by and by yumimi61.exblog.jp

やがてそこに。


by yumimi61
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー

日本国憲法の秘密-122-

e0126350_1751015.jpg

(私信)大升!Big Measure! Big Scale!! Big Unit!!!
升(sho/masu)
□Sake□


スペクタクル巨編

近年のイラクとシリアの問題の根幹は、白色革命からのイラン革命にある。

白色革命(英: White Revolution、波: انقلاب سفید‎)
イランの第2代国王(シャーハンシャー)モハンマド・レザー・パフラヴィー(パフラヴィー2世)が、1963年にイランの近代化、西欧化を提唱して発動した広範囲にわたる改革の総称である。白色革命は上(つまり王の命令)からの革命を意味するが、その強引な手法は、旧来の伝統を色濃く残していた当時のイラン社会に大混乱をもたらした。

国王モハンマド・レザーは、米国民主党ケネディー政権による継続的なイランに対する改革要求により、上からの近代化による経済成長を計画。アメリカの支援のもと、農地改革を実施して農民の不満解消に努めると共に、工業化、労働者の待遇改善、女性参政権、教育の向上などの西欧化を推進した。また、イラン国内の資本と支持基盤を地方の地主層から中央のブルジョワジーに移し、近代的な産業社会の現出を試みた。

また、国家の西欧化や、イスラームといった宗教よりもアーリア人に起源をもとめる西洋的ナショナリズムを改革の柱とするなど、世俗的な政策を実施する一方、石油歳入にからんだ利益供与や協調組合制度の導入にも尽力、自らの権力を確固たるものにしようとした。

しかし、文盲率の高かった当時のイランはそもそも近代化の基礎構造を欠いていて改革の恩恵は一部の市民がこうむるにとどまった。それでも石油価格の暴騰で政府には金が有り余り、投資ばかりが先行した。貧富の差が増大し革命の影響は上流中産階級と下層階級との対立、特にリベラルなテクノクラートと厳格で保守的なシーア派宗教学者との対立を激化させ、これが後に起こるイラン革命の下地となった。


シーア派の宗教学者であったアーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー(آیت‌الله روح‌الله خمینی)は、君主制からの脱却は見せかけであり、実態君主制や奴隷制が潜んでいることを見抜いており、白色改革を批判した。
ホメイニーも君主制には反対の立場であったが、欧米と組んで白色革命を主導していたのが他の誰でもないイランの国王(2世)であったのだ。
ホメイニーは逮捕され国外追放となり、フランス・パリへと亡命する。
その彼が後にイラン革命の指導者となる。

白色革命の発端は第二次世界大戦前遡る。
イラン民族主義を掲げて英国と対立したレザー・ハーン国王は、第二次大戦がはじまると、ヒトラーと組もうと考えました。これを察知したイギリスは、ソ連と共同でイランを占領してレザー・ハーンを追放、息子のパフレヴィー2世を立てて傀儡(かいらい)にします。ですから、大戦末期にイランの首都でテヘラン会談をやったわけです。

さらにその根は第一次世界大戦前にある。
イランでの利権を狙うイギリスやロシアの経済支配が強まった。
こうした強国に支えられた国王によって専制君主制が取られる。(←現在の日本もこんな感じなのではないでしょうか?)
君主制はいつの時代も人気がないことは前述したが、イランでも民衆がそれに反発をした。
それが民族主義やナショナリズムの高揚に繋がる。
運動が激化したので、1906年に憲法を発布した(イラン立憲革命)。
同じ敵を相手にイギリスとロシアは協商を組む。
そしてロシアがイラン国王に圧力を掛けていき、国王は1908年に憲法を廃止した。
その後、第一次世界大戦勃発。(1914-1918年)
1917年にはロシア革命によりロシアは共産化。それを理由にイギリスとロシアの協商は破棄される。
社会主義・共産主義は資本主義とは対立する主義なので、ロシアは一旦イランから手を引く。代わりに前に出たのがイギリス。

イギリスは共産ロシア(ソ連)の進出の脅威をちらつかせながら、イランと協定を結んでイランを保護することを約束する。
さらにイギリスは、軍人であり若くして将校となったレザー・ハーンを使ってクーデターを企てた。
1921年、レザー・ハーンは兵を率いてテヘランを占領した。
ソ連の共産勢力から国を守ってくれた英雄の誕生と、それに力を貸してくれたイギリス。めでたしめでたし。
と思ったらまだ話は続く。
レザー・ハーンはなんと民族主義者だったというオチで、反イギリスの方針を打ち出し実行していった。
そして1925年にはついに国王にまで上り詰める。
即位後はレザー・シャー・パフラヴィーという名になる。

財政改革(アメリカ人財政顧問招聘)、司法改革、国民銀行の創設、義務兵役制度の導入、鉄道敷設(イラン縦貫鉄道)、国名改称(ペルシアからイランへ)、女性解放、教育制度改正、国際連盟加盟、産業振興など次々と改革に着手し、近代化と西洋化と中央集権体制強化を図った。(思わず日本の明治時代?と言いたくなりますね)
石油の利権はイギリスが握っていた。
つまり白色革命を主導したイラン国王2世就任前からすでに近代化や西洋化は進んでいたのである。

これを踏まえた上で、こちらをお読みください。近現代のイラン・イラク
イランに近代的なビルや高速道路ができたのは、彼(2世)の時代です。けれども、それで潤ったのは米英の企業と王族関係者だけで、貧富の差はどんどん広がっていきました。このような、国王が強引に進める近代化に取り残された貧しい人々を救え!と説いたのが、シーア派の法学者ホメイニでした。

2世は上流階級の子弟が通うスイスの私立寄宿学校へ留学。
後にアメリカのCIA長官となるリチャード・ヘルムスは御学友。
ということでイランはCIAの支援を受けて、イギリスが少し引き、アメリカが前面に出るようになっていく。
[PR]
by yumimi61 | 2015-12-06 15:38