベール銃やミニエー銃など新式兵器を配備して、戦術の転換など大規模な軍事改革を行う。

ここで述べている俗論派(保守派)と正義派(倒幕派)というのは、長州藩の中のことである。
長州藩では内紛が起こっていた。
保守が俗論で、倒幕が正義、たぶん後世で付けられたものだろうけれども、この命名がいかにもといった感じである。
「散々失敗したんだし、もういい加減落ち着いて藩運営していきましょう」という派閥に対して、「寝返るとは何事か!おまえらそれでも長州藩士なのか!!幕府や会津藩を許しておけるわけがない!!!」という倒幕派。
松下村塾出身者はやはり倒幕派である。
長州藩内でクーデターにより俗論派(保守派)が退けられると、西洋色が現れ始めた。
正義とは何かね?攘夷とは何かね?


イギリスの影 ~イギリスを世界の覇者にしたもの~

慶応2年1月21日(1866年3月7日)に坂本龍馬の仲介で薩摩藩と長州藩は薩長同盟を結んだ。

長州・薩摩間の和睦は、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが長州の高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐藩を訪問するなどして西南の雄藩を結びつけさせたことに始まる。
土佐藩の脱藩浪人で長崎で亀山社中(後の海援隊)を率いていた坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において会談が進められ、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが、1月21日(18日、22日説も)小松邸で坂本を介して薩摩藩の西郷、小松と長州藩の木戸貫治が6か条の同盟を締結した。


ここで少し時代を遡る。
西欧の国がアメリカ大陸やアジアに進出した大航海時代。
新しく発見した地での直接交易が航海の援助者だった王家に莫大な富をもたらした。
富をもたらしたのは西欧に持っていけば非常に価値の出る貴金属や香辛料などであった。
これに味を占めて、16世紀から18世紀は貿易が国の政策の中心となる。
まずはそのものに価値のある金・銀などの金属や正金(正貨)を得ること、次いで現地では然程価値なく西欧では価値が出る物で貿易差額を得ること、これが目的であった。
国力は富(金属や正金、貨幣など)に比例するという考えのもとにひたすらその増大を目指した。
これらを牽引したのは絶対君主制だった国々である。ということは要するに国力とは王権の絶対性ということになる。
絶対君主制を維持したり絶対性を強化するために貿易は拡大していったのだ。

国王や女王の勅許(特別許可;特許)によって設立された商社が東インド会社。
アジア地域との貿易独占権を与えられ、アジア各地の植民地経営や貿易に従事した。
イギリス、フランス、オランダなど各国で設立された。
この場合の「インド」は、ヨーロッパと地中海沿岸地方以外の地域全般が含まれ、インドという国に限ったものではないが、イギリス東インド会社はまさに国家としての「インド」を支配することに成功した。

このように貿易を主導してきたイギリスだが明や清(中国)、日本との貿易は思うような成果を上げられず苦汁を嘗めた。
日本においては江戸時代初期に長崎の平戸に商館を設置し対日貿易を行っていたが、オランダとの競争に敗れ経営不振に陥り一方的に商館を閉鎖し撤退した。
その後に再開を試みたが以降は江戸幕府から拒絶された。

イギリスと清との戦争も貿易不均衡を補うためのアヘンの密貿易が原因であったように、貿易拡大の失敗がイギリスを戦争に駆り立てたのかもしれない。
・1840-1842年 アヘン戦争

アヘン戦争に勝利したイギリスは清との間で不平等条約(南京条約)を結ぶことに成功した。
不平等には、強者が弱者を虐げる不平等もあれば、強者が弱者にハンディキャップを与える(強者に不利な条件を付ける)不平等もある。
ハンディキャップを付けるということは、親子の遊び、スポーツの試合、外国人の大学入試など一般的に行われるていることである。
不平等条約には両方の側面がある。
不平等条約が嫌だと言う場合にも、「弱い者いじめ反対!」「勝負の世界だから公平公正に戦いましょう!」「あなたはハンデを付けるほど弱くないでしょ!」「強い者が勝つのは当然!」など理由には違いがあると思う。
1対1の勝負ならば分かりやすいが、複数と複数の勝負になれば強弱の判定も難しい。
江戸幕府においてもこの辺りの判断は個々に違いがあったのだと思う。
孝明天皇も不平等条約には反対の立場であった。


産業革命と戦争

産業革命はイギリスに始まったと言われ、1760年代から1830年代を産業革命期としている。
産業革命はそれまでの貿易で得た富を以てして成し得たというのも一般的な考え方だ。
成功するためには、勝利するためには、資金が必要。―この考え方はオリンピックをはじめとして現代社会においても強固に継承されている。
産業革命の成功がイギリスだった理由にはもうひとつあって、それが植民地の多さである。
製造したものを植民地で売れば容易く販売競争にも勝利できるだろう、誰もがそう思った。
しかし果たして本当にそうだろうか?
産業革命の成功はなぜ戦争抑止に働かなかったのだろう?
産業革命は国の富には繋がらなかったのでは?
合理的で効率的と思われた産業革命は実はとても割に合わないものだったのではなかろうか。


・1856-1860年 アロー戦争
・1861-1865年 アメリカ南北戦争(奴隷制度を巡る対立)




by yumimi61 | 2015-06-29 14:52