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昭和 百拾弐

いろいろおかしい

文久2年5月9日(1862年6月6日)、開市開港(新潟港・兵庫港・江戸市・大阪市)を1863年1月1日より5年遅らせることを定めたロンドン覚書を締結した。
1863年1月1日というのは兵庫港の開港予定日であり、他はもっと早い時期が予定されていた。
従ってこの覚書が本当だとすると兵庫港に合わせたということになる。
同年8月9日(10月2日)にはフランスともパリ覚書を締結する。
その他、プロイセン(ドイツ)・ロシア・オランダ・ポルトガルとも同様に締結し、文久3年12月20日(1864年1月28日)にはアメリカとも締結したと言われている。

この開市開港の延期を了承するかわりに日本の輸入税(関税)を引き下げたと言われることがある。

これら協定は、延期を認める代わりに、関税の低減化や生糸などの輸出自由化を日本に約束させ、また大名との直の取引や日本商人の身分限定の解除を認めさせた。そして、これらが守られない場合は、延期の取り消しが定められた。

日本は開市開港の延期を認められたものの、代償として関税の低減化を始めとする貿易の自由化を認めさせられた。

・幕府は交渉のため、文久遣欧使節(正使・竹内保徳)を送り、最終的にロンドン覚書やパリ覚書によって遅延が認められたが、代わりに輸入関税の低減化や特定品目の輸出自由化などの代償を負うことになった。


覚書の主な内容はこのようなものだったそうだ。
●新潟、兵庫の開港、江戸、大阪の開市を5年間延期する。
●開港、開市延期の代償として、幕府は以下を実施する。
  ・ 安政条約に決められたとおり、貿易品の数量・価格の制限を撤廃する。
  ・労役者(大工、船頭、教師、人夫、従僕など)の雇い入れに関する制限を撤廃する。
  ・大名が直接外国人と取引することを妨げない。
  ・定められた関税以外の手数料を徴収しない。
  ・開港場において外国人と取引する日本商人の身分を制限しない。
  ・外国人と日本人の自由な交際を阻止しない。
●使節が帰国後、以下を幕閣にはかる。
  ・対馬の開港を建議する。
  ・現行の酒税35%を低減する。
  ・現行のガラス製品の関税20%を5%とする。
  ・横浜、長崎に保税倉庫を設ける。
また、これら代償が履行されない場合には延期の取り消しも定められていた。


メインはやはり「5年間延期」であって、代償として実施すべきことは「締結した条約を約束通り守ってね」というくらいな感じで、特別な事柄ではなくそれほど大きな代償でもない。
何より関税には触れていない。
完全決定ではなく「帰国後に幕府と相談してちょうだいね」という事柄に酒とガラス製品の関税の引き下げが挙がっているが、この書き方からすれば即座に強要されたものではなさそうだ。
また全ての商品の関税引き下げを要求されているわけではない。
ヨーロッパを代表する酒とガラス製品が指定されており、アメリカなんか「?」という感じだろうと思う。


消せなかった不平等感

関税を引き下げたのは開港の延期ではなく下関戦争の賠償金と関係がある。
長州藩と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ合衆国の四カ国との間に下関戦争が勃発し、敗れた同藩は賠償金300万ドルを支払うこととなった。しかし、長州藩は外国船に対する砲撃は幕府の攘夷実行命令に従っただけであり、賠償金は幕府が負担すべきとの理論を展開し、四カ国もこれを受け入れた。幕府は300万ドルを支払うか、あるいは幕府が四カ国が納得する新たな提案を実施することとなった。

下関戦争とは長州藩の下関海峡閉鎖によって経済的損失を被ったとイギリスが言いだして、他国を誘い下関を砲撃したものである。
(砲撃して壊滅させたら上陸して占領するものではないの?下関はイギリスなど四国連合に奪われた。違うの?)
敗北した長州藩に賠償金として300万ドルを要求したが長州藩は幕府に押し付けた。
支払うか新たな提案を行うかと、いきなり今のギリシャみたいな状況になっているが、幕府に支払い能力がなかったということはないだろうと思う。
また下関戦争よりも先に幕府は長州征伐に乗り出していたのだ。
日本という枠に囚われると見落としがちだが、対長州という意味では幕府と四国連合艦隊は仲間である。
しかしもしも下関が四国連合に占領されていたとするならば、幕府はそれを奪還するために戦ったかもしれない。
その場合には幕府と四国連合艦隊は敵である。

さらに「ロンドン覚書」や「パリ覚書」などは下関戦争前に交わしたものだ。
開市開港を延期するほど幕府が大変な状況にあることを諸外国の皆さんはよく御存知のはず。
大変な状況を誰かの言葉を借りて言い換えると、「攘夷運動に対する幕府の力は限界に達していること」となる。

イギリスを代表とする四国連合は、長州藩は、はたしてどちらに付いたのか?
あなたならどうしますか?

ともかく関税は引き下げられた。
慶応2年(1866年)5月13日、下関砲撃事件(下関戦争)の賠償金の減免と引き替えに、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4国とそれぞれ改税約書(関税率の軽減と貿易の制限撤去)を取り交わした。
それまで平均20%だった関税(輸入税)が平均5%となった。
これは清がアロー戦争後に結ばされた不平等条約の関税と同程度となり、よって下関戦争が日本にとってのアヘン戦争&アロー戦争であったと言われることもある。(場合によってはここに長州征伐が含まれるかもしれない。但し第一次長州征伐では幕府側が勝利している)
実際のところ関税5%でも当時の日本は十分にやっていけただろうと思う。
逆を言えばだからこそ幕府を倒す必要があったのだ。
もしこの関税引き下げがなければ、日本の産業、とくに莫大な投資費用が必要な重工業がもっと早くに発展したとも考えられている。
それが出来なかったゆえに、軍需品を輸入に頼らざるを得なくなった。
軍需品は戦争をしなければ、戦争に備えなければ、別に必要ない物であるが、世界はそれを許さなかった。


1862+5=1867(単位は年)

1862年に5年間の開港延期の覚書を交わしたはずなのに、、
1864年の下関戦争にも四国連合艦隊は勝って幕府から賠償金を支払ってもらう約束を取り付けたのに、、、
それなのに、、、、それなのに、、、、、

その事件は起こった。その名も兵庫開港要求事件。時は慶応元年9月(1865年11月)。
まだ5年経っていないじゃない!

兵庫開港要求事件
イギリス・フランス・オランダの連合艦隊が兵庫沖に侵入し、その軍事力を背景に安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を迫った事件。アメリカ合衆国は艦隊を派遣しなかったものの公使が同行しており、四カ国艦隊摂海侵入事件などともよばれる。

事件の勃発
英国の新公使ハリー・パークスは、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画した。パークスは、他の3国の合意を得、連合艦隊を兵庫に派遣し(長州征伐のため、将軍徳川家茂は大坂に滞在中であった)、幕府に圧力をかけることとした(賠償金を1/3に減額する代わり、兵庫開港を2年間前倒しすることを提案した)。

慶応元年9月13日(1865年11月1日)、英国4隻、フランス3隻、オランダ1隻の合計8隻(アメリカは軍艦は派遣せず)からなる艦隊は、9月16日(11月4日)に兵庫港に到着した。
幕府は老中阿部正外および松前崇広派遣し、9月23日(11月11日)から四カ国の公使との交渉を行わせた。

兵庫港に着いた艦隊を1週間もお待たせするなんて!
待ちくたびれた艦隊が砲撃でもしてきたらどうするつもりだったのかしら?

四カ国は、幕府に対して「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られない場合、条約遂行能力が幕府にはないと判断し、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」と主張した。
「攘夷運動に対する幕府の力は限界に達している」と前に聞いていたから?それを覚えていて?
だけど、速やかにもなにも、延期の覚書交わしたわね?それはもう忘れちゃったの?

四カ国の強硬姿勢から要求を拒むことは困難と判断した阿部、松前の両老中は、2日後やむをえず無勅許で開港を許すことに決めた。翌日、大坂城に参着した一橋慶喜は、無勅許における条約調印の不可を主張するが、阿部・松前はもし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉をはじめれば幕府は崩壊するとした自説を譲らなかった。
あのぉ・・覚書は・・・。

朝廷は、阿部・松前の違勅を咎め、両名の官位を剥奪し改易の勅命を下し、9月29日(11月17日)両老中は解任されてしまった。
このため、四カ国は先の要求を再度提出し、10日以内に回答がなければ拒否とみなすとの警告を発した。
10月7日(11月24日)、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国国に対して回答した。
開港日は当初の通り慶応3年12月7日(1868年1月1日)であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは四カ国の外交上の勝利と思われた。
また、同時に関税率の改定も行われ、幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認された。

はっ?


勅許問題

やはり整合性に欠けている。
そもそも1865年旧9月のこの機とは何だろう?(下関戦争は1864年旧8月の出来事)
英国の新公使ハリー・パークスは、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画したとあるが、なぜ急に兵庫港だったのだろうか。
そしてもうひとつの大きな問題が「天皇からの勅許」である。
1954年の日米和親条約(神奈川条約)の時も、1958年の日米修好通商条約の時にも、勅許が問題になった。
その後の攘夷運動に大いに利用されたのが勅許である。
1954年以来日本に横たわっていたのが「条約勅許問題」なのである。
「将軍や幕府の決定だけでは事足りぬ。天皇の許可・承認を得よ」ということなのだ。
そして天皇側(朝廷)に反幕府で倒幕派の長州藩やら薩摩藩が付き、さらには公武合体が推進され、実際に天皇家と将軍家が親戚になってしまったものだから、にっちもさっちもいかなくなってしまった。

しかし日米修好通商条約に関しては批准されており、批准書*を交換している。

*批准
既に全権代表によって署名がなされた条約に拘束されることを国家が最終的に決定する手続きである。通常は議会の同意を得て元首等が裁可あるいは認証、公布などを行うことにより成立し、締約相手国と批准書を交換したり国際機関に批准書を寄託することによって国際的に正式確認される。

批准書交換は万延元年(1860年)4月3日にワシントンで行われた。和文交換証書には全権新見豊前守正興・村垣淡路守範正・小栗豊後守忠順が署名し、英文証書には国務長官ルイス・キャスが署名する。その他に和文証書蘭訳文と英文証書蘭訳文が附属している。
このようにアメリカとは条約の批准手続きが完了している。
日米修好通商条約と同様の条約をヨーロッパ各国とも結んだが、そちらは批准しなかったということなんだろうか?
それともイギリスなど王家のあったヨーロッパでは当時、「天皇(王)からの勅許」と「批准」が別物という扱いだったのだろうか。
将軍や幕閣、朝議などによる批准には意味がなく、是が非でも天皇の勅許が必要となれば、それはもう独裁に近い。




by yumimi61 | 2015-07-07 13:06