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日本国憲法の秘密-308-

◎1936年11月 「共産インターナショナルに対する協定及附属議定書」を締結(日本・ドイツ)(通称:日独防共協定)
 1937年11月 イタリアが加盟(通称:日独伊防共協定)

■1940年8月 共産インターナショナルを推進していたトロッキーが暗殺される。

◎1940年9月27日 「日本国、ドイツ・イタリア閒三国条約」(昭和15年条約第9条、日独伊三国同盟)締結


■1940年10月3日 (フランス) ドイツ占領下にあったフランスで「反ユダヤ法」可決

1940年6月の休戦協定においてドイツと戦いを続けるべきだというフランスの抗戦派は拘束され、一部はイギリスに亡命して「自由フランス」を設立した。
この「自由フランス」がなかなか曲者で、対ドイツでロンドンに亡命したとなれば、親イギリス派のように思えるのだが、キリスト教や十字軍への信奉があると考えられる。
そうなると、どちらかと言えば、親イタリア派・親ドイツ派ということになる。
イタリアとドイツの敵がイギリスやプロテスタントならば、「自由フランス」だってそれに近いはずである。
イギリスにとっては戦争中に亡命を装った敵が国内に侵入してきたということになる。

ドイツ占領下にあったフランスとは休戦派(和平派)であったわけである。
そのフランスで「反ユダヤ法」が可決された。
「反共産インターナショナル」と同じで敵を名指しのタイトルである。
反ユダヤ法とはナチス・ドイツの占領下にあった当時のフランスが、ユダヤ人社会を規制するための法律である。ユダヤ人の定義、ユダヤ人の職業の自由など細かく規制している。これによりフランス内でユダヤ人の生活はより厳しくなった。

ユダヤ人迫害の急先鋒ドイツでさえ「反ユダヤ法」という法律は制定していない。
ドイツと戦う気が無く、神や君主を否定しないフランス国民、高齢や伝統を重んじるフランス国民、すなわちロイヤリティーが比較的高いフランス国民。(こうなるとフランスの市民革命も国民にそれほど支持されていなかった可能性もある)
そんな国民性を持つフランスを放っておくと、ユダヤ人に馴染み、影響を受けてしまう可能性がある。(お金も借りちゃうし?)
それを防ぐためにフランスには「反ユダヤ法」が必要だった。
ユダヤ人を敵にする者にとっては、フランスに「反ユダヤ法」を制定することに大きな意味があった。


ドイツにナチス政権が誕生した1933年。
この時にはまだドイツにも大統領がいた。大統領に推薦される形で首相に就いたのがヒトラー。
翌1934年に大統領が死去するも後任を選出することなく、ヒトラーが総統となり最高指導者・元首となったのである。
先に述べたように、第一次世界大戦(1914-1918)で敗北し、天文学的賠償金を課せられたドイツには不満が鬱積していた。
ドイツの中央政権転覆を謀るミュンヘン一揆が起こったのが1923年。ナチス党員だったヒトラーも首謀者の一人だった。一揆(クーデター)は失敗するもヒトラーが台頭する。

1930年 ヤング案発効
 ・・ヤングはアメリカGEの会長。ヤング案の会議はJ.P.モルガンが中心となった。
国家賠償金に関してだが民間人による会議。債権国からの参加も銀行関係者(民間人)であった。 
ヤング案では「国際決済銀行に関する条約」と「国際決済銀行定款」が採択され、賠償金の支払いを円滑化させるための機関としてBIS(国際決済銀行)を設立した。
銀行の元締めが中央銀行ならば、中央銀行の元締めが国際決済銀行(BIS)である。従って「国際金融マフィア」とも言われる。


このままではユダヤの金融マフィアにドイツが乗っ取られる、ドイツにはそんな思いがあったのではないだろうか。
ドイツ国民保護を目的とするのに、国民の権利を狭めるとは意味が分からないと思うかもしれないが、統率のためである。反分子・異分子の自由を奪うことが目的。

1933年2月4日、ヒンデンブルク大統領に「ドイツ国民保護のための大統領緊急令」を出させて、ヴァイマル憲法によって認められていた言論の自由や政治集会の自由などの国民の権利をいくつか停止し、反ナチ党的言論の取り締まりを開始した。
1933年2月28日、「国民及び州保護のための大統領緊急令」を出させて国民の権利停止の範囲を拡大し、人身の自由や私有財産権などの国民の権利を停止させた。

この大統領緊急令に「公共秩序を害する違法行為は強制労働をもって処する」という条文が出てくる。「強制収容所(Konzentrationslager)」という言葉や「保護拘禁(Schutzhaft)」という言葉は出てこないが、この大統領緊急令が反ナチ党分子を保護拘禁して強制収容所へ送り込む法的根拠となった。
ちなみにこの大統領緊急令はヴァイマール憲法48条が非常時には憲法を停止することを認めていたことに準拠していた。


国家緊急処置(超法規的措置)
国家緊急権とは、戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止するなどの非常措置をとることによって秩序の回復を図る権限のことである。

緊急権とは立憲主義、議会制民主主義、文民統制を基調とする国家において、国家の平和と独立を脅かす急迫不正の事態または予測される事態に際して、一刻も早い事態対処が必要と判断される場合において、憲法の一部を停止し、「超法規的措置」によってこれらの危機を防除しようとする権能である。多くの国家の憲法、特に大陸法をとる国のほとんどの憲法には緊急権の規定があり、存在していない憲法は少数派である

憲法制度上の国家緊急権とは、憲法自身が緊急時に自らの権力を停止し、特定の機関に独裁的権力を与えることを認めるものである。この例としては英米法にあるマーシャル・ローや、ヴァイマル憲法第48条(大統領緊急令規定)、フランスにおける合囲状態(フランス語: l'État de siège)などがあげられる。一方で超国家的緊急権が発動される事態は、憲法の枠組みを超え現行の法体系に拘束されない超憲法状態、すなわち違憲状態である


英米法においては憲法自体に緊急権の規定はなく、コモン・ローや個別立法によって緊急権が定められている。
・フランス共和国憲法(第二、第四、第五)、ドイツ帝国憲法、ヴァイマル憲法、ドイツ連邦共和国基本法には国家緊急権の規定が存在する。
大日本帝国憲法においては、天皇が国家緊急権を行使する規定が制定されていた。
日本国憲法においては国家緊急権に関する規定は存在しないとする見方が多数的である。
(統一見解はない)

ドイツの大統領は、国際金融マフィアからドイツを保護するために、ヒトラーを利用することを考えた。
若すぎず年寄り過ぎず(ヒトラー当時44歳)、クーデターを企てるような気鋭さを有し、且つヘテロドックスでもある(ヒトラーはオーストリア人でドイツに帰化した人物なので、生粋なドイツ国民が異端者を排除するよりも人種的問題になりにくい)
また当時のドイツはユダヤ人だけを排除しようと思っていたわけでもない。
ドイツは反共産インターナショナルだったことからも分かるように、第一次世界大戦の後遺症で「国際」に拒絶反応が起こっていたのかもしれない。

左翼政党のドイツ共産党とドイツ社民党は反ナチ党分子の代表格であり、ナチ党にとっては真っ先に社会から隔離すべき者たちであった。しかし彼らを「犯罪者」として刑務所に投獄するには裁判で有罪判決を下す必要がある。裁判では不確実なうえに時間がかかる。そこで左翼を「犯罪者」ではなく「潜在的な危険分子」として保護拘禁して強制収容所に収容することとしたのである。

初期のナチス強制収容所は人種だけを理由とした収容は無く、共産党や社民党など左翼の政治家・活動家が被収容者のほとんどであった(結果的にその中にユダヤ人がいるということはあった)。ちなみにユダヤ人がユダヤ人という理由だけで強制収容所に入れられるようになったのは戦時中のことである。またこの頃の強制収容所はあくまで再教育して社会復帰させることが主眼であったので、収容所の環境は必ずしも劣悪ではなく、左翼思想さえ捨てれば出られる見込みは十分にあった。


現代の観点からみるとドイツ労働者党(1933年まで野党)も左翼のように思うが、「ドイツ共産党」や「ドイツ社民党」という左翼を嫌ったのである。
共産インターナショナルが背景にある国際主義↔国家主義という対立構造なのか、ナチスが政権政党になってからの与党↔野党という対立なのか、それとも全体主義(権威主義)↔個人主義(自由主義)という対立なのか、優生思想(強くあれ)↔劣生思想(弱くて何が悪い)という対立なのか、ちょっと良く分からない。

ひょっとすると大統領は、(ヤング案などに対する)不満が爆発してあちこちでクーデターが勃発し、国家が混乱状態に陥るのをひとまず納めたかっただけなのかもしれない。
またヒトラーのように外国人のくせに(ドイツ軍に入隊していたけれども)クーデターを起こすとなれば、いずれドイツはクーデターによって外国人に乗っ取られるかもしれない、そんな国家緊急事態だったのかもしれない。


収容者ははじめ政治犯が中心であった。しかし1935年頃から「予防拘禁(Sicherungsverwahrung)」を受けた「常習的犯罪者」も強制収容所へ送られてくるようになった。ヒムラーがドイツ警察長官になるとその傾向は強まった。
さらに1937年には保安警察長官ハイドリヒが「あらゆる反社会分子を片っ端から強制収容所に入れろ」と命令するようになり、同年末にはそれを正当化するために内務大臣より予防拘禁の範囲を拡大して「反社会分子」も対象とする旨の政令が出された。
「反社会分子」には暴力団、売春婦、乞食、浮浪者やジプシー(ロマ)のような住所不特定の者、労働忌避者、同性愛者、アルコール中毒者、訴訟を大量に起こしている者、交通規則違反者、絶えず職場に遅刻する者、無断で休暇を取る者、自分の職務以外の仕事を勝手に引き受けている者など広範な者が含まれた。
(やばいな?)

1938年1月には1934年4月に制定された内務省の「保護拘禁規則」が改定された。保護拘禁の対象は政治的敵対者に限定せず、「その行動が民族や国家に危険を及ぼす者」全てに適用されることとなった。これによりこれまで予防拘禁によって強制収容所へ送られていた「常習的犯罪者」や「反社会分子」も保護拘禁によって連れてこられるようになった。そして保護拘禁の権限はゲシュタポにしかないことが明示された。

第二次世界大戦中にナチスが知的障害者・身体障害者・精神障害者を収容し、安楽死と称して殺したとされるプログラム(作戦)は現在「T-4 」と呼ばれている。
相模原の施設で起きた事件はこれを踏まえたものだと思われる。
反社会分子を片っ端から収容所送りにするという予防拘禁は、反分子に「犯罪性」や「悪いところ(欠点)」がないと出来ないものである。(よく別件逮捕で軽微な違反で引っ張ってくることがあるが、そんな感じ)
保護拘禁は違反や悪いところがこれといって見つからない人も拘禁したい時に有効となる。
罪を憎んで人を憎まずではないけれども、教育が足りないから悪いことをしてしまうのだろうということで、保護して教育してあげようという根拠で拘束する。
知的障害者・身体障害者・精神障害者も同じ。保護と称して収容できる。実際には障害者でなくとも、そのレッテルを張りさえすれば引っ張って来れる。
おそらく実際には障害者ではない人が随分含まれていたのだと思う。
誰かから見ると脅威で危険人物、従って拘束したいのだが、その根拠(正当性)がない。そこで保護という名目で拘束した。それこそ全く罪のない人達である。
(そういう意味で、現代の日本の画一的な心理テストやストレステストも危険である。それを言ったら健康診断や人間ドッグの類も同じかもしれないですけれどもね)

ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である。1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「ティーアガルテン通り4番地」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を短縮したもので、第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である。一次資料にはE-Aktion(エー・アクツィオーン)〔E作戦〕、もしくはEu-Aktion(オイ・アクツィオン) の名称が残されている。


ユダヤ人も長い歴史においては、流浪の民と言えなくもない。
ある時は自発的に、ある時は権威者や為政者の保護を受けて、集団生活をした。
ユダヤ人は皇帝や自治体の資金源であったこともあり、ユダヤ人移住地域も作られた。
ユダヤ人は、嫌われる・迫害、重宝される・厚待遇、こうした2つの側面を持つ。
1人が2つの側面を併せ持つこともあれば、集団の中に2つの側面があることはもちろんある。
ユダヤ人はその差がかなり大きかったようである。
従ってユダヤ人を1つの側面で語ることは難しい。
(特別に保護されるという不公平感から嫌われるということもあったのではないかと想像できる)

ドイツには1200年頃からユダヤ人移住区(フランクフルト・ゲットー)があった。
様々な歴史を経て、1871年にユダヤ人は正式にドイツ国民となった(ドイツ帝国の成立による)。
以降ドイツのユダヤ人はドイツ国民としての権利を有したが、その後もユダヤ人に対しては住居に関することなど、ある程度法的保護があった。

19世紀後半になると旧ゲットーからはユダヤ人はほとんど姿を消していた。庶民ユダヤ人は旧ゲットーの周辺のフランクフルト市東部地区などに固まって暮らし、ユダヤ人居住区を形成した。一方金持ちユダヤ人は西部の高級住宅地などへ移り、キリスト教徒の金持ちと一緒に暮らすようになった。フランクフルト東部に形成されたユダヤ人居住区は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)政権期にフランクフルト・ユダヤ人が一掃されるまで存在し続けた。
by yumimi61 | 2016-08-03 10:54