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昭和 百拾壱

いつも一緒にいたかった~隣で笑ってたかった~曜日はまた変わるのに~心だけ立ち止まったまま ~♪


宙に浮いた新潟港

1858年の日米修好通商条約(安政五カ国条約)で開港を約束した港のうち、兵庫港の開港が難しくなり、「ロンドン覚書」と「パリ覚書」締結によって5年ほど開港が延期されたことを前記事に書いた。
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すでに開港していた下田と箱館。(但し下田港は神奈川開港6か月後に米国人居住区及び通商区としての機能を閉じる)
神奈川(横浜):1859年7月4日
長崎:1859年7月4日
新潟:1860年1月1日(新潟の開港が難しい場合は代替する港を指定する)
兵庫(神戸):1863年1月1日

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ところがところが、この出来事は一貫性がなく少々怪しいのである。
大きく問題になったのは兵庫港の開港であり、覚書が締結された時期を見ても、覚書締結以降に開港予定だった港は兵庫のみである。
しかし新潟港も延期されたという話がある。

外務省:特別展示「日英交流事始―幕末から明治へ―」開港開市延期問題と文久遣欧使節団派遣より
1862年1月21日(文久元年12月22日)、竹内下野守(保徳)を正使、松平石見守(康直)を副使、京極能登守(高朗)を目付(監察使)とする全36名(のちに2名加わる)の幕府使節団が、英国軍艦オーディン(Odin)号に乗ってヨーロッパの締約国(英国のほかにフランス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガル)へと派遣された。使節団に与えられた主な役割は、(1)開港・開市の延期を確約すること、(2)西洋事情を視察すること、(3)ロシアとの樺太境界を定めることであった。
使節団は最初にフランスを訪れたのち英国に渡り、1862年4月30日(文久2年4月2日)、ロンドンに到着した。英国での開港開市延期交渉には、賜暇帰国中の駐日公使オールコックも加わってよく日本側を弁護したこともあり、日本側使節と英国政府は、同6月6日(5月9日)、新潟と兵庫の開港、江戸と大坂の開市を1863年1月1日から5か年延期することを取り決めた覚書(「ロンドン覚書」)に調印した。
 その後使節団は他の締約国とも同様の覚書を取り交わし、約1年間に及ぶ旅程を終え、1863年1月(文久2年12月)、帰朝した。


新潟市:新潟港の歴史より
1858年(安政5年) 日米修好通商条約により開港五港の一つとなる
日米和親条約(1854年)より一歩進んだ日米修好通商条約(1858年)により、日本は五港(函館・新潟・神奈川・兵庫・長崎)を開港することとした。この頃から、新潟にも異国船が現れ始め、乗組員が上陸することもあった。
1868年(明治元年) 新潟港が開港
開港の指定を受けた新潟港であったが、戊辰戦争の影響などで10年後の明治元年11月19日(西暦1869年1月1日)の開港となった。同時に緊急避難などのための補助港として、佐渡夷港(両津港)も開港した。


Wikipedia新潟港より
1843年、新潟港周辺が天領となり新潟奉行が新設。1858年、日米修好通商条約で開港五港の1つとして北海岸開港場に指定される下地となった。実際の開港は水深不足や北越戊辰戦争などの影響で遅れ、1869年1月1日(明治元年11月19日)にようやく外国船に開港、貿易が開始された。同年には新潟運上所(のちの新潟税関)が設けられた
明治期は対外貿易は振るわなかったものの、北洋サケマス漁船など遠洋漁業の基地として栄えた。



問題の日本海

新潟港というのは元々開港が心配されていた地であり、変更しようと思えば出来たのだ。
日米修好通商条約締結の時から代替の港でも構わないという話になっていた。
条約文には「若し新潟湊を開き難き事あらば其代わりとして同所前後に於て一港を別に選ぶべし」とある。そこで近くは酒田湊、直江津湊、松ヶ崎湊、小木湊などが考えられていたが遠くは丹後国宮津湊、若狭国小浜湊、越前国三国湊、能登国所口湊などが候補地となった。ところが慶応三年(一八六七)十月九日日本西海岸における開港場は佐渡国夷湊を補助港として新潟湊に決定した。

近隣の他の候補地:酒田港(山形県酒田市)、直江津港(新潟県上越市)、松ヶ崎港(新潟県佐渡市)、小木港(新潟県佐渡市)
遠方の候補地:宮津港(京都府宮津市)、福井港(福井県小浜市)、三国港(福井県坂井市)、所口港(現:七尾港、石川県七尾市)

日米修好通商条約では北海岸開港場として新潟港が選ばれたが、そこが都合が悪ければ西海岸から選んでもよいという条件になっていた。
この場合の北海岸や西海岸というのは日本海岸沿いのこと。

下の図で、色付で条約と書いてある箇所はロシアが清から得た領地。
日本とロシアとの交流の重要地点だったのは函館港であった。
それを考えると日本が警戒していたのはロシアではなく朝鮮国(当時は李氏朝鮮)の北側であったように思う。
北朝鮮による拉致被害者が連れ去られた場所が福井県や新潟県や石川県などであるが、江戸時代にも日本海側の海岸は鬼門として考えられていたのかもしれない。
e0126350_1463029.jpg



高句麗の流れ

歴史は繰り返すと言うが、日本はかつても九州の一部勢力に乗っ取られ歴史を改ざんされたことがある。
面倒なのは、かつての倭国連合体のそれぞれの国の王が混ぜこぜの状態になっていること。
特に問題なのが九州(九州王朝)と奈良(大倭・大和・近畿王朝)、京都(平安京)の混在。
おそらく九州朝廷などが大倭朝廷乗っ取りを画策し、日本書記などを都合よく書き換えている箇所があるはずなのだが、その認識がないままに、権力を批判する時には近畿王朝のみが槍玉に挙げられるという構図になっている


最有力氏族の蘇我氏族を次々に消していき、最終的には宮中で蘇我入鹿を暗殺するというクーデター(乙巳の変)を起こした。
日本史上において非常に重要な変である。
この後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」であり、初めて元号(大化)を制定した天皇が孝徳天皇だった。
この頃、朝鮮北側は高句麗という国が支配していた地域であった。(地図あり
e0126350_1534256.jpg

この高句麗と日本の九州一部勢力は同盟関係にあったことがある。(こちらの同盟国はどこだ?に書いたこと)

高句麗という国は668年に滅亡した。しかし高句麗の人間が滅亡したわけではなく、細々とあるいは脈々と、その流れは続いてきた。
・北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。
・一部の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。
・遺民の一部には日本へ逃れた者もいる。例えば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちが住んだところと言われており高麗神社・高麗川などの名にその名残を留めている。

・朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族の弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗って挙兵し、新羅北部の大半を占領して独立した。その後、王建が後高句麗(当時は泰封と号していた)を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。
・日野開三郎は、弓裔の立てた後高句麗国とは別に、唐が現在の遼東半島一帯に旧高句麗王族を擁立して成立させた傀儡政権としての後高句麗国が存在しており、契丹の遼東占領時に滅亡したとする説を唱えている。


日本に逃れた一部が現在の飯能市に住んでいたということだが、飯能市は古くには(1988-1989年)宮﨑勤幼女連続殺人事件で有名になってしまった。
ごくごく最近も話題になっていた。
STAP細胞の小保方さんも大好きだった『ムーミン』のテーマパーク「メッツァ」(フィンランド語で森の意)が飯能市の宮沢湖付近にオープンすることが発表されたからである。


アメリカはどこ?

兵庫開港を延期するため「ロンドン覚書」と「パリ覚書」を締結したというが、ロンドンとパリということはイギリスとフランスと結んだということになる。
財務省の資料には、イギリスとフランスの他、オランダ、プロシア(ドイツ)、ロシア、ポルトガルへと使節団を派遣して同様の覚書を取り交わしたとあるが、「取り交わした」というのは「調印に至った」という意味でとってよいのだろうか?
兵庫開港延期の覚書として出てくる言葉は「ロンドン覚書」と「パリ覚書」のみで、「オランダ覚書」や「ロシア覚書」などという言葉は出てこない。
これは列強国か否かという違いなのだろうか。
兎にも角にも、ヨーロッパの国々と覚書を交わしたとしか書かれていない。
真っ先に日米修好通商条約を結んだ肝心のアメリカが含まれていないのである。
この観点からもやはり何か釈然としない。

Wikipedia両都両港開市開港延期問題
アメリカとは公使ロバート・プルインと交渉が続けられ、文久3年12月20日(1864年1月28日)に江戸で延期を認めるロンドン覚書と同様の日米約定が結ばれた。


タウンゼント・ハリスの「江戸開市」や「兵庫開港・大阪開市」に対する認識の変化

これによれば、アメリカ大統領のハリスへの信頼が厚かったため、ハリスに自由裁量権を付与した。
これが、幕府がヨーロッパには使節団を派遣したが、アメリカには派遣しなかった理由だそうである。
しかしハリスは正式に覚書を結んでいない。
ヨーロッパに交渉に行った使節団一行が帰国した文久2年12月9日(1863年1月28日)にはハリスはすでに退官して帰国し公使が変わっていた!(そんな馬鹿な・・)
でも後にロンドン覚書の内容をアメリカも正式に認めたとか。それが1864年1月28日ということなのか?
ちなみに「日米約定」と言えば通常は、ハリスが日米修好通商条約の前段階として1857年に下田にて締結した9か条の日米約定(日米追加条約)(下田条約)のことである。

ハリスは、「私も1ヵ年あまりも江戸に在留し、ようやく代表者の方の言われた事が虚説ではなかったと判明しました」と告白しているように、ある意味で特殊な首府・江戸の開市は、日本の諸問題を凝縮している都市の開市だったのだ。





by yumimi61 | 2015-07-05 12:45