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日本国憲法の秘密-135-

便宜上高句麗

676年に統一を果たした新羅であったが、800年代終わりには滅亡したはずの百済や高句麗が再興して統一は崩れ、後三国時代と呼ばれる時代になる。
新羅には全く勢いがなく、後百済と後高句麗との戦いとなる。
935年に新羅は後高句麗に帰順し滅亡、翌936年に後百済が戦いに敗れて滅亡、後高句麗の統一時代に変わる。

日本の歴史書では918年に後高句麗は政変によって君主が代わり、高麗と名を変えた(高麗を建国した)と説明している。
高麗は936年から1392年まで続いた朝鮮の統一王朝。
英語で朝鮮を表すKorea(コリア)は「高麗」に由来している。
つまり「朝鮮(Korea)」と言えば「高麗」なのである。

朝鮮国家が自称していた「高麗」を520年に中国王朝が正式名称として認めた。
現代人が「高句麗」と読み書きしている国も本来「高麗」なのである。
後世(現在)、「高麗」の正名を廃してもっぱら「高句麗」の旧称を用いるのは『三国史記』の誤用に慣例的に従っているまでのことである。 
なお、日本語での「高句麗」の読みについては現在では高麗との区別による理由から「こうくり」と読む慣習が一般化しているが、本来、百済・新羅の「くだら」・「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。



狛犬のルーツ?

高句麗は別名を貊(はく)と言う。小河に住んでいるために小水貊と呼ばれる別種が居る。良い弓を産出する。いわゆる「貊弓」である。3世紀における「高句麗・夫余」の2国と沃沮・東濊の2部族は、すべて前漢代の「濊貊」の後裔である。日本では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いても「こま」と読む。


「濊」は古代に満洲から朝鮮にかけていた民族の1つ。
濊は「穢」とも書き(草カンムリをつけることもある)「わい」とも「かい」とも読む(「かい」の方がより正しいとの説もある)。「穢(けが)れる、穢(きた)ない」などの意味をもつ文字で書かれたのは、異民族に対する中華王朝の蔑称ともみえるが、音は何らかの自称名を写したものであろう。一説に、前二世紀の中国東北部の「濊」は(かい)、後三世紀の韓国江原道の「濊」は(わい)と読む。
前二世紀の中国東北部にいた「濊」は、後三世紀の夫餘・高句麗・沃沮・穢の四種族の前身であり、三世紀の韓国江原道にいた濊は前漢代の中国東北部にいた濊の後裔と思われる。


狛という漢字を見れば狛犬を思い出す。
飛鳥時代に日本に伝わった当初は獅子で、左右の姿に差異はなかったが、平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、狭義には後者のみを「狛犬」と称すが、現在では両者を併せて狛犬と呼ぶのが一般化している。

日本には、中国の唐の時代の獅子が、仏教とともに朝鮮半島を経て伝わったとされている。明治神宮では、伝来の時期は示していないが、日本人が異様な形の生き物を犬と勘違いし、朝鮮から伝来したため、高麗犬と呼ばれるようになったとの説を紹介している。


古代オリエントのライオンを起源として中国やその他の国から伝わったのが獅子。
沖縄のシーサーは獅子であるし、本州でも獅子像が伝わってきた飛鳥時代や奈良時代には左右両方とも獅子であったそうだ。
それが平安時代には獅子狛犬になったらしい。(獅子は無角で、狛犬は有角)(今ではどちらもまとめて狛犬と呼んでいる)
平安時代とは桓武天皇が都を平安京に移した794年から源頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年までの約400年間。
桓武天皇とは、現在の天皇陛下が話された「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」という言葉の中に出てきた天皇である。
百済の血を引くという桓武天皇が即位した時期と狛犬の出現がほぼ一致する。
また狛犬の角は、朝鮮半島の倭国領であった加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に由来するのではないかと推測されている。
なんでも王子には角が生えていたとか。
そこで王子が来着した場所が「角鹿(つぬが)」という名称になり、後に敦賀に転訛した。
福井県敦賀は原発のある所。

私は「こま」に興味を持っていた時期があり、こんな記事も書いている

明治期以降の天皇家と関係の深い伊勢神宮と明治神宮には狛犬がいない。靖国神社にはいる。
(伊勢神宮には中に居るという説もあるが、いずれにせよ一般人が見ることはない)
伊勢神宮も明治神宮も靖国神社も拝殿や鳥居に注連縄を張っていないようである。
(明治神宮には外拝殿の横のほうにある夫婦楠に注連縄を渡してある)
出雲大社は注連縄の巻き方が反対である。
他と違うことを際立たせたかったのだろうか、何やら少し怪しい気がする。


実は同じ!?

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赤い線で囲ったのが高麗系である。
見ての通り、何だかんだ言って、ほとんど高麗系なのである。
例外だったのが統一新羅時代と元朝時代。
ただ高麗の人が滅びたわけではなく、統一新羅の中に、元朝(モンゴル帝国)の中に、高麗の人々はいた。
女真(女真族)とは、12世紀に金を、17世紀には満洲族としての後金を経て清を建国した民族である。
女真族と高麗の関係性ははっきりとは分からない。
仲間であり、戦いの相手でもあった。系統は同じだが派閥が違うといったところだろうか。

元朝の後の高麗は高麗軍を率いた李成桂らが奪還したもの。
1388年にクーデターにて政権を掌握し、とりあえずの王を立て体制を固めた後、自ら国王に就任した。それが統一王朝「李氏朝鮮」(1392-1897年)である。
李成桂は女真族であると言われており、元朝(モンゴル帝国)と高麗の武官であった。軍人出身。
クーデターの実行者であり初代国王。国王に就いたのは1392年8月6日だった。

(李成桂の)出自については李一族の出身地の咸鏡道は15世紀までは女真族の領土だったこと、李一族が頭角を現したのは配下の女真族の助けが大きかったことなどから、李一族を女真族とする学説(女真族説参照)や李一族を高麗系モンゴル軍閥とする学説がある(高麗系モンゴル軍閥説参照)。なお、モンゴル帝国は有能であれば、様々な民族を受け入れていたため、女真族である事と、モンゴル軍閥である事は矛盾しない。

この頃、女真族(満州族)の台頭著しく、1636年には満洲において清が建国された。
1644-1912年には、中国とモンゴルを支配する統一王朝となる。国王は満洲族の愛新覚羅。
少し前に朝鮮半島までを支配下に置いたのは元朝(モンゴル帝国)のみなので元朝(モンゴル)が最強と書いたが、女真族の国であった李氏朝鮮と、同じく女真族の国であった清を、通じ合っていて「同じ」と見做せば元朝(モンゴル)に並ぶ。
現に李氏朝鮮は1637年より清に服属している。



ハングル語は李氏朝鮮時代に完成したもので、広く使われだしたのは李氏朝鮮の末期だというから非常に新しい言葉である。
中国の言葉と朝鮮の言語が違うため、日本人はそれを同じもの、あるいはルーツが同じといったふうには考えにくい。
一方で言語による民族分けも得意ではない。漢字を使用する日本と中国さえ、かけ離れた国だと思っている。
世界には公用語が幾つも存在する国もあるし、新しい言葉を使っている国もあり、言語で繋がる民族もある。一様ではないのだ。



by yumimi61 | 2015-12-21 16:13