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日本国憲法の秘密-313-

「愛の反対は憎しみではなく無関心」
日本ではマザー・テレサの言葉としてよく知られている。
でも慈善とかキリスト教とかの本場である外国人が知らなかったりする。(これだから無知はいやね?)
どうもマザー・テレサの言葉ではなく、そんなに有名な言葉でもないらしい。
日本でマザー・テレサの言葉として有名になった原因は、公共広告機構(現・ACジャパン)の広告。
公共広告機構(ACジャパン)と言えば、東日本大震災の時に広告が垂れ流されたことで有名だと思うが(あのCMを見るだけで気が滅入ると人もいた)、マザー・テレサが登場したそのCMは1981年だった。

検証:なぜ「愛の反対は無関心」がマザー・テレサの言葉になってしまったのか?

上記サイトでは、エリ・ヴィーゼル(米国のユダヤ人作家。ノーベル平和賞受賞者)の言葉ではないかとしている。
”The opposite of love is not hate, it’s indifference.
The opposite of beauty is not ugliness, it’s indifference.
The opposite of faith is not heresy, it’s indifference.
And the opposite of life is not death, but indifference between life and death.”

【訳】
愛の反対は憎しみではない。無関心だ。
美の反対は醜さではない。無関心だ。
信仰の反対は異端ではない。無関心だ。
生の反対は死ではない。生と死への無関心だ。

出典は「US News & World Report (27 October 1986)」となっています。
また、同じ出典を持つ言葉に、
”Indifference, to me, is the epitome of evil.” 
(無関心とは、私にとって悪の典型だ)

というのもありました。


無関心という言葉のイメージがあまりよくないので誤解を与えそうだが、「愛の反対は憎しみではなく無関心」という言葉は的を射ている。
愛を信仰や崇拝に置き換えてみる。愛(信仰や崇拝)の反対は無信仰や無崇拝である。決して憎しみではない。
愛(信仰や崇拝)が存在する時のほうが憎しみの感情は起きやすい。

同じ宗教を信仰していたとする。
しかしながら意見の合わないことがあった。「それは教義と違う」「これくらいはいいでしょう、時代に合わせて変わる必要があるわよ」とどちらも譲らない。
あるいはともに「それは教義と違う」「それは教義と違う」と、解釈の違いで揉めるかもしれない。
「どうして分からないの!」「信者のくせにどうしてそんなことするの!」 火花バチバチ。
信仰心はあるのに、相手が憎くなる。

違う宗教を信仰していたとする。
どちらも自分の信じているものが一番だと思っている。
一神教を謳う宗教ならば信者がそれを信じるのは当然のことだ。
「私達の教義が正しい」「いいや間違えている」 火花バチバチ。
信仰心はあるのに、相手が憎くなる。

信仰心があるがゆえに許せないことがある。
愛する身内だからこそ許し難いことも、赤の他人ならば笑ってやり過ごせたりする。
愛する人が死んでしまえば長いこと悲しみから立ち直れないかもしれないが、赤の他人ならば可哀想と思ってもその悲しみは瞬間的。

憎しみは愛の中に生じるものであり、愛の反対ではない。
愛の反対は無関心で間違いない。
上の訳の「信仰の反対は異端ではない。無関心だ。」という言葉がそれをよく表している。


フランスやロシアの国民はロイヤルティが高いと書いたが、それは神や君主への信仰心が高いということにはならない。
憎しみの感情が起こりにくい状態にある。良い意味で無関心なのだ。
神や君主の存在、それを誰かが信仰することをいちいち否定したりはしないけれども、自身が積極的に信仰しているわけでもない。でも義理はある。
形だけというか、距離を置いているというか、中立というか、そんなことを特段考えたこともないほど興味が無いというか受け入れているというか。
無関心や興味がないから人に冷たいということでもない。信仰を介さない優しさだってあるだろう。人情もある。
普段は優しくしようなんて考えていなくても、目の前に困っている人がいたら自然に手を差し伸べるということは些細なことなら結構多くの人がしていると思う。
でも命をかけて助けなければならない状況では無理かもしれない。だからといってそれを責めることも出来ない。

しかし逆に信仰を持つ人が信仰を持たない人に憎しみを抱くことはあると思う。
「無関心」への反感・反発・攻撃である。
それもこの言葉に集約される。
「信仰の反対は異端ではない。無関心だ。」
本当に憎むべきは異端者でなく無関心な者だという意味になる。

こんなに凄いのにどうして見てくれない?
こんなに凄いのにどうして凄いと言ってくれないのだ?
こんなに凄いのにどうして私を好きにならない?
こんなに凄いのにどうして無関心でいられるのだ?

’こんなに凄い’を強調するためには、どんどん装飾が施される。
目立つこともしなければならない。
1人で無理ならば組織戦。
情報戦・心理戦・宣伝戦、なんでもよいから世間をこちらに振り向かせほしい、そうなってしまう。


日本も比較的無関心の国だと思う。だから上手くやってきたところがある。
ただ日本のそれを「良い意味での無関心」や「ロイヤルティ」と言いきれないのは、フランスやロシアとは国の歴史が違うから。
日本にも君主がいたことはいたが、君主が絶対的な権力を握って1つの国を動かした時代がほとんどない。
君主がそれほど目立たない国だった。君主・公家・将軍・大名(武士)などはプロパガンダ(多くの思想を限られた人に与える手法)で調和が取れていたのかもしれない。
庶民の実生活は共同体が主となっていて全国一律ではなかったが、それぞれでそれなりに回っていた。
民衆と宗教の間にはかなり距離があって、諸外国との宗教観とはだいぶ違う。
すなわち国自体が神や君主に庶民が無関心であることが当たり前な状態となっていた。
君主や宗教とともに歩んできたヨーロッパの国とはかなり違う。
これも誤解を与えそうだが、無関心ではなく無知であったということができる。(物事を知らない無知ではなく、君主が権力を振るうということに縁がなかった。知らなかったということ)
民衆が権力を感じるとしたら君主ではなく共同体の中心となっている人物だったはず。

明治時代にそれが一変した。
帝国を名乗り、帝国の絶対的権力者である天皇が誕生したのだ。
そして次々に外国相手に戦争を行った。
第二次世界大戦後の憲法では、天皇は象徴という存在になった。
国民主権を定めた新憲法に象徴天皇を残した理由・・・
これはひょっとすると明治時代以前の「目立たないながらも確かに存在した君主」への懐古的情なのかもしれない。
by yumimi61 | 2016-08-07 15:11