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日本国憲法の秘密-134-

高句麗&百済

高句麗というのは、朝鮮半島北側(現在の北朝鮮)から中国東北部(かつての満洲)近辺を領土にしていた国である。
従って隣接する、モンゴルやテュルク系帝国、中国北朝、南朝鮮と対立し勢力争いを繰り広げていた。
この中で高句麗が一番警戒していたのが中国王朝であったため、テュルク系帝国の突厥や南朝鮮の百済と組んで、中国北朝(隋や唐)に対抗した。
南朝鮮の倭国領であった任那は500年代終わりに新羅に吸収された。
任那滅亡後は新羅が倭国に対して「任那の調(税・貢)」を納めていた事実が史料に記されているため、敵対して滅亡させたというよりも吸収したと言ったほうが適切だろうと考える。
前にも書いたが、600年代は、「高句麗・百済」vs「唐・新羅」という構図での戦いとなる。
南朝鮮の倭国領が新羅に吸収された後、新羅がその調を倭国に納めていること、また倭国は中国王朝とも良好な関係だったことを思えば、倭国は唐・新羅寄りだったはずだ。

ところが663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江で行われた「白村江の戦い」では、「倭国・百済遺民」と「唐・新羅」という対立構造になっている。
遺民とあるのは、百済は新羅を支援した唐によって660年に滅ぼされたから。領地は新羅に組み入れられた。
大倭国(日本)が急に百済寄りになったかのようだが、ここには日本のお家騒動が関係している。
もっとはっきり言えば、蘇我氏族を暗殺して倭国朝を乗っ取った一族の分裂である。
血縁か、それとも正義か。
親(祖先)の行いを黙認するのか、しないのか。
天智天皇と天武天皇はこのあたりの揺れがあり、良心の呵責を感じていたように思う。

667年、天智天皇の子である大友皇子(弘文天皇の称号を追号)と天智天皇の弟である・大海人皇子(後の天武天皇)が「壬申の乱」(内乱)を繰り広げた。
勝利した天武天皇は律令国家建設を加速し、その過程で北朝唐に対し「南朝系の倭国・倭とは別国である」ということを示したという。
百済に巻き込まれる形で倭国が侵攻されることを危惧してのことだろう。
防衛的な意味合いがあるにしても天武天皇は「新羅・唐」派であったということになる。
そうとなれば、その天武天皇が戦った大友皇子(弘文天皇)は「百済・高句麗」派だったのであろう。
それはたぶん継体天皇からの流れだろうと思う。

これらを考え合わせると、クーデターの際に宮廷にいたのは百済からの使者だったと考えられる。
また663年の「白村江の戦い」に倭国から兵を送った(または兵を率いた)のは大友皇子(弘文天皇の称号を追号)だったのではないだろうか。
そのため天智天皇も非常に難しい立場に置かれていたと想像できる。
現在、天智天皇は第38代天皇ということになっている。
朝鮮半島の軍事境界線は北緯38度線上にある。


要するに蘇我氏族を暗殺して天下を取り、大化の改新を起こした一派は、「高句麗・百済」派なのである。
天智天皇や天武天皇はその一派と血縁関係にある者だが、「高句麗・百済」と組んで突き進むことには疑問を感じていたということになる。
しかし天智天皇の子である大友皇子は誰に唆されたのか、「高句麗・百済」派に付いたのである。
そして「唐・新羅」派の天武天皇と日本国内で戦うも敗北。
「白村江の戦い」は大友皇子が仲間や百済人を率いて「唐・新羅」と戦ったものだろう。
それが「大倭国」「日本」(旧:倭国)」の意向ではなくとも、天皇の子が出て行ったとなればもやはり「倭国」「大倭国」などと言われてしまうわけである。

歴代天皇選出作業は明治時代と大正時代に行われたことは前にも書いたが、大友皇子は明治時代に新たに天皇に選出された人物である。(弘文天皇の称号を追号された)

明治3年(1870年)に諡号を贈られ天皇として認められたが即位したかどうか定かではなく大友皇子と表記されることも多い。

それはつまり、倒幕派並びに明治天皇や明治政府は、「高句麗・百済」派ということである。

660年百済滅亡、663年「白村江の戦い」にて大友皇子と百済遺民が百済復興をかけて戦うも敗北。
668年には高句麗も唐に滅ぼされる。
こうして朝鮮半島は統一新羅時代を迎える。
新羅の北側は高句麗ではなく唐の領地となった。
「唐・新羅」の大勝利であった。


統一国家は難しい(はずなのに・・・)

対立する国々を1つの国として統一するということは、違う国家の領土や国民がある日突然加わるわけである。
それは統一国家の中に恨み辛みや被害者意識、理不尽な差別や不平等を内包することであり、統一後の舵取りは決して楽なものではない。
では違う国の国民を全て追い出せば解決するかと言えば、それもなかなか出来ないだろう。
そんな国民はいらないと周辺の国家に文句を言われたり、外から復讐されるリスクも高まる。
だから内包するしかないのだが、壊れる時は大抵中からなのだ。
統一新羅も反乱や内紛が相次ぎ国内情勢が混乱しているところに天災が度重なって国力を落としていった。

745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していた。755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった。このときに、日本の九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた。しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇は大宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した。翌年には、帰国を希望しなかった新羅人13人を武蔵国に送還した。また、飢饉や疫病によって、後述する新羅の賊が発生したともされる。

上記は統一新羅時代の説明なので全て新羅や新羅人という名称が使われているが、実際には100年ほど前までは百済や高句麗だった場所や百済人や高句麗人を含んでいるのである。
さらにその中には倭人も含まれているはずである。

779年、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した。この調は、日本が新羅に要求し続けた念願の品であった。また、新羅の混乱により多数の難民が日本列島へ亡命し、大量に帰化を申請する事態が発生するが、日本側は「蛮国」の人民が天皇の徳を慕って帰化を願い出た事を嘉し、帰化を許可した。

北のほうからやってきて、ヨーロッパ大陸の北西部沿岸(現在のドイツ辺り)に住み着いたゲルマン人やノルマン人を蛮族と呼んでいる。
ゲルマン人やノルマン人の民族大移動がローマ帝国西側の滅亡に繋がった。
ゲルマン人がヨーロッパ大陸で建国し、ローマ教皇に認められたことでその地位を確かにした。
ローマ教皇はゲルマン人を支配者としてローマ文化を継承させ、キリスト教を基礎とする西ヨーロッパ世界を確立したのだった。
フランク王国、カール大帝、後のドイツ王国(神聖ローマ帝国)とフランス王国。
蛮族とローマ教皇の関係は、蛮国の人民と天皇にも当てはまるのだろうか?




by yumimi61 | 2015-12-20 15:33