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日本国憲法の秘密-307-

■1939年8月 (ドイツ・ソ連)ドイツ・ソ連不可侵条約締結(ポーランド分割占領という秘密議定書含む)
■1939年9月1日 (ドイツ)西からポーランドへ侵攻(・・・これが第二次世界大戦の発端とされている)
■1939年9月3日 (イギリス・フランス)ドイツに宣戦布告(宣戦根拠は前月に締結したポーランドとの相互援助条約)
■1939年9月17日 (ソ連)東からポーランドへ侵攻
■1940年5月10日 (ドイツ)フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクへ侵攻
■1940年6月17日 フランス政府がドイツに休戦を申し込む(6月22日独仏休戦協定締結)(6月27日伊仏休戦協定締結)⇒抗戦派のド・ゴールがイギリスに亡命して「自由フランス」を設立。


枢軸国の原形となったのは、1936年11月に日本とドイツが締結した「共産インターナショナルに対する協定及附属議定書」(通称:日独防共協定)だった。
◎1936年11月 「共産インターナショナルに対する協定及附属議定書」を締結(日本・ドイツ)(通称:日独防共協定)
 1937年11月 イタリアが加盟(通称:日独伊防共協定)


共産インターナショナルとはコミンテルンとも呼ばれるソ連共産政権の国際組織。
ロシア革命および共産インターナショナルの指導者で、新たに樹立したソ連の最高指導者であったレーニンが1924年53歳で死去。
トロッキーとスターリンが後継争いをして、トロッキーが失脚。国外追放となる。
この時からソ連はロシア革命時のソ連とは違うものとなり、スターリンは一国社会主義論を推進した。
トロッキーも国外で活動を続けたが、トロッキー派が次々に粛清されていき、1940年8月トロッキーも殺された。

スターリンは1922年に新設されたソビエト連邦共産党中央委員会の書記長に就任していた。
当初これは事務官だった。中央委員会書記長は共産党事務官のトップであるが、政治家(指導者)ではない。
レーニンは書記長ではなかった。ソビエト連邦共産党中央委員会の政治局のトップ。政治局は中央委員会の幹部で構成された組織。共産党のトップだった。(日本的に言えば党首、自民党ならば総裁)
そしてソ連の人民委員会議のトップでもあった。これは内閣のようなものなので首相といった感じ。
君主制ではないので君主はいない。
従ってレーニンは政治的に間違いなく「最高指導者」であった。
レーニン存命中に設けられた事務職長のポストに就いたスターリンが、レーニンが死んだことをいいことに、権力をここに集め、共産党のみならず他の党にも幅を利かせるようになり、個人的な崇拝を得て、「共産党の書記長」でしかないにも係わらず、いつの間にやら「ソ連の最高指導者」になってしまったのである。
要するに自民党の事務官トップ(事務官って誰?幹事長は事務官ではないですよね?)が選挙も政治的背景も何もなく日本の最高権力者になっていたということである。
レーニンとスターリンの時代は全然違うのだ。


共産インターナショナルを脅威に思っていて反共産インターナショナルだった日本・ドイツ・イタリア。
この3国は、反共産インターナショナル、反トロッキーという点においては、ソ連のスターリンと気が合ったわけである。
国の最高権力者であり、軍隊を統帥していたのは、日本では昭和天皇、ドイツではヒトラー、イタリアではムッソリーニだった。
・日本(大日本帝国)の昭和天皇は君主で元首。首相は別にいる。
・ドイツ(ドイツ国)のヒトラーは最高指導者(総統)で元首。首相はいない。カトリックと政教条約。
・イタリア(イタリア王国)のムッソリーニは首相。君主(国王)が別にいる。国王は国家指導者として、全体主義(権威主義)のムッソリーニと協力関係にあった。カトリックと政教条約。

前にも述べたが、イタリアはカトリック教会とも政教条約を結んでおり、宗教指導者(ローマ教皇)とも協力関係にあった。1929年ラテラノ条約(バチカン市国を誕生をさせた)。
国家が教会の権利を保障し、信徒とカトリック施設の保護を約束するものである。
ドイツにナチス政権が誕生した1933年、ナチスとバチカンも政教条約(ライヒスコンコルダート)を締結している。


◎1940年9月27日 「日本国、ドイツ・イタリア閒三国条約」(昭和15年条約第9条、日独伊三国同盟)締結
反共産インターナショナル・反トロッキーで結ばれた日独伊の3国にとっては、トロッキー派の粛清やトロッキーの死(1940年8月)で当面の敵がいなくなったことになる。
3国はトロッキーが殺された翌月に改めて三国同盟を結んだ。
今度は条約名で敵を名指ししなかった。
フランスはすでにドイツとイタリアと休戦協定を締結したのだから、ドイツとイタリアにとって残る敵と言えばイギリス。あるいはプロテスタント。

日独伊三国間条約では1936年(昭和11年)の日独防共協定、1937年(昭和12年)の日独伊防共協定では曖昧だった三国の協力関係が具体化され、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認、調印国いずれか1か国が第二次世界大戦のヨーロッパ戦線や日中戦争に参加していない国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると取り決めがなされた。

同盟を組む3国のみの指導的地位の相互確認には大した意味はない。実効力はない。
問題は軍事協定である。
「調印国のいずれか1か国が第二次世界大戦のヨーロッパ戦線や日中戦争に参加していない国から攻撃を受ける場合に相互に援助する」
参加していない大国でまず思い出すのはアメリカ。
1940年9月の段階で3国はアメリカを敵にすることを想定していた。

一方でこれは、「すでに(二次世界大戦の)ヨーロッパ戦線や日中戦争に参加している国から攻撃を受けた場合には相互に援助しない」という意味になる。
すなわちイギリスやフランスやソ連が日本を攻撃することがあっても、ドイツやイタリアはそれに対してのアクションはとらないということであるし、中国がドイツやイタリアを攻撃してきたとしても日本の援助は必要としないということである。
日本には必要以上にヨーロッパに関わって欲しくないという思惑が透けて見える。
by yumimi61 | 2016-08-02 17:38