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日本国憲法の秘密-287-

●丸紅ルート
 贈賄側:桧山広会長(当時社長)、松尾泰一郎社長、大久保利春専務、伊藤宏専務(当時社長室長)
 収賄側:田中角栄元首相(当時首相)、榎本敏夫・田中利男秘書官
●全日空ルート
 贈賄側:若狭得治社長、渡辺尚次副社長、大庭哲夫前社長
 (仲介)小佐野賢治・・・1986年死去(69歳)
 収賄側:橋本登美三郎運輸大臣、佐藤孝行代議士
●児玉ルート
 (仲介?)児玉誉士夫・・・1984年死去(72歳)

30億円中の21億円(あるいはそれ以上)、一番多くのマネーが流れた児玉ルート。
ここの贈賄収賄が明らかにならなかった。
従って田中角栄はスケープゴートにされたという説も根強い。
では首相をスケープゴートに出来る人物とはいったい誰なのか?

真相が完全に明らかにならないまま関係者が亡くなり事件は終息してしまったのでアメリカ陰謀説を始め様々な説がある。
その1つに中曽根康弘・防衛庁(現:防衛省)に流れたのではないかという説がある。要するに軍用機に絡んでいるのではないかという憶測である。そこに読売も関係しているのではないかと言われる。
中曽根は当時はまだ首相には就任していなかったが、運輸大臣や防衛庁長官を歴任している。
また山口県総理の岸信介内閣や佐藤栄作内閣で入閣していること、逮捕された田中角栄内閣でも入閣していることなどがダーティーなイメージを植え付けることになった。
しかしおそらくこうした説や印象はだいぶ後になってから出てきたものだと思われる。
中曽根個人の犯罪だとすれば、当時の田中角栄首相をスケープゴートにするには力不足ではないだろうか。
もしもその説が正しければ重大な機密情報が明るみになる恐れがあったと考えるほうが適当である。

中曽根康弘(1982年に首相に就任)
1954年(昭和29年)- 3月、当時、日本学術会議を飛び越して、日本で初めて超党派の政治家らと「原子力予算」を国会に提出し成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。2人で政界における日本の原子力政策推進の両軸となる。
1959年(昭和34年) - 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。
1966年(昭和41年) - 旧河野派が分裂し、中曽根派が結成される。
1967年(昭和42年) - 第2次佐藤内閣第1次改造内閣の運輸大臣に就任。 第12代拓殖大学総長に就任(1971年より名誉総長)。
1970年(昭和45年) - 第3次佐藤内閣で防衛庁長官となる。
1971年(昭和46年) - 第3次佐藤内閣改造内閣で自民党総務会長に就任。
1972年(昭和47年) - 第1次田中角榮内閣の通商産業大臣に就任(科学技術庁長官兼務)。第2次田中角榮内閣では通産大臣専任となる。
1974年(昭和49年) - 三木内閣で幹事長に就任。


ロッキード社が全日空などに資金を流したのは1972年のこと。(ニクソンショックは1971年8月15日)
事件の中心となった田中角栄首相は1972年8月末にハワイで行われた「田中・ニクソン会談」においてロッキード社の航空機の購入を約束したという。
 全日空用:大型旅客機(エアバス)L-1011トライスター
 防衛庁用:戦闘機F-15・対潜哨戒機P3C
全日空もロッキードも民間企業である。国家に直接関係があるとすれば防衛庁のほうだ。
国家のトップにいた田中首相が軍用機の購入(採用)を約束したというならば、何故30億のうちの5億しか流れなかったのだろうか?

1970年からロッキード事件発覚までの防衛庁長官(6年で8名だから平均1年未満で交代)
 中曽根康弘 1970年1月14日 - 1971年7月5日
 增原惠吉 1971年7月5日 - 1971年8月2日
 西村直己 1971年8月2日 - 1971年12月3日
 江崎真澄 1971年12月3日 - 1972年7月7日
 增原惠吉 1972年7月7日 - 1973年5月29日 ←田中・ニクソン会談が行われた期間の長官
 山中貞則 1973年5月29日 - 1974年11月11日
 宇野宗佑 1974年11月11日 - 1974年12月9日
 坂田道太 1974年12月9日 - 1976年12月24日

增原惠吉の娘は丸井(デパート)の2代目(青井忠雄)に嫁いでいる。(それはどうでもいいですか?)
增原惠吉は、佐藤栄作内閣と田中角栄内閣で防衛庁長官に就任しているのだが、どちらも短期間で引責辞任。
 1971年7月30日 全日空機雫石衝突事故 
 1973年5月26日 内奏(天皇への国政報告)問題

全日空機雫石衝突事故 
岩手県岩手郡雫石町上空を飛行中の全日本空輸の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が飛行中に接触し、双方とも墜落した。自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡した。1985年(昭和60年)8月12日に日本航空123便墜落事故が発生するまで、日本国内の航空事故としては最大の犠牲者数を出した事故であった。
乗客のうち122名は団体旅行客で静岡県富士市の吉原遺族会の北海道旅行団一行であった。


吉原遺族会の吉原とは静岡県富士市吉原の吉原。(東海道五十三次の14番目の宿場が吉原宿)
大東亜戦争戦没者遺族の全国組織として設立された日本遺族会(といっても財団法人)。
各都道府県には独立した遺族会があるらしいが、吉原というのはさらにその支部だろうか。
それにしても自衛隊機と接触して墜落し亡くなるなんて何と言っていいのやら・・。
また增原惠吉の1か月未満での引責辞任というのも何ともかんとも・・・。


内奏(天皇への国政報告)問題
1973年5月26日、防衛庁長官の増原惠吉は昭和天皇に「当面の防衛問題」について内奏したとき、昭和天皇は、「近隣諸国に比べ自衛力がそんなに大きいとは思えない。国会でなぜ問題になっているのか」と述べた。増原防衛庁長官は「おおせの通りです。わが国は専守防衛で野党に批判されるようなものではありません」と述べると、昭和天皇は「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いことは真似せず、よいところは取り入れてしっかりやってほしい」と述べた。

増原防衛庁長官はこの内奏を新聞記者に紹介した上で、「防衛二法(防衛庁設置法、自衛隊法)の審議を前に勇気づけられた」と話した。しかし、現役閣僚が天皇の政治的言葉を紹介したことが5月28日に新聞記事に掲載され、「天皇の政治利用である」との批判をうけて政治問題化した。
問題が皇室に及ぶことを回避するため、5月29日に増原防衛庁長官は辞任した。

by yumimi61 | 2016-07-10 22:56