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昭和 百拾肆

改税約書について

・1858年7月29日、日米修好通商条約締結。(この年にイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも条約を結ぶ)
・1863年3月、第14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の異母妹が結婚。薩摩藩を中心に公武合体は強力に推進される。
・1862年6月6日、開市開港(新潟港・兵庫港・江戸市・大阪市)を1863年1月1日より5年遅らせることを定めた「ロンドン覚書」を締結。(その後他の国も締結したとのこと)
・1862年9月、生麦事件(薩摩藩がイギリス人を死傷させる)。
・1863年9月、薩英戦争。
・1864年8月、長州藩による禁門の変。幕府による長州藩征伐が始まる。
・1864年9月、下関戦争(長州藩vs四国連合艦隊)。長州藩は賠償金を幕府に押し付ける。
・1865年11月、兵庫開港要求事件(天皇の条約勅許と兵庫港の早期開港を要求)。
          11月24日に幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと四国連合艦隊に回答した。
・1866年6月、下関砲撃事件(下関戦争)の賠償金の減免と引き替えに、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4国とそれぞれ改税約書(関税率の軽減と貿易の制限撤去)を取り交わした。


Wikipedia改税約書より
駐日イギリス公使パークスを中心とする列強側は、財政難の江戸幕府が支払いに困窮している下関戦争賠償金総額の3分の2を減免することを条件に条約の勅許、兵庫早期開港、関税率低減を要求した。
これにより、輸入品価格の35%ないし5%をかける従価税方式であった関税が、4年間の物価平均で定まる原価の一律5%を基準とする従量税方式に改められた。
そのため、外国商品は国内の物価上昇(インフレーション)に即応しない安価な商品が大量に流入することとなり、国際貿易収支を不均衡にしたのみならず、日本における産業資本の発達が著しく阻害された。一方、高価格の外国商品の輸入には有利であり、外国品輸入がおおいに促進された。


外務省の史料 改税約書(重要文化財)より
1866年(慶應2年)、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4ケ国との間で結ばれた関税に関する協定。
修好通商条約で定められた関税率が約20%と高率だったため、この引き下げを狙った欧米各国(とりわけイギリス・フランス)の要求により交渉が開始され、1866年6月25日(慶應2年5月13日)に調印、7月1日(同年5月19日)より実施された。
本協定により、輸出入品の大部分はそれまでの従価税方式から従量税方式に改められ、従量税の税率はその当時の従価5%を基準とした。これは交易における税関(運上所)の介入を減らすことで、より自由な貿易を実現したいとの英国の狙いによるものであった。
このように、関税率引下げなど日本にとって不利な規定を含む一方で、すべての階級の日本人が国内外で自由に貿易・交流できることを規定するなど、経済面に止まらない日本と諸外国との関係強化を掲げていることも、本協定の特徴である。


Wikipedia関税自主権より
改税約書によって主要な輸入品89品目と輸出品53品目を当時の従価を基にした5%の従量税とし、無税対象を18品目・その他は一律従価5%に改められた。従価税であれば、価格が上昇すれば関税収入もそれに比例して上昇するが、従量税であれば価格に関わり無く量に応じた関税を払えばよく、幕末の混乱期のインフレによって事実上の関税免除に近い状態になってしまったのである。

改税約書は12条の本文と附属の運上目録とでなる。
改税約書の12条はこちらを参照
(データベース『世界と日本』 日本政治・国際関係データベース東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室)

条文にタイトルを付けるとすれば以下のようになる。
前文 関税(輸出入とも)5%を基本とすることなどが記されている
第1条 改税約書の発効期日
第2条 税率の改定
第3条 免状料の廃止
第4条 保税倉庫制度
第5条 貿易品に対する関税以外の税の禁止
第6条 貨幣鋳造所の自由な設立
第7条 港湾内の人足や波止場の設備
第8条 日本人による自由な外国船購入
第9条 貿易取引における日本役人立会いの不要
第10条 日本人による自由な貿易と海外渡航
第11条 灯台の設置
第12条 批准書交換の不要

「諸品都て(すべて)價(価)五分の運上を基本とし右運上目錄を猶豫(猶予)なく改むへき趣を約束し」
これが5%ということが記されている前文の部分。すべて5%の関税が基本と書いてある。
禁制物(輸出入・売買禁止品)、無税品もあった。

上に転載した文にはどれも従量税に変わったとあるが、条文にはそのような記述はない。
價五分とあるので従価ということだと思う。
従価税というのは取引価格に対して税率を掛ける方法。消費税などがそうである。
従量税というのは数量(重量や個数、面積、容積など)を基準に税を掛ける方法。
酒税やガソリン税、自動車の重量税などがそうである。税率10,000円/キロリットル、車両重量0.5トン毎 5000円/年、5000円/1000本などと表される。


関税について

導入当初の明治時代ならばともかく平成の世の現代においても関税をよく理解していない人が多いみたいなのでTPPも何かと心配ですね。
どちらがどちらに支払うべきものなのか混乱して、逆に考えている人も少なくないかも。

関税には輸入税と輸出税がある。
輸入税や輸出税は個人輸出入を除けば消費者が直接的に支払うものではない。
しかし物価や手数料や税金や輸送料というのは売価に反映されることが多いので、そうしたものが乗れば乗るほど売価も上がる。
売価が上がれば購入者負担となる。購入者はさらに国内の消費税などを支払う必要がある。
輸入税や輸出税というのは消費税と違い、国内と外国との間の出し入れに掛かる税金なので、商品が売れる売れないは関係ない。
輸出した先で全く売れないとしても輸出する側は相手国に輸入税を支払う必要がある。
1つの視点からでは良いか悪いか判断できないので、とても難しい問題。
政府、商社、企業、生産者など、利害関係が必ずしも一致しない複数が関係するので、どこをメインに考えるのかが重要になってくる。
また似たようなことになるが、国の資金、企業や生産者の儲け、国内産業の保護、雇用など複数の問題が絡んでいる。

●輸入税は輸入する日本が支払うものではなくて、輸出する側が支払う税金。日本政府の収入になる。
(例)アメリカ→(日本の輸入税)→日本国内
●輸出税は日本が自国の輸出業者や企業に掛ける税金。輸出税は日本政府の収入になる。輸入税はアメリカ政府の収入。
(例)日本→(日本の輸出税)→(アメリカの輸入税)→アメリカ国内へ
●現代では輸出税は設定されないことが多い。
(例)日本→(アメリカの輸入税)→アメリカ国内へ


関税をなくすということは外国であっても国内勝負のようになるということである。
とにかく安い商品を提供できる者、良い商品を安く提供できる者、付加価値の高いものを提供できる者(多少高くても売れる物)が勝つだろう。
安心安全で選択するか、価格で選択するかということは、個人の考え方や収入の状況などによって違う。
また関税がなくなっても輸送料は消せるものではない。
安心安全な輸送を心がければ心がけるほど費用はかさむ。
同じ品質で同程度の価格の物ならば、通常は遠くの物を買うよりも近くの物を買った方が安い。
また例えば、日本、アメリカ、イギリスの3か国で同一商品を同程度の価格で販売するとする。
それを全て日本の東京で作り発送するとすれば、同じだけ売れても輸送料が少なくて済む日本での売上が一番儲かることになる。

どんなにエコ流行でも飛行機や船を外国まで動かすためにはまだまだ原油に依存するしかない状況である。
TPPの詳細はよく知らないが、焦点は農産物や工業品ではないだろうと思う。
インターネットを利用した企業や産業が成長して勝ち組になったように、「物」はあまり重要でないと考えられる。


ついつい!?

「不平等条約」という言葉を調べてみた。
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強国が弱小国に対しその優越的な立場から強制的に結ばせた不平等な内容の条約。<大辞林 第三版>・・・国語辞典+百科事典(三省堂)

条約を結んだ当事国相互の力関係が対等でないため、その一方が不利な内容になっている条約。<デジタル大辞泉>・・・国語辞典(小学館)

強国が弱小国に対して従属に近い地位を強制する条約。おもな内容は、外国人租借地、租界、領事裁判権、外国人の関税管理権、鉄道付属地の設定など。近世初頭以来、トルコが西ヨーロッパ諸国と締結した領事裁判条約、アヘン戦争の結果イギリスが中国に押しつけた南京条約などが有名。<ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典>・・・百科事典(ノーベル賞受賞者を含む数千人の寄稿者と数百人の編集者によって書かれている。文章を書き換えていくWiki精神を持つ。元は英語。発行元は財団など>

条約の性質に基づいてなされた分類の一種で、ある国家が他の国家に、自国民などに対する権力作用を認めない条約。
19世紀から20世紀初頭にかけて、帝国主義列強はアジア諸国に対して、条約港の割譲や在留外国人の治外法権承認、領土の割譲や租借など不平等な内容の条約を押し付けた。
具体的には「関税自主権を行使させない」ことや「治外法権(領事裁判権)などを認めさせる」ことによって、ある国の企業や個人が、通商にかかわる法典の整備されていない国から商品を輸入する際に莫大な税金を要求されたり、軽犯罪によって死刑を被ったりすることを避けることを目的としたものである。
<Wikipedia不平等条約より>
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「条約改正」について調べてみた。
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明治期における、江戸幕府が諸外国と結んだ不平等条約の改正事業。明治27年(1894)治外法権撤廃に成功(第一次条約改正)、同44年関税自主権を回復(第二次条約改正)した。 <デジタル大辞泉>・・・国語辞典(小学館)

江戸末期の1858年に欧米諸国と結んだ通商条約(不平等条約)の改正。治外法権の撤廃、関税自主権の回復などが中心。歴代の外相が努力し、1894年(明治27)外相陸奥宗光が日英通商航海条約において治外法権撤廃に成功(1899年実施)、1911年(明治44)外相小村寿太郎によって関税自主権が回復された。 <大辞林 第三版>・・・国語辞典+百科事典(三省堂)

幕末から明治初年にかけて日本が欧米諸国と締結した不平等な対外条約を改正するにいたるまでの外交交渉。当時、欧米諸国は日本や清国,トルコなどの非キリスト教国に対して司法制度の相違を理由に、領事裁判権を設定した。これは外国人の自治を認める居留地の制度と結合して、その国の主権を侵害した。そのうえ非キリスト教国の側のみが関税協定と最恵国待遇を強要されたので、条約は片務的で不平等な義務を非キリスト教国に課していた。<日本大百科全書 ニッポニカ>・・・百科事典(小学館)

幕末に結ばれた不平等条約の改正事業。1858年の安政五ヵ国条約とその後の諸条約は、治外法権・関税自主権喪失など日本に不利な条約であった。明治政府はまず1871年岩倉使節団を欧米に派遣した。<百科事典マイペディア>・・・百科事典(平凡社)

江戸幕府が幕末に諸外国とむすんだ通商条約の不平等な内容を、明治政府が改正 しようとした外交交渉のこと。<ニューワイド学習百科事典 学研キッズネット>・・・子ども百科事典(学研)
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「条約改正」ではななくて「不平等条約改正」としてある事典
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明治政府による不平等条約の改正事業。嘉永7(1854)年の日米和親条約から明治2(69)年の日墺条約にいたる諸条約は、治外法権、関税自主権の放棄、一方的最恵国待遇などの点で、日本にとって著しく不利な不平等条約であった。 <ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典>
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私の手持ちの国語辞典2冊を調べてみたが、「不平等条約」や「条約改正」では掲載はない。「不平等」「条約」「改正」ならばある。
上に書いたのはインターネットで調べたものである。
「不平等条約」の書き方はまだ分かるのだが、「条約改正」が一点狙い撃ちの言葉だということには少々驚いた。
一点というのは「幕末に結んだ不平等条約を明治政府が改正した」ということである。
条約改正とは、言葉の意味からすれば、条約の不備や不具合、不適当、不適切なところを改めることである。
国語辞典に載せるならばそのように書かれるべきものであろう。
百科事典は事の説明になるので、具体的な事が挙がってきてもよいが、「条約改正」だけで一点狙い撃ちは疑問を持つ。
「日米修好通商条約改正」「安政5カ国条約改正」「江戸幕末締結条約改正」などとなっていれば納得する。
百歩譲って、ブリタニカ国際大百科事典が使用した「不平等条約改正」になるといった感じ。
明治時代以降に結んだ条約が平等だったか不平等だったかなんて精査されていないだろうし、そもそも平等不平等なんて大方雰囲気の問題だし、自分や自分が所属する団体が決めた条約を後に不平等だったなんて言われたくないので偏向しやすい。
視点が世界史的なのか日本史的なのかによっても違う。
改正した条約は他にもあるだろう。
それなのに「条約改正」から導き出される事柄は唯一つという異常さ。


破約攘夷

条約改正より前に使われていた言葉は「破約攘夷」である。
当初の意味は「条約を破棄して開国を止める」ことであった。
NHKの大河ドラマ『花燃ゆ』の第20回「松陰、復活!」は長州藩が公武合体から破約攘夷に転換する場面が描かれているらしい。
初めて告白するが(それほど大したことでもないけれど)私はNHKの大河ドラマを一度も観たことがない。(ええっー?)
『花燃ゆ』を観たことがないというわけではなく、今日まで生きてきた中で一度も観たことがない。(・・・・・?)
NHK大河ドラマ『花燃ゆ』に群馬県民が激怒する理由

朝ドラ?実家にいた時や実家に帰った時に親が観ていたものを単発で見たことは何度かあるが、ストーリーが分かるほど連続でみた作品は一つもない。
朝ドラとして一番印象が強いのは『おしん』だが、見た回数が多かったのか、ドラマ外から与えられた印象が強いだけなのかよく分からない。

長州藩はもともと尊皇攘夷を掲げていた藩である。
条約締結後に公武合体に傾いたこともあったが、再び破約攘夷を全面に出したということである。
もう少し後の時代になると破約攘夷は「不平等条約を平等条約に改める」というような意味になっていく。
そしてこれに「条約改正」という言葉が当てられたのだと思う。
群馬県は生糸の産地であり開国に困る地域ではなかったのだ。

「破約攘夷」も「約束を破棄して攘夷実行」という意味と、「攘夷の約束を破棄する」という2つの意味に取れますね。


改正交渉に応ずる

日米修好通商条約は全14条の本文と附属の貿易章程からなる。
条約の改正は第13条で述べられ、1872年7月4日以降と定められ、改正案を1年前に通達することが必要であるとされている。

関税については第4条にて述べられている。関税率は附属の貿易章程の7則において書かれている。
その最後に「右は神奈川開港の後五年に至り、日本役人より談判次第、入港出港の税則を再議すべし」とある。
神奈川開港から5年経って日本側から税率など見直し交渉の要求があればそれに応じなければならないということが記載されているのだ。
予想される貿易バランスから条約締結時は協調的にアメリカ有利な税率にしてあるが、状況が変われば見直せるということである。それは日本側から要求できると言っているのだ。
平均20%と平均50%の税率だけを比べれば不平等ということになるかもしれないが、輸出力(貿易収支)に大きな差が有るので当面少しハンディキャップを付けた。
それを不平等と取るかどうかである。
条約は関税だけではないが、他の事項にも双方のメリットとデメリットがあったはず。
トータルで見ればこの条約は不平等条約とは言えないと思う。


そろそろ5年になるね。そっかぁもう5年も経つんだな。

神奈川港の開港は1859年7月4日である。
それから5年ということは1864年となる。
アメリカが輸出力を付けてくれば、日本は輸入税を上げることも出来たのである。
要はアメリカが成長期であったということがポイント。
ヨーロッパの列強国はすでにある程度熟成していた。自国は今後それ以上大きな変化が見込めないと考えていた。
日本も歴史が長く熟成国だったのだが、独自色が濃い国だったので、成長が期待できる部分があった。

その日本では1863年と1864年には様々な出来事があった。
関税を見直してもいいとアメリカと約束した年を迎えようかという頃である。
アメリカが成長したならば日本は輸入税を20%からもっと上げることが出来たのだ。
アメリカの成長は結果的に日本の成長を促すことになる。
こうなるとすでに対日貿易が不均衡に陥っていたイギリスなどはますます不利になる。
関税見直し(引き上げ)を何とか妨害しなければならないと思っても不思議はない。

1863年4月 長州藩主・毛利敬親が藩庁を萩から山口に移転させる。
      5月 長州藩が朝廷を利用して久留米藩・真木保臣の幽閉を解くように圧力を掛け実現する。
   京都は治安が著しく悪化する。
      5月 将軍・徳川家茂が朝廷の圧力に屈し攘夷実行を約束する。     
      5月 長州藩が下関の砲台から外国船(アメリカ・フランス・オランダ)へ砲撃。
      8月 (クーデターを計画に基づく)大和行幸の詔が発せられる。
      8月 薩摩藩が会津藩(会津藩主で京都守護職・松平容保)に共闘依頼する。
      8月 天誅組が挙兵。
      8月 薩英戦争(薩摩藩兵は鹿児島を離れず)
      8月 政変クーデター(八月十八日の政変)、薩摩藩が長州藩の追放に成功する。
1864年7月 長州藩による禁門の変
      7月 第一次長州征伐
      8月 下関戦争





追伸:国会中継で質問者の後ろに座っている人がいつもTOKIOの山口さんに似ている人なの。



by yumimi61 | 2015-07-09 15:14