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日本国憲法の秘密-233-

松方正義の家族(続き)

六女:梅子(1892-1978) 4代目堀越角次郎(1885-1951)の妻となる。裏千家流の女流茶人・堀越宗円でもある。

松方梅子関連で千家の話の続きです。

裏千家は東京進出とともに離れの茶室「寒雲亭」を東京の久松家敷地に移築した。
久松家は知多半島(愛知県西部)発祥の士族。

近世大名の久松松平家は源義家の末裔を称したが、これは松平姓を称することにより、松平・徳川氏の公称する清和源氏新田氏流を冒したことによるものと考えられる。

系譜類では、久松氏は本姓菅原氏とされ、遠祖は菅原道真と伝える。それによれば、道真が大宰府に左遷されたとき、長孫の久松麿(後の雅規)は、尾張国知多郡阿久居(現在の愛知県知多郡阿久比町)へ配流され、この地の人は彼を久松殿と呼んだ。のちの南北朝時代に京都から雅規の後裔が阿久居に下向し、この地の領主となった。そして、室町期に雅規14世孫の道定が足利将軍家に仕えて阿古居の地7,000貫を所領として認められ、先祖久松麿にちなみ久松氏を称したという。


久松家は松平家(徳川家康)と関係があった。

松平家の起こり
後世の徳川氏・松平氏の系譜によると、徳川氏の祖となる松平親氏は清和源氏の新田氏の支流で、上野国新田郡新田荘得川郷(えがわ — 、現在の群馬県太田市徳川町)を拠地とする得川義季(世良田義季、得河三郎義秀とも)の後裔と称する時宗の僧で、三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の領主・松平太郎左衛門少尉信重の娘婿となってその名跡を継ぎ松平親氏を名乗ったという。

得川(徳川)は松平家に婿養子に入ったわけである。
三河国の松平家本家8代目の当主・松平広忠が徳川家康の父で、正妻・於大が徳川家康の母。
松平家の主君は今川氏。今川氏は室町幕府将軍家となった足利氏の一族(一族の中でも征夷大将軍継承権を有していた吉良家の分家)。
足利氏と新田氏とは親族(もと兄弟)だが対立し南北朝を各々支えた時期がある。
於大の父は水野忠政。
水野家は松平家と交友を深めたく娘を嫁がせたりしたわけだが、水野忠政の死後に家督を継承した於大の兄・信元は松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に従う。
今川-松平-水野ラインにいた水野家出身の於大はこれを理由に松平広忠から離縁される。
於大はその後、知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝と再婚し、子供も産んでいる。
於大と久松俊勝の間に生まれた子は徳川家康の異父兄弟となる。従って、徳川家(松平家)と久松家には関係があるということになる。
徳川家康の異父兄弟が「久松松平家(久松家)」を名乗る。
(戦国時代に織田信長と徳川家康は清洲同盟を結んでいる)

久松松平家(久松家)の本家2代目・松平定行が伊予松山藩に入ったことが、久松家と裏千家が関わるきっかけとなった。
寛永12年(1635年)、伊勢国桑名藩より松平定行(親藩)が15万石で入封し明治維新まで続く。また、元禄16年(1703年)2月には、幕府から江戸松山藩邸での預かりを命じられていた赤穂浪士10名が切腹した。
江戸初期には経済的には豊かであったが、寛文・延宝年間(1661年 - 1680年)に干ばつ・洪水などの飢饉に見舞われ、それ以後は財政難が続いた。特に5代定英の享保17年(1732年)の享保の大飢饉では領民の餓死者は3,500人にのぼる甚大な打撃を受けた。この餓死者の中に藩士は1人も含まれていなかった。定英は領民を蔑ろにしたとして、幕府より「裁許不行届」と咎められ差控え(謹慎)の処分を下された。

江戸時代(1603-1867年)、裏千家は7代に亘って、伊予松山藩の茶道奉行として京都の松山藩邸に出仕していたのだ。

東京の久松家敷地に移築した「寒雲亭」は、その後、鎌倉材木座にあった堀越家の別荘への移築を経て、東慶寺(鎌倉市山ノ内にある寺)に寄贈された。(移築と書いてきたが、模造という説もある)
一旦は東京に出た裏千家であるが、結局また京都に戻る。


先日載せた年表を再び。
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1871年、明治新政府は、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設。
      (薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、この軍事力を背景に廃藩置県を断行した。)
1871年 熊本洋学校設立(1874年に共学化)
1872年、西郷隆盛を中心とした「近衛兵」として改組。任務名目は「天皇および宮城(皇居)の守護」。
1875年 新島襄が京都に同志社英学校設立。
1876年 熊本洋学校閉鎖。(ジェーンズが学生の引き受けを同志社の新島襄に依頼)
1876年、新島襄がJ.D.デイヴィス邸に女子塾を開設。
 ※J.D.デイヴィスは同志社英学校の設立に参加した宣教師・教育者。
  当時デイヴィス邸があった場所(京都市上京区京都御苑内23)には現在京都迎賓館が建っている。
  1994年(平成6年)10月に国立京都迎賓館として建設が閣議決定され、2005年(平成17年)4月17日に開館した。

1876年、神風連の乱(熊本)・秋月の乱(福岡)・萩の乱(山口)が発生。翌年の西南戦争に繋がる。
1877年、西郷隆盛、明治政府との西南戦争(熊本・宮崎・大分・鹿児島)に敗れ自決。
1878年、大久保利通、暗殺される。
1881年、大隈重信、政界を追われる。
1885年、初内閣誕生。伊藤博文が初代首相に就任。

1886年、新島襄がJ.D.デイヴィス邸にて京都看病婦学校を創立し、
1887年、京都看病婦学校校舎と同志社病院を建設。病院開院。

1886年、日本政府がジュネーヴ条約に調印し、
1887年、日本赤十字社を結成。

1888年、大隈重信、伊藤博文の心変わりにより外務大臣として呼び戻される。(条約改正対応)
1889年、森有礼、暗殺される。
1889年、大隈重信、条約案反対派から爆弾による襲撃を受けて右足切断に至り、辞職する。
1890年、新島襄、死去。   3ヶ月後⇒新島八重が日本赤十字社の正社員となる。
1890年、大日本帝国憲法発布。
1891年、内村鑑三、教職を追われる。
1891年、近衛師団編成。
                  ⇒新島八重、裏千家の円能斎に入門。
1894-1895、日清戦争。  ⇒新島八重、篤志看護婦として従軍。
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新島襄の妻・八重は、襄が亡くなって間もなく(3ヶ月後)に日本赤十字社の正社員となった。
夫が京都看病婦学校や同志社病院を設立していたにも関わらず、そちらではなく日本赤十字社に関与していくのだった。
その後に勃発した日清戦争で日本赤十字の篤志看護婦として従軍。
さらに篤志看護婦人会の「看護学修業証」(看護婦免許ではない)を得て看護学校の助教を務め、日露戦争にも篤志看護婦として従軍。
後世では日本のナイチンゲールなどと語られるようになる。

また新島八重は襄亡き後に円能斎に入門し、茶名「新島宗竹」を許され、その後は女性では最高位にあたる裏千家の師範にまで上り詰めている。(入門年は1894年説と1890年説がある)
堀越梅子(茶名:堀越宗円)は1953年に裏千家の初代老分に就任した。
老分は総支配人みたいな立場。以後、裏千家の重要役職となり各時代の財界人・文化人で茶道に造詣の深い人物を就任させている。


裏千家・円能斎の妻は九鬼家の出身。
福沢諭吉の勧めで神戸の土地を買い占めた一族。
九鬼に仕えていたのが、孫が吉田茂の側近となる白洲退蔵。
明治初期に神戸の土地を買った九鬼隆義は、1882年に上京し宮内省(準奏御用掛華族局)に勤務し、1884年に子爵を授かり、1886年に吹上・浜両御苑勤務となるなど皇族の近くにもいた。
長女が松方正義の3男・幸次郎に嫁いでいる。
松方幸次郎の娘・花子はロックフェラー3世と友人だという松本重治に嫁いでいる。
裏千家・円能斎に入門し、裏千家の初代老分になった堀越梅子は松方正義の6女。
堀越家や九鬼家は福沢の慶応義塾の巨額な寄付をしていたと言われており、子弟は慶應義塾出身だったりする。白洲退蔵も慶應義塾で学んでいる。


裏千家・円能斎(当時51歳)は1923年(大正12年)に長男(当時30歳、淡々斎)に家督を継承した。
継承した翌年に円能斎は死去。
長男(淡々斎)は1925年に大徳寺の管長(最高指導者)・伝衣老師のもとへ入門。
大徳寺は、少庵の子として生まれた宗旦が10歳の頃(1588年頃)に、家督争いが起こらないようにという千利休(1522年生まれ)の希望によって預けられた京都の寺。
(事情を知っている者がいるのは不味い。いっそのことその懐へ入ってしまおう。)と思ったのか仏門を叩いたわけである。
淡々斎という号は九鬼隆一(三田藩家臣出身。藩主・九鬼隆義の斡旋で綾部藩家老・九鬼隆周の養子となった。福沢と面識も得て慶應義塾に学んだのち文部省に出仕し若くして文部少輔にまで栄進)から授けられた。
淡々斎の他に無限斎という号もあるが、こちらは大徳寺の伝衣老師から授けられたもの。
この得度をきっかけに伊勢神宮をはじめ全国各地の寺院や神社に献茶や供茶を行い、裏千家と宗教との関わりを強くした。
大徳寺に貞明皇太后(大正天皇の皇后)を迎えて献茶したのを皮切りに、以後、皇族や外国賓客にもしばしば茶を献じた。
堀越宗円(堀越梅子・松方梅子)が老分に就任した1953年には桂離宮で皇太子(現天皇)に献茶した。
国際茶道文化協会を設立して茶道の海外普及にも努めた。
初めてラジオで献茶風景を放送したのも、初めて人工衛星による日米テレビ宇宙中継に出演したのも淡々斎であった。

淡々斎の長男も大徳寺の管長・瑞厳老師について仏門に入る。
号の鵬雲斎は瑞厳老師から授かったもの。
1951年に茶道普及のためのにハワイに赴いて以来、国の文化使節や青年会議所会頭を歴任。
ハワイ大学、コロンビア大学、ロックフェラー財団などの講師として世界各地を廻り、裏千家支部を開設した。
放送電波(テレビ各局番組)に茶を乗せたり、自らがテレビ出演するなどして茶道をPRした。
自身が先代から家元を継承したのは1964年で、2002年長男に継承した。
2012年3月5日にユネスコ親善大使に任命されている。



先妻・近衛朝子(近衛文麿元首相の次女) ・・姉・昭子(近衛元首相の長女・島津家に嫁ぐ)
            ======長男・細川護熙(元熊本県知事・元首相・肥後細川家の第18代当主)
            ======次男・近衛護煇(近衛家養子となり近衞忠煇と改名。日本赤十字社社長、国際赤十字会長)
夫・細川護貞(肥後熊本藩主だった肥後細川家の第17代当主)
                 ======長女・松井明子(表千家に嫁ぐ
後妻・松井薫子(熊本藩筆頭家老であった松井家・松井明之の娘)


妻・甯子内親王(大正天皇の四男*・三笠宮崇仁親王の長女) ・・妹・容子内親王(三笠宮崇仁親王の次女・裏千家に嫁ぐ
夫・近衛護煇
*大正天皇の長男が昭和天皇となった。昭和天皇の皇后は島津家の娘であり、昭和天皇の5女は島津家に嫁いだ。




by yumimi61 | 2016-04-28 14:28