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やがてそこに。


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日本国憲法の秘密-136-

宗教を超えられなかったモンゴル帝国?

日本がアジアを侵略したということを殊更否定する人がいる。
侵略ではなく、アジア各国を欧米諸国から解放し独立させるために戦ったのだと主張する。
だから実際のところ日本軍はアジア諸国の人々から歓迎されていたのだと言う。
しかしながら前述したように倒幕派の吉田松陰や明治政府は世界征服の野望を持っていた。

アジアの国々を解放したという話は、明治時代や昭和時代のことを指しているのではないと思う。
それは史上最大規模の帝国となったモンゴル帝国を倒した高麗への、引いては女真族(満州族)への賛美だろうと思う。
出来事としては14世紀のことである。
それが21世紀の日本の中でまだ息衝いている。
日本と女真族(満州族)の関わりは深いということだ。
朝鮮や中国を仲間と考える人にとっては「侵略」という言葉は適さなくなる。同士であり同志である。

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左)内モンゴル地区の契丹という民族が建国した「遼」という国。(1000年頃)
契丹はモンゴルの一部族だったのではないかと考えられる。
右)女真族が建国した「金」という国。(1200年頃)
国姓(君主の姓)は完顔である。
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遼の繁栄した時代は中国は宋であった。
当時「遼」の中で暮らしていた女真族が次第に台頭してきて、遼と対立するようになり、1115年に金朝を樹立する。
そして宋と組んで、遼に対抗し、遼を滅ぼす(但しモンゴル地域は制覇できず)。
その後も金の勢いは留まらず、西夏(チベット分派のチベット系民族の国、現在は寧夏回族自治区となっておりイスラム教徒が多く住む)を服属させ、宋に攻め入り領地を広げていく。
宋の支配者らは南に移動。
その後はモンゴルが息を吹き返し、1200年代からモンゴル帝国を形成していく。
このモンゴル帝国に金も宋も高麗も滅ぼされた。
モンゴル帝国は、東アジア、中央アジア、西アジア、南アジア、東欧を制覇した。
但し、日本(東アジア)、イランとイラクの一部とトルコの一部以外(西アジア)、インドとパキスタン(南アジア)、東南アジアは制覇されなかった。
上記区分は国連区分を採用した(国連ではインドからイランを南アジアと区分する)。また国名と領地は現在のものに当てはめた。
欧米での西アジアはアフガニスタンとエジプトを除いた中東と同義のことがある。国名で言えば、アラブ首長国連邦、イエメン、イスラエル、イラク、イラン、オマーン、カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、トルコ、バーレーン、ヨルダン、レバノン、パレスチナ自治政府。

陸続きにあって制覇されなかったのは宗教の強い国だったという仮説はどうだろうか?


イスラム教と変異した仏教

仏教の開祖である釈迦(ブッタ)はインドの人。
しかし日本人である私達は仏教と言えば中国の国教という印象が強く、インドには仏教の国という印象があまりない。
それは日本の仏教は中国から伝わったと習ったからかもしれないし、地理的に中国の方が近く行き来が多いということもあるのかもしれない。
インドは仏教ではなくヒンズー教であると言う人もいるだろう。

仏教とヒンズー教の元祖はバラモン教。
バラモン教の信者は支配層や富裕層であり、それを民衆に拡げるために、インド土着の神様は仏教に帰依したと言って布教して信者を獲得していった。
仏教とヒンズーは教派の違いみたいなもので系統は同じである。土着の神様を取り入れたことから多神教とも言われる。
大きな違いはヒンズー教はカーストを認めるが仏教は認めない、ヒンズー教は輪廻転生を謳うが仏教は謳わないという立場を取ったことである。
カーストとはインドの職能を基にした階級制度。世襲であり変化することはない。
但し不平不満を言わずより良く生きれば来世では上の階級で蘇るかもしれないと説いた。
釈迦(ブッタ)は永遠も輪廻もないと悟った人。
輪廻を脱して(解脱して)真理を見出し、不平不満を言わず(誰かの責任にせず)、執着せず、夢を見ず、苦痛からも逃れ、成仏(死んだわけではなく究極の悟りということ)したのである。
釈迦の気持ちが伝わったかどうかは分からないが、仏教は下層の人達を拾っていく教派となった。
ピラミッドは下のほうが大きい(数が多い)。ということでインドの国教は仏教となった。

それに変化を与えたのはイスラム教だった。
モンゴル帝国が快進撃を始める前の1100年代に、アフガニスタンからのイスラム教政権がインドに侵攻し弾圧を加えて、1200年代までにインドの仏教徒は壊滅状態となった。

インドでのイスラーム教徒人口は、2014年の時点で1億8000万人を超えているとされる。イスラーム教徒の人口規模はインドネシアの約2億人、パキスタンの1億7000万人についで世界第3位であり、イスラーム教はインド国内でヒンドゥー教に次ぐ勢力を持っている(インド、パキスタン、バングラデシュのイスラーム教徒の人口数は合計で4億8000万人を超えており、南アジアは世界で最もイスラーム教徒が多い地域となっている)。

イスラム教徒の数が多いのは、西アジアでも中東でもない。南アジアなのだ。
ただなにせ人口が多い。
(イスラム教徒が)億単位の人口といえど、約13億人を数えるインドにおいては、人口比でいえばインドのムスリムは基本的にヒンドゥー教徒よりも少数派である。ヒンドゥー教徒がインド人の約80%を占めるのに対し、イスラム教徒は約13%ほどである。イスラムが多数派となっているインドの州はジャンムー・カシミール州のみである。

インドの仏教徒はイスラム教またはヒンズー教に改宗するか逃亡するしかなかった。
キリスト教やイスラム教に弾圧されたマニ教は壊滅した(中国で生き残っているという説もある)が、仏教は他のアジア地域で信仰が継続された。
しかしながらイスラム教徒との対立の過程において、仏教もヒンズー教も新参者に対する古参者という括りで一旦一緒くたになった。
この時に両者の教えが混じり合い変化。釈迦(ブッタ)の悟りの境地は上手く伝わらず、仏教も輪廻転生を信じるなどヒンズー教寄りの宗教となった。
アジアの仏教も輪廻転生を支持している宗教である。チベット仏教などは転生者を探してくるほど輪廻転生に傾倒している。
釈迦(ブッタ)の仏教を駆逐するという目的を果たしたせいか、インドではヒンズー教が再興した。
1800年代、イギリス領だったインドでは、ヒンズー教徒地域をインド、イスラム教徒地域をパキスタンとして、分離独立させた。


従軍慰安婦のルーツは金朝にあり!?

遼を倒すために一度は手を組んだ宋と金であったが、遼を倒す際の力関係では金のほうが上。
そのため宋内には不満や反発があり、金との関係は上手くいかなかった。
宋の皇帝は国内の反発派を抑えられなかった。
そしてついに宋と金の軍が対決。これを靖康の変という。宋は金に敗北した。

金は徽宗・欽宗以下の皇族と官僚など、数千人を捕らえて満州へ連行した(この出来事を「二帝北行」という)。彼らはそこで悲惨な自活の虜囚生活を送り、異郷の地に骨を埋めることとなったのである。
また、同じくこの事件で宋室の皇女たち(4歳から28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族・将兵らの妻妾にされるか、官設妓楼「洗衣院」に入れられて娼婦となった。


徽宗・欽宗は宋の8代・9代皇帝。父と息子(長兄)である。この2人は満洲に連行されたが、弟が南京に逃げて即位した。以降を南宋と呼んでいる。

靖康元年(1126年)12月初10日、宋官僚の呉幵と莫儔は、親王、宰執、宗室の娘各二人、民間や楽団の女性各500人と宝物を献上し、宗室の女性は金の二首領粘没喝(完顏粘罕)と完顏斡離不(完顔宗望)にささげられた。その代わり、黄河以南の地を宋側に保全してもよいとの許しを得ることができた。元北宋の皇太后、皇后、妃嬪、皇女(公主)、宗女(宗姫)、女官、宮女、官吏や平民の女性は金に連行され、洗衣院という官設の妓院に入れられ、性的奉仕を強要された。幼い皇女も洗衣院で育てられ、成長後に洗衣院の娼婦となった。

南宋の初代皇帝高宗の母の韋氏、妻の刑皇后や娘の趙仏佑、趙神佑も含まれていた。金の捕虜となって北方へ拉致された女性の数は宋の妃嬪83名、王妃24名、皇女22名、嬪御98名、王妾28名、宗姫52名、御女78名、宗室に近い姫達195名、族姫1241名、女官479名、宫女479名、采女604名、宗婦2091名、族婦2007名、歌女1314名、貴戚、官民の女性達3319名の計11635名であった。宋王宮の女性捕虜は、金額を付けられて戦争報酬・賞与とされ、金の将兵に分け与えられた。

『呻吟語』には「十に九人、娼となりて、名節を失い、身もまた亡ぶ」「辛うじて妓楼を出ても、即ち鬼籍に上る」。また、ある鍛冶屋によれば「八金を以って娼婦を買う、すると実に親王女孫(皇族の孫娘)、相国姪婦(宰相の甥の嫁)、進士夫人(科挙合格者の妻)なり」ともある。
等級に関係なく女性達はみな女真人から陵辱を受けたといわれ、『南征録匯』には「開封府の港には人の往来、絶え間なく続き、婦女より嬪御まで妓楼を上下し、その数五千を超え、皆盛装を選び出ず。選んで収むること処女3000、入城を淘汰し、国相(完顔宗翰)より取ること数10人、諸将より謀克までは賜ること数人、謀克以下は賜ること一、二人。韋后、喬貴妃ら北宋後宮は貶められ、金国軍の妓院に入れられる」とある。
金の兵から彼女らは陵辱を受け続け、「掠められた者、日に涙を以って顔を洗い、虜酋(金皇帝・皇族・将帥など)共、皆婦女を抱いて、酒肉を欲しいままにし、管弦を弄し、喜楽極まりなし」。汚辱に耐えかねた欽宗の皇后朱氏は入水して自害した。


Wikipedia公娼にて、各国歴史上の公娼が説明されているが、金をはじめ高麗・李氏朝鮮・朝鮮・日本に多くのスペースを割いている。


だからホテル?(だからひとり?)

貞明皇后(節子*さだこ)はしきりに世継ぎに介入したとされる。秩父宮を溺愛し、裕仁より秩父宮を天皇にしようと暗躍した。貞明皇后は長州が嫌いだったので、薩摩系の良子を昭和天皇の嫁にしようとして「宮中某重大事件」を起こしている。
 貞明皇后は五摂家のひとつ九条家から嫁したとされるがウソで、武蔵野のある大農家の娘だったという説と、彼女の本名は朱貞明だという説がある。中国か朝鮮であろう。朱貞明は、明治政府が徳川幕府から接収した皇居(千代田城)を、高級遊郭にしたのだが、そこに召し出された女性だという。千代田城は「千代田遊郭」と呼ばれ、伊藤博文や大室寅之祐らが、維新で職を失った旗本の娘から美女を選んで囲ったもので、天皇と重臣の遊び場だった。朱貞明が長州の侍に騙されたかして千代田遊郭に入れられ、後に大正天皇の嫁にさせられたとするなら、長州嫌いになったわけもわかる。
 貞明皇后は秩父宮の妃を迎えるにあたっては、わざわざ朝敵とされた会津藩松平家から勢津子を選んで、長州への面当てをやった。(ちなみに勢津子のかかりつけの美容師が吉行あぐりである)この会津から皇室への婚姻で、会津の人は喜んだというが…。 
山口県田布施町の怪 ~日本国家の真相~ より>




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by yumimi61 | 2015-12-22 12:57