by and by yumimi61.exblog.jp

やがてそこに。


by yumimi61
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー

日本国憲法の秘密-137-

聖地

現在の中国(東北部)と北朝鮮の境界線付近は2000m級の山々が連なる山岳地帯である。
中国東北部はかつての満洲国なので、満洲と朝鮮半島を日本が占領していた時代には日本の支配下にあったと言える。
その中でもちょうど国境に位置する白頭山(長白山)は女真族の聖地とされ、清の時代には皇室を構成する満洲族の聖地としており他民族の立ち入りが制限されていた。
現在でも朝鮮民族のルーツがそこにあるということで、領有を巡る争いがある地である。
白頭山は2744mの火山だということだ。

朝鮮王朝末期の19世紀終わりから20世紀にかけて、白頭山を朝鮮人のナショナリズムの象徴とする運動が生まれ、それ以降、大韓民国や北朝鮮双方の国歌や朝鮮民族の代表民謡であるアリランでも歌われるようになった。過激な韓国人民族主義者が白頭山を自国領と主張するパフォーマンスが行うことがあり、中国を警戒させている。

また抗日ゲリラの聖地でもある。

第二次世界大戦前は、満州国との境界であったことから、白頭山山麓の針葉樹の密林は反満抗日ゲリラの拠点ともなり、しばしば日本軍によるゲリラ掃討戦が繰り広げられた。
金日成は、自分が白頭山を根拠とするゲリラ(パルチザン)の指導者であり、小白水の谷にある白頭山密営で金正日が生まれた、と自称しており、現地では「生家」とともにそのような案内が行われているが、証言などから「金正日ロシア(ソ連)極東生まれ説」が有力となっている。


満洲の抗日ゲリラは中国共産党に吸収された。
前に中国は「中国共産党」と「ロシア革命を起こした過激派ボルシェビキ(後ソ連共産党)をモデルにした国民党」が内戦を繰り広げていたと書いたが、北朝鮮共産党(現在は朝鮮労働党と言う)は中国共産党やソ連共産党の仲間みたいなものである。

1935年、中国共産党中央は、コミンテルンの人民戦線統一戦略に基づき、東北人民革命軍を、あらゆる反日抗満武装団との合作をめざし再編する方針を打ち出した。したがって、共産主義には属さない武装団体も、抗日の一点で一致すれば、共闘し、吸収することをめざすこととなった。


セオリー

以前も書いたように思うが、日露戦争の日本勝利がアラブ社会に与えた影響は大きかった。
それにはおそらくモンゴル帝国の崩壊が重なっている。
極東の国(女真族)が世界規模の帝国を倒したという伝説が生き生きと蘇り、人々の気持ちを高揚させる。
革命のベースにはあるのは、小が大を、弱が強を、低が高を、少が多を、倒す爽快感なのだと思う。
「やられたらやり返す。倍返しだ!」などと言う決め台詞を吐く『半沢直樹』が支持されるのはまさにそうした気持ちからだろう。
ラグビー日本代表が強敵南アフリカに歴史的勝利を挙げてお祭り騒ぎとなるのも同じようなもの。
つまりそれは特別な革命家だけが持つ心情ではなく、誰の心の中にも少なからず存在すると言える。
ロシア帝国に戦争で勝利したのは日本だったが、ロシア帝国を滅ぼしたのは過激派ボルシェビキ(後ソ連共産党)であった。
日本が支持されるならば、過激派ボルシェビキ(後ソ連共産党)が支持を集めるのも当然のことなのだ。

ただひとつ一筋縄にいかないのが、悪と善(正義)という組み合わせである。
「小が大を」「弱が強を」「低が高を」「少が多を」という例に当てはめる場合、「悪が善(正義)を倒す」「善(正義)が悪を倒す」どちらになるのだろうか?
小さく・弱く・低く・少ないのは、悪のほうか善(正義)のほうか。

・『半沢直樹』を例にとれば、「善(正義)が悪を倒す」ことに人々は爽快感を覚えたということになる。
小さく・弱く・低い・少ないのが善(正義)であり、半沢直樹であった。
ドラマを見てないのでよく分からないが、平社員の半沢直樹vs組織幹部といった構図か、弱小組織vs巨大権力といった構図になっていたんだろうか。

・『水戸黄門』も、「善(正義)が悪を倒す」ことに人々は爽快感を覚えてるわけだが、水戸黄門は権力者という設定なので、小さく・弱く・低いほうには当てはまらないと思うが、本来ならば弱い高齢者が頑強そうな悪人を倒すということで、人々は水戸黄門を小さく・弱く・低いほうに当てはめて見ているのだろうか。
それとも権力者は少ないほうに当てはまるので、「少が多を倒す(圧倒する)」と見ているのだろうか。

・爆笑問題の太田さんは芸人の生活保護不正受給問題に関連して、「自分たちが100%正義というようなツイッターユーザーが不快」と述べた。
ツイッターユーザーのほうが「大・強・高・多」だと感じるから不快になるのだと思うが、テレビに出演している自分達が「大・強・高・多」という認識はないのだろうか?

・STAP細胞の狂喜騒動では、小が大を、弱が強を、低が高を、少が多を、倒す爽快感を人々が共有し歓喜した。
発見者や論文の筆頭著者が笹井副センター長など他の人物ではダメだったのだ。
様々な問題が発覚した時に小保方さんを庇った人たちは、小保方さんがまさに「小・弱・低・少」に見えたのだろう。

・悪党はなるべく少数で且つ巨大権力に対抗する必要がある。(悪党主役セオリー)


元号と即位の怪

属国離脱への道〜【入門編】日本近現代の謀略探求〜より>
ネット上では、明治天皇すり替え説として広く知られている。山口県田布施町にある大室家とは南朝の末裔とされ長州藩が代々、保護してきた。その大室家のある人物・大室寅之祐が睦仁親王とすり替えられて、そのまま明治天皇となってしまったというわけである。
(略)
それでは本当にすり替えられてしまっているのか。睦仁親王と明治天皇は、使用前使用後のごとく立ち居振る舞い、見た目がことなっているという証言がある。
睦仁親王は天然痘にかかったことがあったが、明治天皇にはその痕跡はない。
睦仁親王は女官に囲まれて大切に育てられたためか弱々しい性格だったようだ。13歳だった1864年7月の「禁門の変」のときは、砲声と女官たちの悲鳴に驚いて失神してしまった。ところが、明治天皇は馬を乗りこなし馬上から近衛兵を閲兵し、大声で号令をかけるなど、堂々としたものだった。もちろん睦仁親王が乗馬をした記録は残っていない。
また、睦仁親王は性格だけでなく肉体的にも虚弱体質であり、毎年のように風邪をこじらせていた。十代半ばの思春期となっても女官たちと一緒に遊技に興じていたという。一方、明治天皇は体重24貫の巨軀。側近と相撲をすれば、投げ飛ばすほどの馬力を誇った。


明治天皇は孝明天皇の子とされている。
世襲制であるからして、子でなければ天皇を継承できない。

孝明天皇は江戸時代最後の天皇。条約には反対したものの佐幕派(親幕府)の天皇だった。
日米修好通商条約の調印勅許(天皇の許可)を巡るごたごたに巻き込まれた人。
若干15歳で即位し、黒船来航時(1853年)は22歳、幕府が日米和親条約(神奈川条約)を締結した時(1854年)は23歳、日米修好通商条約締結時(1858年)は27歳。
1867年1月30日(慶応2年12月25日)に急逝、35歳だった。

孝明天皇の結婚相手は英照皇太后。孝明天皇が亡くなった後、皇后を経ずに皇太后になった。
それまでの身分は女御であり、孝明天皇即位から2年後の1848年に12歳で女御として入内したのだった。
入内した女御と天皇は堂々とセックスが出来て、誰でも子供を産めたのである。
14歳と22歳の時に女児を産んだが早くに亡くし、子はいなかった。
明治天皇はこの人の子ではない。

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。
称は、中国(周)の官制を記した書「周礼」に由来する。位は、皇后・中宮につぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。
初見は「日本書紀」雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇のとき紀乙魚(き の おとな)・百済王教法などを女御としたのに始まる。はじめ位は低かったが、その位は次第に高まり、平安時代中期以降、皇后は女御から昇進する慣例となった。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。
定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。


明治天皇の母は典侍の中山慶子と言われている。
典侍(ないしのすけ/てんじ)とは、律令制における官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)。単に「すけ」とも呼ばれた。

正式な皇妃となれる身分ではないが、天皇の子供を儲けることも多かった。
1852年11月3日、中山慶子16歳は実家にて男児を産み、5歳まで実家で育てていたという。
この子(祐宮)が後に明治天皇と呼ばれることになる。
1860年、勅令により祐宮は准后女御・九条夙子の「実子」とされ、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。
今でこそ「養子」と言っているが、当時は「実子」にしたのだ。
天皇に絶対権力があり、それほど重要なポストであって、しかも世襲制ならば、もっと真剣にお相手選びや子作りをしたほうが良いのではないかと思ってしまうが、昔は結構雑である。
言うほど重要ではなかったのではないかと思ってしまう。

孝明天皇亡き後、1867年2月13日に皇位を継承したのは睦仁親王。これまた14歳であった。
まだ明治時代になっていないのだから明治天皇ではない。
大政奉還が1867年11月9日で、明治時代になったのは1868年10月23日(慶応4年9月8日)。

明治天皇の即位による改元。
ただし、改元の詔書には「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて明治元年と為す)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。また、一世一元の詔も併せて出され、天皇在位中の改元は行わないものとした。


孝明天皇が亡くなったのが1867年1月30日(慶応2年12月25日)。
皇位継承が1867年2月13日(慶応3年1月9日)。
大政奉還が1867年11月9日(慶応3年10月14日)
即位が1868年10月12日(慶応4年8月27日)。
元号を明治にしたのは1868年10月23日(慶応4年9月8日)。慶応4年1月1日に遡って元号を明治にすることにしたので慶応4年は消失したことになる。

慶応義塾大学が慶応という名を付けたのは時の元号に肖ったからだそうだが、それがなんと1868年(慶応4年)のことだというのだ。
前にも書いたけれど、おかしくない?
慶応大学は存在しない。明治大学である。明治元年大学はどうかしら?

江戸と明治の間にすっぽりはまった天皇交替。
なぜ即位の礼が1年8か月も後になったのか?
当初は11月に即位の礼を行う予定であったが、大政奉還など時勢が急速に変化していく中で、国事多難を理由に見送られた。・・だそうだ。
倒幕派、すなわり明治新政府は、尊皇派であったはずだ。なにより天皇が大事だったはずだ。
それなのに「天皇行事は後でいいや」とは!

大政奉還・・・・1867年11月9日(慶応3年10月14日) 
・大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許した政治的事件である。
・「大政」とは天下の政(まつりごと)の意で、第15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)が1867年(慶応3)10月14日、徳川氏265年間の政権を朝廷に奉還し、翌15日、朝廷がそれを勅許した幕末期の一大政治事件をいう。


「明治天皇に奏上し、天皇が奏上を勅許した」と書いているが、即位前であり、元号もまだ慶応であり、明治天皇は存在しない。
「朝廷に奉還し、朝廷がそれを勅許した」という書き方は上手く逃れた観があるが、「条約調印には天皇の勅許が絶対に必要だ!」と暴れていた人達は誰だったのか?

馬と鹿と金華山

天皇すり替え説では、中山慶子の産んだ子と明治天皇の特徴があまりに違うという。
とくに馬の話はよく出てくる。

ちなみに明治天皇の馬は「金華山号」という名だったそうだ。

明治天皇の御料馬を「金華山号」といいます。明治天皇は1876年(明治9年)と1881年(明治14年)の2回、東北に巡幸されてみちのくの馬に心ひかれ、明治13年(1880)、水沢・佐野厩舎で育成された南部馬の同馬をお買い上げになりました。

金華山という名からは中国や朝鮮を思い浮かべるが、金華山は日本の東北にもある。

金華山(きんかさん)は、宮城県石巻市の太平洋上に浮かぶ島のことである。人口は6人。対岸の牡鹿半島との間に内海「金華山瀬戸」がある。
金華山は、島全体が黄金山神社の神域となっており、地場の信仰の対象として有名である。恐山、出羽三山と並ぶ「奥州三霊場」に数えられている。「三年続けてお参りすれば一生お金に困ることはない」という言い伝えがあり、参拝客を集めている。また、神の使いとして保護されている多数の鹿が生息している。毎年10月第一、第二日曜には鹿の角切りの神事が行われる。



明治天皇のルーツ

天皇がすり替えられたという話は周辺の状況からしてほぼ間違いないと思うが、長州藩が代々保護してきた南朝の末裔とされる大室家の子だったという点は違うと思う。
理由は馬である。
ルーツは馬を操る騎馬民族か弓馬を操る戦闘集団にある。
それは南朝や九州ではない。日本ならば東日本。または中国東北部の馬賊やモンゴルの遊牧民など。
ずばり、明治天皇は現在の中国東北部か北朝鮮付近(満洲~朝鮮半島北部)から連れてきた子だろう。






[PR]
by yumimi61 | 2015-12-23 14:56