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日本国憲法の秘密-162-

センター試験を記念して、今日は教育の話です。


1871年、明治新政府は、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設。
     薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、この軍事力を背景に廃藩置県を断行した。(本当に薩長土のみだろうか?)
1872年、西郷隆盛を中心とした「近衛兵」として改組。任務名目は「天皇および宮城(皇居)の守護」。

1877年、西郷隆盛、明治政府との西南戦争に敗れ自決。
1878年、大久保利通、暗殺される。
1881年、大隈重信、政界を追われる。
1885年、初内閣誕生。伊藤博文が初代首相に就任。
1886年、ジュネーヴ条約に調印し、
1887年、日本赤十字社を結成。

1888年、大隈重信、伊藤博文の心変わりにより外務大臣として呼び戻される。(条約改正対応)
1889年、森有礼、暗殺される。
1889年、大隈重信、条約案反対派から爆弾による襲撃を受けて右足切断に至り、辞職する。
1890年、新島襄、死去。
1890年、大日本帝国憲法発布。
1891年、内村鑑三、教職を追われる。
1891年、近衛師団編成。

1894-1895、日清戦争。
1896年、大隈重信、再び外務大臣に就任。
1897年、大隈重信、薩摩藩閥と対立して辞職。
1898年、大隈重信、憲政会結成し、首相に就任するも4ヶ月で内閣総辞職。
1904-1905、日露戦争。
1905年、大韓帝国実効支配。
1909年、伊藤博文(韓国統監府初代統監)、朝鮮にて暗殺される。
1910年、大韓帝国併合。初代朝鮮総監には寺内正毅(長州藩出身)が就任した。

1912年、大正天皇、明治天皇崩御に伴い即位。
1918年、昭和天皇(まだ皇太子)婚約。
1921年、原敬(首相在任中)、暗殺される。摂政を決定する最中の暗殺だった。
1921年、昭和天皇(まだ皇太子)、大正天皇の摂政となる。
1926年、昭和天皇、大正天皇崩御に伴い即位。


異端児現る

明治新政府は当初教育に力を入れるつもりはなかった。あるいは、そこまで気が回らなかったというべきか。
文部省が設置されたのは1871年(明治4年)で、大蔵省など最初の省が設置されてから3年後に設置された。
また初代文部卿や初代文部大臣は倒幕派の藩であった肥前(佐賀)出身であったとはいえ、薩長藩ではない。
新政府の要人を多数含む岩倉使節団は、その1871年から2年かけてアメリカやヨーロッパを外遊しているのだ。どう考えたって呑気すぎる。

江戸幕府には直轄の開成所と医学所があった。明治新政府はそれを接収して官立学校にした。
開成学校はイギリス・フランス・ドイツから、医学校はイギリスとドイツから教師を迎え、授業も英語・フランス語・ドイツ語で行われた。
要するに外国語が出来ないことには全く話にならない教育なのである。
開国反対、尊皇攘夷などと言っていた人達がこれなのだから呆れるしかない。
ともかく最初から外国主導だった。
外国語に浸っているうちにそのうちに慣れるかもしれないが(慣れないかもしれないけれど)、外国語のレベルが上がるまでは教育レベルを上げることは困難であろう。
現代の英語だけで授業をする学校も相当時間を割いて自主勉強をしないと日本の受験戦争を勝ち抜くレベルには届かないそうだ。(もっとも受験サイドが擦り寄っているだろうからその心配も少なくなっていると思うけれども)
他の方法があまりない時代には自主勉強も難しいだろう。
明治時代の開成学校や医学校では成績が優秀な者(外国がマスター出来そうな者)を選んで外国へ留学させるという方法でコネクションパイプを太くし特権を作った。

1868年8月14日(明治元年)「開成学校」「東京医学校」と改称→1869年8月15日「大学校」と改称(開成を南校・医学校を東校と呼び分けた)→1871年文部省設置→同年「南校」と「東校」に改称→1874年「開成学校」(のち東京開成学校)と「東京医学校」と改称→1877年旧東京大学(東京帝国大学の前身)→1866年帝国大学

また江戸幕府下の蘭学をルーツにする慶應義塾も江戸時代から存在していたことになる。


森有礼も薩摩藩の同士と一緒に密航的(藩の選抜学生がイギリスの協力のもと密航した)にイギリスに渡った人物である。
イギリスなどから見れば薩長藩の一員で仲間である。
イギリスの議員の紹介でアメリカの新興宗教家(イギリスからの移民)のもとに1年ほど暮らしたが、アメリカ経由のイギリスという認識だったはずだ。

明治の教育は自由や個性を尊重し伸ばすことに重点が置かれたものではない。
「私達(イギリス・フランス・ドイツ・明治政府)仕様」の人間に育てることに重点が置かれたのだ。
君主に立てつくことない(ある時はまた君主に立てつくことが全ての)閉鎖的で統制的で画一的な教育である。

森有礼もそれに準じた教育を展開すると思っていた。
1872年に文部省が設立した師範学校(筑波大学の母体)、1875年に森有礼が設立した商法講習所(一橋大学の母体)も「私達仕様」養成所になるはずだったのだ。
ところが、これが予想外だった。
ヨーロッパの考える教育からも明治政府の考える教育からも外れていき、従来の日本の教育者とも合致しないところがあったのだろう
それこそがヨーロッパとは違う自由な国アメリカであるとも言えるし、密航で出ていくような人物であり、新興宗教家のもとから逃げ出さずにいられた人物であるとも言える。
またアメリカに暮らした期間が1年という微妙な長さであったことも少なからず影響していると考えられる。
英語が全く分からなくはないが、英語で対等に渉りあえるほどではなかった。

(森有礼は)英語の国語化を提唱したこと(国語外国語化論)でも有名で、明治5年(1872年)にはイェール大学の言語学教授のウィリアム・ドワイト・ホイットニー宛てに「不規則動詞を規則化して簡略にした英語を日本の国語とするべきではないだろうか」という書簡を送っている。だが、ホイットニーは簡略化した英語に否定的な見解を示した上で、日本語のローマ字化を除いては日本語の廃止に反対している[要出典]。
森の急進的な考えには当時の大衆の感覚とは乖離したものがあり、「明六の幽霊(有礼)」などと皮肉られもしたが、近代国家としての教育制度の確立に尽力したその功績は大きい[要出典]。



出る杭は打たれる

やはりアメリカ帰りやアメリカかぶれのプロテスタントは危険であるという再認識に至った明治政府の中枢は、一か所に集めたうえで叩き潰すことを考えた。
森有礼を文部大臣に就任させ、その芽(目)を教育の総本山に集めたうえで、不敬を問題にし、森有礼を暗殺した。

(森有礼は)明治18年(1885年)、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)を「教育の総本山」と称して改革を行うなど、日本における教育政策に携わる。また、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。

1880年代後半はアメリカの影響を排除するのに躍起になった時代であり、新島襄や内村鑑三、大隈重信などがその犠牲になった。
新島襄はアメリカ滞在期間も10年と長く、帰国後には布教のみならず学校を設立し、看護教育にも手をだし、医学教育も夢見ていた。一番の危険人物と見做されていたと思う。
大隈重信は明治初頭の政府要人の中では一番英語が出来た人なのではないだろうか。
また外国人に対しても怖気づかず率直に意見できる稀有な人材であった。
だから外交問題に対処する時に非常に重宝された。対立しても外しきれなかった。

浦上信徒弾圧事件(1869年・明治2年)の際、イギリス公使ハリー・パークスは「日本の行っている事は野蛮国のすることであり、今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ」と抗議してきた。その対応に手をこまねいていた明治政府は、交渉役に、英語が話せ、キリスト教の知識もあった大隈を選び派遣した。しかし当時大隈はまだ31歳だったため、パークスは「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ!」と激怒したという。
しかし大隈は「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、抗議は全面撤回とみなす。また、あなたの言うことは、国際法で禁止されている内政干渉である」と言い返し、互角に渡った。
パークスは日本を極東の小さな島国ぐらいにしか思っていなかったため、日本の若者の口から“国際法”や“内政干渉”という単語が出てきた事に驚いたという。
さらに大隈は「或る歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。又或る宗教家は言う、欧州の歴史は即ちキリスト教の歴史なりと。この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史は即ち戦乱の歴史なり。キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは是何者の所為なり」と続け、今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとして、パークスを説得した。


合図

筑波大学の校章の説明には「五三の桐葉型」は1903年に改定された東京高等師範学校生徒徽章に始まると書いてあった。
明治天皇が下賜したのは1888年のことらしい。
先に附属小中学校(現・筑波大附属小、同附属中・高)として採用されたらしい。

東京教育大学の校章は「五三の桐葉型」である。この桐章は東京高等師範学校の附属小中学校(現・筑波大附属小、同附属中・高)で1888年11月に校章として制定されたことに起源を持つ。これは明治天皇の行幸の際、皇室の御紋章である五七の桐章を校章に用いるようご沙汰を頂いたことによる。しかし五七の桐では不敬にわたることがあってはとの理由で五三の桐となった。

その後、母体である東京高師においても1903年に改定された「東京高等師範学校生徒徽章」で制定され、1949年製作の東京教育大学学生バッジや、筑波大学のシンボルマークに受け継がれて現在に至る。「桐紋」と呼ばれる図形は、菊花紋章と並んで日本国の伝統的な紋章および国章として用いられているが、当校の校章は花の部分のみ「蔭」で表現される独特なものである。


1888年は森有礼が暗殺される前年。
杭打ちの序章が桐紋の授与だったのであろう。


筑波大学と付属高校の異様な関係

以前私はこの記事で東京大学合格者の多い高校を掲載した。
東京大学は国立であるにもかかわらず、合格者の多い高校は私立ばかりである。それも中高一貫男子校が多い。
国立の高校では筑波大付属駒場高校と学芸大附属高校がトップ10に入る。
特に筑波大付属駒場高校は私立を抑えて上位にくる。

私立の中高一貫校はそれぞれ特色のある教育を行っているかと思いきや、そうではなさそうだ。
東京大学への進学者が多く、それをステータスにしているということは、そこに価値観があるということに他ならない。
特色ある個性的な教育を良しとしているのではなく国家政府に殉じることを良しとしているということだ。
それが有名私立高の実態なのだろう。
特色や個性という言葉に騙されてしまうのだが結局のところ目指すものは「私達仕様」になること。
確かにそれが出世の道ではあるけれども。

筑波大学附属高校は筑波大学への内部進学枠を持っていない。
持っていないというか、「そもそも筑波大学を目指す生徒がいないしな、ははは」、そんな感じではなかろうか。
では言いましょう。公になっていないとしても、筑波大付属駒場高校は東大への内部進学枠を持っているのでは?
進学と観点から見た筑波大学と筑波大学附属高校の関係性は異様だと思う。世間一般の考える「附属」からは乖離している。
その異様さの源流は桐紋からの杭打ちにあると考えられる。
東京大学を上げて、総本山だった筑波大学を落としたのだ。
付属の生徒が筑波大学に進学せずに、東京大学を目指して多くの合格者を出すことも、その策の1つであろう。


附属高校の少なさ

ことをややこしくしているのは世間一般の考える「附属」。私立の附属(一貫校)との混在である。
国立大学の教育学部や教育大学が附属の小中高、幼稚園、特別支援学校などを持っているのは、教育に関する研究や実験の場としたり、教育実習生に実習させることが主目的であって、東京大学や京都大学、難関有名私立大学に合格する子供や有名人を養成することが目的ではない。
(それとも、そういう研究をしているとか?)

地方国立大学の教養学部はみな附属の学校を持っている。
例えば群馬大学ならば、群馬大学教育学部附属中学校、群馬大学教育学部附属小学校、群馬大学教育学部附属幼稚園、群馬大学教育学部附属特別支援学校がある。
これを御受験校扱いで捉えている人がいる。
学校のバックに付いているのが宗教や地方公共団体ではなく国の教育機関であり教育者であるということは、保護者にとって、教育に関しては間違いないだろうという安心感が高いのかもしれない。
ただ昨今は、私立などの御受験校が少ない地方におけるステータスになっている観もある。
しかしながら県に1校しかないし、公共交通機関などの環境含め現実的に通学できる人は限られているので、そこまで加熱しない。
また加熱しない要因として附属の高校がないことが挙げられる。
「高校がないんじゃ意味ないよなぁ」という話は実際に私も何度か聞いたことがある。
群大へのストレート進学にしても、他の難関大学を受験するにしても、高校が空いてしまうので、その下の学校(中学校や小学校)へ行く意味が弱まるということなのだ。

国立大学はみな附属の学校を持っているのに、付属の高校を持っているところはあまりない。
高校での研究や実験は行わなくて良いのだろうか?高校での実習はする必要がないのだろうか?

【国立大学の付属高校】
・筑波大学附属高等学校
・筑波大学附属駒場高等学校
・筑波大学附属坂戸高等学校
・東京学芸大学附属高等学校
・東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校
・東京工業大学附属科学技術高等学校
・お茶の水女子大学附属高等学校
・愛知教育大学附属高等学校
・名古屋大学教育学部附属高等学校
・金沢大学人間社会学域学校教育学類附属高等学校
・京都教育大学附属高等学校
・大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎
・大阪教育大学附属高等学校池田校舎
・大阪教育大学附属高等学校平野校舎
・広島大学附属高等学校
・広島大学附属福山高等学校
・愛媛大学附属高等学校

県で言えば、茨城県・東京都・愛知県・石川県・京都府・大阪府・広島県・愛媛県の8県のみ。(国立大学は全ての都道府県にある)


国立大学附属高校の進学校

上記の国立大学附属高校の中でいわゆる進学校というのは、名称に教育や専門分野が入っていない学校である。
筑波大学附属、東京学芸大附属、お茶の水大学附属、広島大学附属、愛媛大学附属。
愛媛大学附属は、前身校が愛媛大学農学部附属農業高校で、母体は1900年に創立された愛媛県農業学校にあるが、愛媛大学附属高校としての開校は2008年と新しい。愛媛大学への内部進学率も高いらしい。

筑波大学附属は本家(東京都文京区)と駒場(東京都世田谷区)と坂戸(埼玉県)がある。
筑波大学は茨城県にあるが、付属高校は東京と埼玉で茨城県ではない。
大学の研究機関の1つであるはずの高校が大学から離れた場所にあるというのは、環境として恵まれているとは言えず、これも異様と言えば異様である。
ただ筑波大学の前身はもともと東京にあったので、母体である大学の方が茨城県に移ったと言える。
3つの付属高校のうち、駒場が東京大学進学率の高い超難関校として有名なわけだが、この学校はもともと東京教育大学(筑波大学前身)の農学部附属駒場高校であった。
専門分野が入らないのは文京区の筑波大学附属高校のほうであった。日本の近代教育発祥の地は文京区にあった。
こちらの学校は東大進学率などが最近落ち目らしく、これを超える公立高校も出現して、進学校としての威厳はすっかり駒場校に奪われた形になっている。
また坂戸校は東京校とは全く違う感じ。

駒場校が農学部附属であったということは注目すべき点ではなかろうか。
新しい付属校の愛媛も前身は農学部附属であった。
昨今は農業高校が全く流行らず、各地で普通高校化したり、学校名や学科名から農業を外して、例えばバイオなどと付けてみたりしている。
農業高校など実業系の高校は偏差値が低くヤンキー出来の悪い生徒が進学するというイメージが定着して久しい。
それはたぶん第一次産業や小売業の衰退に密接に関連しているのだろうと思う。
そのため、すごく出来の良い農家の後継ぎの子は、農業高校と普通高校(進学校)の狭間で揺れた。
実を取った時代にはそんなことはなかったのだ

現在は進学校となっているわけだから、農学部に進む人や農業やそれに関連する研究職などを目指す人とは限らない。
限らないというか、最初からそれを目指して筑駒に進学するという人はいないだろうと思う。

筑駒が現代において超難関進学校となっていることは、かつての、つまり江戸時代までの農家が信頼に値する家であったことの証ではないだろうか。
それへの対抗心なのか、それとも懐古趣味なのか、異常なまでの執念が農学部付属の筑駒を有数の進学校にしているというのは考え過ぎだろうか。






by yumimi61 | 2016-01-16 21:14