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日本国憲法の秘密-223-



尾瀬
福島県(南会津郡檜枝岐村)・新潟県(魚沼市)・群馬県(利根郡片品村)の3県にまたがる高地にある盆地状の高原であり、阿賀野川水系最大の支流只見川の源流域となっている。中心となる尾瀬ヶ原は約1万年前に形成されたと考えられる湿原である。尾瀬国立公園に指定され、日本百景に選定されている。

尾瀬国立公園
福島県、栃木県、群馬県、新潟県の4県にまたがる国立公園である。2007年8月30日に日光国立公園から尾瀬地域25,203ha(現・尾瀬国立公園の67.75%にあたる)を分割し、会津駒ヶ岳、田代山、帝釈山など周辺地域を編入する形で指定された。釧路湿原国立公園以来20年ぶりに新設された29番目の国立公園である。総面積は37,200haである。
<尾瀬国立公園の県別面積>
群馬県 - 17,657ha(47.47%)
福島県 - 17,240ha(46.34%)
新潟県 - 1,156ha(3.11%)
栃木県 - 1,147ha(3.08%)

日本には32の国立公園があるが、国立公園だからといって国有地とは限らない。
尾瀬国立公園の場合、公園面積の40%(保護地域の70%)が私有地だそうだ。「私」が誰かといえば東京電力である。
日本の国立公園で私有地率が一番高いのは伊勢志摩国立公園ではおよそ96%が私有地。伊勢神宮が10%ほどを所有しており、伊勢神宮も国立公園内にある。(熊野灘は大丈夫ですか?)

伊勢志摩国立公園は終戦の翌年1946年に国立公園に指定されている。戦後初の国立公園である。下記は青字はその経緯。
伊勢志摩国立公園は観光客の増加を期待し、戦前に鳥羽と志摩が吉野熊野国立公園の区域拡大を求めたことに始まる。1942年に独立した志摩国立公園の計画に変更されたが、当初の計画では宇治山田市(現伊勢市)を含まなかった。太平洋戦争の戦況が悪化し、計画は頓挫したかのように見えた。

1945年の敗戦直後から厚生省が国立公園事務を再開し、翌1946年4月に厚生省石神甲子郎技師が志摩国立公園の候補地を視察した。政教分離のためにGHQが神宮を過剰に解体してしまうことが危惧され、宇治山田市議会が宇治山田市と度会郡沼木村(のちに伊勢市)を追加することを決議した。5月には神宮の宮域林を含む範囲が申請区域に追加され、伊勢志摩国立公園の計画に変更された。鳥羽・志摩では英虞湾が真珠の主要産地であることをアピールするためにGHQ要人の夫人へ真珠のネックレスなどを贈与し便宜を求めた。これとは別に神宮側が懸命に説得したこともあり戦後初の国立公園として伊勢志摩国立公園が誕生した。
(今度のサミットのお土産も真珠でしょうか?)

しかしなぜ尾瀬の地を東京電力が所有しているのだろうか。
大正時代にまで遡る。当時日本では、国策として水力発電が進められ、水の豊富だった尾瀬周辺にも発電施設建設の計画が進んでいた。大正5年(1916)には統合前の電力会社の一つ、利根発電が当時私有地だった群馬県側の土地を取得。大正11年(1922)には別の電力会社の関東水電が水利権を取得する。これらの電力会社はその後統合を重ね、昭和26年(1951)に現在の東京電力に統合。東京電力は設立とともに尾瀬の土地と水利権をそのまま引き継ぐことになった。
FSC 国内FM認証林紹介 東京電力株式会社 より>

※FSC-特定非営利活動法人日本森林管理協議会(FSCジャパン)
FSCジャパンは、2006年に設立された特定非営利活動法人日本森林管理協議会内の一グループとして活動しています。2007年9月にFSCインターナショナルからワーキンググループとして承認を得、2010年8月には日本のナショナル・オフィスとして契約しました。スタッフ)(FSC親善大使は、さかなクんと高木美保さん)

群馬県側だけが私有地で、福島県と新潟県側は当時も今も国有地(国有林)なのである。
しかしなぜ国策の水力発電を推し進めるべく取得したはずの土地が発電に用いられないまま今日に至っているのか。

当初より電源開発計画のあった尾瀬だが、一方では尾瀬の自然は守るべきだという声も強かった。開発か保全か。政府内でも意見は二分されていたこともあり、開発計画は宙に浮いたままの状態が続いた。
「昭和20年代後半になると、大ヒットした歌が、尾瀬の自然の美しさを歌った『夏の思い出』だったそうです」と尾瀬の歴史について同社リニューアブルパワー・カンパニー・水利・尾瀬グループの桒原泰穂さんが説明してくれた。「昭和30年代後半になると、美しい尾瀬の姿を一目見ようと観光客が押し寄せ、当時はマナーもなかったために木道などの整備のされていなかった尾瀬の自然は瞬く間に荒廃していったそうです」。
<FSCより>
夏が来れば思い出す~遥かな尾瀬遠い空~♪

尾瀬の土地を取得した利根発電も、利水権を獲得した関東水電も、東京電力の前身企業である。

利根発電
利根発電株式会社は創業当時は上毛水力電気株式会社と名乗り1907年(明治40年)5月に上毛水電(資本金60万円)で政友会の代議士大岡育三らにより発起し翌1908年(明治41年)12月、東京市京橋区で創立された。 発起人総会にて発起委員長に笠井愛次郎が務め、同社は利根川水系沼尾川に出力1800kWの発電所を建設し、群馬県の渋川・伊勢崎・太田・館林の各町に電気を供給事業を計画して認可をうけた

紆余屈折を経て1909年(明治42年)5月25日、上毛水力電気株式会社は創立総会を開催するに至り創立総会にて社名を利根発電株式会社に変更した。利根発電は発足時には本社を東京に支店を前橋に開設した。創立直後は上毛水電の創立常務委員長の笠井愛次郎が就任し、土木技術も笠井自身が指揮していた。電気技術は岩田武夫が指揮していた。


利根や上毛などまるで地元の人が創業したような社名であるが、大岡育三らによって東京で創立している。

大岡育三(大岡育造)
山口県下関市出身。
1870年(明治3年)、15歳で上京。
1881年、自由党に入党。
1890年(明治23年)、江戸新聞を買収して中央新聞と改名し社主となった。同年、衆議院議員に山口県から立候補し当選。以降13回当選。
文部大臣や衆議院議長(通算在任日数が1785日で歴代2位)を歴任した。

自由党は板垣退助が結成した政党。
伊藤博文が与党政党として結成した立憲政友会の設立年は1900年で、大岡は尾崎行雄などとともに発足に関わった。
以前も述べたが立憲政友会は三井資本。総理総裁が政党与党として結成した経緯からしても日本政府(内閣)に近い政党である。
大岡が社主だった中央新聞が政党の機関紙的な新聞となり、1910年には中央新聞を立憲政友会に譲渡した。
大岡らによって創立された利根発電が尾瀬の地を取得したのが1916年(大正5年)。

発起委員長を務めたという笠井愛次郎は土木技師。(関東地方の煉瓦造水門建設史 土木技師笠井愛次郎と井上二郎



尾瀬の群馬県側は私有地であったので、そこを利根発電(東京電力前身の一企業)が取得したということだが、では利根発電が取得する前はいったい誰の所有地だったのだろうか?
江戸時代と明治時代以降は土地の扱いが全く違う。私有地という概念は江戸時代にはなかった。
江戸時代には土地は誰のものでもなかった。日本は日本という国のものであり、一個人一企業の所有物ではなかった。土地を開発したり管理するのは幕府であり藩主である。
米や野菜を作るために田畑を与えられた農民はいたが、その場合には税(米納か金納)を納める義務がもれなく付いていた。それ以外の者に納税義務はなかった。
私有地に近いのが江戸時代より古い時代に見られた荘園である。

荘園
平安時代には、まず小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達し、その後、皇室や摂関家・大寺社など権力者へ寄進する寄進地系荘園が主流を占めた。
鎌倉時代には、守護・地頭による荘園支配権の簒奪(さんだつ)が目立ち始めた。室町時代にも荘園は存続したが、中央貴族・寺社・武士・在地領主などの権利・義務が重層的かつ複雑にからむ状況が生まれる一方、自立的に発生した村落=惣村による自治が出現し、荘園は緩やかに解体への道を歩み始めた。
戦国時代には戦国大名による一円支配が成立、荘園の形骸化はますます進み、最終的に羽柴秀吉の全国的な検地によって荘園は解体した。


上記に「惣村」という言葉が使われている。
自立的に発生した村落=惣村による自治が出現し、荘園は緩やかに解体への道を歩み始めた。
昨日の地震で被害の大きかった益城町には惣領という地域がある。―熊本県上益城郡益城町惣領
惣領というと、長男(嫡男)や後継ぎ、相続人といった意味で使うことが多いようだが、熊本の惣領は下記のような意味で用いられたものではないだろうか。

鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めた。そうした中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていった。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになった(中世当時も惣村・惣という用語が使用されていた)。



平安時代中期以降、開発領主による墾田開発が盛んになり、国衙から田地の私有も認められてはいたが、その権利は危ういものであった。
そこで彼らはその土地を荘園公領制により国司に任命された受領層である中級貴族や有力寺社に寄進した。
寄進によって開発領主は荘園の支配権や管理権を確保し安定を得ることが出来る。
寄進を受けた者を領家という。
しかし領家の権威だけでは荘園の所有が維持できないことが多々あった。(天皇の代替わりの際に「新政」として荘園整理令が出されたり、荘園を認めずに公領へ編入されてしまう)
そこで領家はより権威のある皇族や摂関家へ荘園を寄進したり、私的に蓄積した富を貢納することで生き残りを図った。
国司に任命されることは富の蓄積へ直結したため、中級貴族は競って国司への任命を望んだ。
苦労して開拓しても権力で持っていかれてしまうため権力に阿って、次のような土地所有関係が生まれた。
  開発領主→領家(中級貴族や有力寺社)→本家(皇族や摂関家)

日本最大の荘園は南九州にあった島津荘である。
島津荘は大宰府の職員だった平季基・良宗兄弟が未開の地であった日向国諸県郡島津院を中心にして荘園を開墾し、これを関白の藤原頼通に寄進したことから始まった。
 ・島津荘の領主本家は摂関家。
   藤原頼通→藤原忠実→高陽院→藤原忠実→藤原基実(近衛家始祖)→平盛子(基実の正妻)→近衛基通
 ・島津荘の領主領家
   摂関家家司→興福寺一乗院

近衛家は、藤原頼通の子孫である藤原基実を祖とする家であり、鎌倉時代から島津荘の領主本家となっている。(余談だが片品村の隣、群馬県水上町には藤原という地名がある)
島津家の祖は摂関家家司だった惟宗忠久である。
惟宗忠久は守護や地頭を務めていたが、源頼朝より島津荘の下司職任命された。この時に三国に跨る島津荘を本貫にしたいと願い島津を名乗るようになる。
三カ国守護職を回復した島津貞久(島津家5代目・南九州に土着したのは5代目以降)や重臣には、三カ国は名字の地である島津荘内の国々という意識が形成される。名字の地島津荘はすなわち薩摩・大隅・日向の三州とする支配を正当化する意識である。 南北朝時代、守護職等を分割相続された相州家の島津師久-島津伊久と奥州家の島津氏久-島津元久の両島津家は、この意識に基づき、領国経営の維持・拡大の行動を取っていった。

三国と言えば、群馬と新潟の県境に三国山があり、三国峠があり、2つの県を繋ぐ道は三国街道だった。
尾瀬は3県に跨っている。
日本航空123便が墜落した上野村の県境にも三国山がある。
 ・三国山(群馬県):(上野国・越後国)1636m 群馬県利根郡みなかみ町と新潟県南魚沼郡湯沢町の境界にある山。読みは「みくにやま」
 ・三国山 (奥秩父):(上野国・武蔵国・信濃国)1818m 埼玉県秩父市と群馬県多野郡上野村と長野県南佐久郡川上村の境界にある山。読みは「みくにやま」。

それとも三国志?






by yumimi61 | 2016-04-15 13:44