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やがてそこに。


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日本国憲法の秘密-131-

女帝(女天皇)

その昔、朝鮮半島には倭国(大倭国・大和国)の領地があった。
朝鮮半島の南部の任那(任那諸国)と加羅(加羅諸国)と呼ばれる地域である。
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朝鮮半島における倭国の北端である『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目における狗邪韓国(くやかんこく)の後継にあたる金官国を中心とする地域、三韓の弁辰、弁韓および辰韓の一部、馬韓の一部(現在の全羅南道を含む地域)を含むと看做すのが通説である。

後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生式土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる。

第二次世界大戦後、次第に政治的な理由により任那問題を避けることが多くなっていたが、倭が新羅や百済を臣民とした等と書かれている、広開土王碑日本軍改竄説が否定され、史料価値が明確になったこと、またいくつもの日本固有の前方後円墳が朝鮮半島南部で発見され始めたことなどから、近年ヤマト朝廷そのもの或いは深い関連を持つ集団による統治権、軍事統括権および徴税権の存在について認める様々な見解が発表されている。


任那日本府

現代において表記するときは分かりやすいように倭国(大倭国・大和国)を日本と置き換えてしまうことが多いが、大化の改新までは日本は倭国(大倭国・大和国)であり日本とは呼んでいなかった。
大化の改新は日本の大きな転換点であったのだが、大化の改新は645年のクーデター「乙巳の変」で蘇我入鹿が殺されて果たされたものである。
その他にも蘇我一族は次々と不審な死を遂げる。(蘇我氏滅亡計画があったに違いないという話はこちらに
暗殺は皇極天皇(女性の天皇、当時は女帝というほうが一般的)が臨席して三韓朝貢の儀式が執り行われている最中に行われた。(こちらにはクーデターの際に宮廷にいたのは百済からの使者だったと考えられると書いた)

昨日の記事に書いた2つの疑問の2つ目、「なぜ朝鮮半島はほとんど中国圏支配下に入らずに済んだのかということ」、この答えは「倭国(日本)が関係していたから」ということになると思う。
実際には朝鮮半島の半分くらいまでは中国圏が進出してきた時代もあるが、その時にも南朝鮮は占領されなかった。(モンゴル帝国の元朝は除く)
それは神功皇后の「三韓征伐」の影響が後世にも残っていたからである。
私は「三韓征伐」ではなく「三韓援護」だったと考えている。(三韓と一緒に征伐したという意味の三韓征伐ならばそのままでよいが)
北から南下してきた高句麗を追い払ったのが倭国本土から朝鮮半島に援護に行った神功皇后だった。
夫亡き後に帝を引き継ぎ、明治時代までは15代天皇(女帝)に数えられていたが、明治大正時代に行われた歴代天皇選定作業によって外された。
三韓征伐も夫が亡くなった後のことだが、「神功皇后の三韓征伐」ということになっている。
三韓征伐により、「女があの高句麗を追い払うとは・・・倭国ってどんだけ~。帝が出てきたらいったいどうなるんだ」と北側の国を震え上がらせ、南朝鮮の国々には感謝された。
また当時、中国王朝と倭国の関係が良好だったということも影響している。
そのため倭国が力を持っていた時代は朝鮮半島の南側は安泰だった。

大化の改新に繋がるクーデターの時の天皇が女だったということも実は大きな意味があったということだ。


統一国家「日本」

倭国と日本、この混在が大きな混乱を招いている。
倭国の時代は連合制や連邦制だったのだと思う。

下記地図の色分けは、現在の「北海道・東北・関東・中部・近畿・中国・四国・九州」という区分。
黒い線で分けたのは、倭国時代の区分(私の推測)。
黒い線で囲ったところが1つの国(領邦)であり、中心的国家は奈良から東北南部にかけての倭国であった。
そして、それぞれの国(領邦)の集合体も、倭国(大倭国・大和国・倭国連邦・倭国連合など)と呼ばれていた(呼んでいた)。
つまり「倭国」だけでは当時の実態や実状、情勢が理解できないのである。
大化の改新後は中央集権制となった。いわゆる統一国家を形成した。
倭国などと呼ばれた1つ1つの国家(領邦)は廃止され、集合体の名称・倭国(大倭国・大和国・倭国連邦・倭国連合など)は日本という名に置き換えられていった。
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前述した朝鮮半島の任那(任那諸国)と加羅(加羅諸国)は倭国集合体を構成する国の1つ、もしくは倭国集合体の支配下にあった国だったのだろう。
倭国集合体の中心国家は倭国なので、対外的な問題が生じた時に調整等に出ていくのは「奈良から東北南部に位置する倭国」の人であったと思う。
神功皇后は倭国の人であったのだ。

倭国集合体から見れば朝鮮半島の南側は(海を挟むものの)隣接している。
しかし、「倭国の人物ばかり出しゃばっている」と思う人が、任那と加羅は(単体としての)倭国が管理していると見做せば、(単体としての)倭国と朝鮮半島南側は飛び地となる。


熊襲征伐

三韓征伐の前、まだ神功皇后の夫・仲哀天皇がまだ健在だった頃(仲哀天皇は急逝した)、夫妻は熊襲征伐に九州に出向いていた。

熊襲(くまそ)とは、日本の記紀神話に登場する、九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々で、また地域名を意味するとされる語である。古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。

肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国贈於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とされる。また5世紀ごろまでに大和朝廷へ臣従し、「隼人」として仕えたという説もある(津田左右吉ら)。


熊襲の「熊」という漢字と九州ということで、現代人ならば熊本県を思い浮かべると思う。
倭国に抵抗した一派は現代の熊本県辺りにいたんだなぁと思わせる。
しかし熊本という名称は古代には使われていない。

熊本県の領域はかつての肥後国のそれとほぼ重なるが、肥後国は古代においては、「火の国」または「肥の国」と呼ばれていた。これは八代郡ひ郷(肥伊郷)=現在の八代郡氷川流域に古代の多氏の流れを汲む「火君(ひのきみ)」と呼ばれる有力豪族がおり、地域の中心であったことに由来するとされている。肥の国はやがて、現在の佐賀県・長崎県の地域をも含むようになるが、7世紀終わり頃に肥前国と肥後国に分けられた。
肥後国は生産力が高い豊かな土地で、地理的にも重要と判断されたため、律令体制下では大国の一つとされた。

熊本という地名は、古くは隈本と書いた。隈本の由来には諸説あるが、菊池則隆に因むとする伝承がある。「隈本」の名が文献に見られるのは南北朝時代以降で、これを加藤清正が「隈」の字が畏(おそれる、かしこまる)の字を含むため武将の居城の名に相応しくないとして「熊」の字を充てたと言われている。なお「来熊(らいゆう)」「訪熊(ほうゆう)」「帰熊(きゆう)」と1文字で略するときは「熊(「ゆう」と音読み)」を使用する。


熊襲征伐も三韓征伐と同じで、熊襲と一緒に征伐したという意味なのか、熊襲を征伐したという意味なのか、この漢字四文字からでは分からない。
ただ倭国に抵抗していた一派は熊本の人ではないだろうと思う。
私は昨年末に古事記を訳していたが、古事記の中にヒントがあったのだ
熊襲Wikipediaに下記のような記述があったが、酒を飲ませて襲うという手法は古事記の中ではスサノオが使っていた。
イサオ・タケル制
景行朝の記述として、熊襲は頭を渠師者(イサオ)と呼び、2人おり、その下に多くの小集団の頭たる梟師(タケル)がいたと記している。大和王権は武力では押さえられないので、イサオの娘に多くの贈り物をして手なずけ、その娘に、父に酒を飲ませて酔わせ、弓の弦を切り、殺害した(ヤマトタケルが弟彦(オトヒコ)という武人を美濃国に求めた神話においても、敵を酔わせて殺害する戦法を取っている)。



歴史は繰り返す?

この頃、九州を含む国は情勢が不安定だったのだろう。
倭国に抵抗していた勢力がいたということだが、ベースには内紛のような状態があったと思われる。
そこで倭国に救援を求め、仲哀天皇と神功皇后が出向いたという流れだったと考えられる。
倭国は肥の国サイドに付いた。そちらの言い分が正しいと判断したからだ。

では敵対していた地域はどこか?
それはおそらく現在の中国地方の西側の地域。もっと絞り込めば山口県。
山口県と言えば、安倍首相の出身地。
前に明治維新で長州藩田布施一派に国家を乗っ取られ、近代日本は田布施システムに支配されているという説を紹介したが、田布施とは田布施町であり、山口県熊毛郡にある。
明治時代に付けられた名称のようだが、熊に毛・・。
明治12年(1879年)1月6日、郡区町村編制法の山口県での施行により行政区画としての熊毛郡が発足。




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by yumimi61 | 2015-12-17 12:39