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日本国憲法の秘密-221-

「急病人がおりましたので」が「黄色い液がありましたので」に聞こえた。
疲れているのかもしれないな。


14 九男:正熊(1881-1969) 十勝鉄道会長、北海道製糖、中央製糖各社長

正熊の妻は群馬出身の生糸貿易商・新井領一郎*の長女・美代。
美代は生まれも育ちもアメリカで、正熊と美代はアメリカで出会い、日本に帰国後に結婚。美代は帰国子女第1号とも言われる。

**新井領一郎
旧名は星野良助。星野家は豪農であり、父は名主(村役人)で、徳川幕府とも親密な関係にあった。
星野良助は数え12歳の時に隣村の生糸問屋・新井家の養子に入る。
上野国勢多郡(現:群馬県桐生市)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目した兄・星野長太郎と連携し、日本製生糸の市場開拓のためニューヨークに渡った。
絶えず高い品質維持を目指し品質向上にも努め、市場からの高い評価と信頼を勝ち取った。『ニューヨーク・タイムズ』紙は「日米生糸貿易の創始者」"A Founder of Silk Trade With Japan"と評した。生前は「生きたる生糸貿易の歴史」とも称された。佐藤百太郎、森村豊と共に日米貿易の先駆者といわれている。
在米日本人とアメリカ人との社会交流を図った日本クラブ(The Nippon Club)と日本文化の発信拠点となった ジャパン・ソサエティ(Japan Society)の創設者の一人。日本ゴルフ協会の年鑑によると、日本にゴルフを広めた日本人初のゴルフ・プレーヤーの一人。


・1875年(明治8年)に実兄の星野長太郎は、新井にアメリカ渡航に先立ち英学・簿記を学習するよう助言した。新井は、森有礼の構想に基づき勝海舟の支援で設立された銀座尾張町(現中央区銀座6丁目)の商法講習所(現一橋大学)に1期生として入学。アメリカ人教師W.C.ホイットニーより簿記を学んだ。授業は全部英語で行われた。

・外国人居留地外商を経由せずに日本人として初めて、生糸の直輸出を実現した。同時に、それまでのインド洋・欧州(ロンドン)経由ではなく、太平洋航路と大陸横断鉄道の利用による日本初のアメリカへの生糸輸出を実現した。

・長い間、アメリカの生糸市場の開拓・拡大に携わり、日米貿易の先駆者の一人となった。絶えず生糸の品質向上に取り組み、1906年(明治39年)には、日本からアメリカへの生糸総輸入量のうち約36パーセントを取り扱った。他国からの輸入分を合わせると、取扱高は実に5割内外に達し、アメリカ最大の生糸輸入者となった。開港後、明治期の日本にとって生糸輸出は最大の外貨獲得手段であり、大きな貢献を果たした。

・民間人として初めて日米間の相互理解や信頼向上、交流促進に取り組み、明治期に日米友好関係の構築に尽力した。アメリカにおける初期在住日本人の社会的地位向上にも努めた。


西町インターナショナルスクール(旧松方正熊邸)(港区元麻布2-14-7、竹中工務店施工)

インターナショナルスクールタイムズ 阿南・ヴァージニア・史代さん講演1 西町インターナショナルスクールの歴史と松方家





by yumimi61 | 2016-04-13 17:44