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日本国憲法の秘密-318-

足並みを揃える、カルテル、自由競争のない世界には、本当の強さはない。
上にも下に人がいて高さもまちまち。そこにフラットな線を引く。
フラットは平等ということだ。下にいる人に無条件にプラスされ、上にいる人は無条件にマイナスされる。
平等な世界には、絶えずプラスの喜びを感じる人と、絶えずマイナスの悲しみや苦痛を感じる人が存在している。

共同体が使うお金として税金を徴収する。謂わば会費のようなものである。
共同体の一種である自治会やPTAなどは会費は金額が一律だけれど、共同体会費の税金は所得などによって違う。
でも助け合いの精神で運営されるものだから多く持っている人が多めに出資するのはある意味当然。
多めに出資すると言っても所得に対する比率で計算され、所得自体を均一(フラット)にするわけではない。
この場合の平等は、金額の平等ではなく、負担の平等ということになる。
再三言っているけれど、慈善活動などに積極的でありながら、共同体の助け合いに用いられる税金は払いたくないというのでは道理が通らない。
それでは「税金逃れの隠れ蓑としての慈善活動」「利益追求のための一手段としての慈善活動」と言われても仕方がない。
共同体の会費である税金から逃れたい一因は、共同体の一員という意識が希薄だからではないかと考えられる。

福島原発の事故があった。
その時に「あんな所に住んでいたなんて信じられないよねー」とか「あんな所にまた住みたいという神経がしれない」とか「あんな所の何処がいいわけ?」とか言われて怒ったり悲しんだりするのは、共同体への帰属意識があるから。
目的が無く、偶然に同じ所に住んでいたという偶発的集団だが、政治や経済、風習や慣習などを共有してきた小さくて濃い社会的な繋がりを持つ人々の集まり。
「あんな所」と言う側もさして根拠がなく言っており、怒り悲しむ側も漠然とした怒りであり悲しみである。
あえていうならば、その共同体に属していた自分を否定されて傷づいていると言えるかもしれない。
アイデンティティへの攻撃を受けて混乱している。
もっと進めば劣等感や罪悪感に繋がる。
目的や目標がないだけに、論理的に心を整理することが難しく、揺れ動きやすいものなのだ。
共同体にはもともと目的や目標がないので、求心力や結束力が弱く簡単に離脱する者も出てくる。

福島の農家ということで考えてみる。
江戸時代前は共同体を担う大事な存在だったが、明治期以降は農業も産業的要素が強い。
昨日の記事で「欧州石炭鉄鋼共同体」は共同体ではないと書いたが、福島県の農業も共同体ではない。産業である。
「福島の野菜は食べないほうがよい」こんな評判が広がれば、福島の農業は大打撃だろうけれども、でもそれは共同体全体の問題ではなく農家の利益の問題となる。
災害などの場合には「一農家」よりももう少し範囲が広くなって「地域の農業」ということになる。
何らかの理由で、福島の町工場、福島の商店の利益が落ちることと同じ。
(共同体の税金からみれば、古くからの地元商店街の収入が落ちて税収が減っても、大型ショッピングセンターがやってきて税金を落としてくれたら万々歳ということになる)
観光地の観光収入が落ちることも同じ。(観光地と言ったって共同体の全ての住人が観光に関係した職業に就いているわけではない)
本来共同体とは関係ない話であるが、これを共同体と切り離せないのは税収が落ちる(共同体会費収入減となる)から。
あらゆることには良い時もあれば厳しい時もある、そんなことは分かっていることだから、端からそれを踏まえて余裕を持って会は運営されるべき。
(お金がないのに歯止めが効かない共同体ほど性質が悪いものはない)
しかし突発的な出来事でどうしても会費が足りなくなるというならば、その時は国家(公的機関)や慈善家が寄付してやるなり、無利子で貸し付けてやればよい。
「食べて応援」だとか「観光に行って応援」だとかは筋違い。余計なお世話。

共同体ではなくてアソシエーションなものを共同体的に扱うと、災害がある意味手段になってしまう。
それに味を占める人が出てくる。
自由競争を棄てた世界にどこか安堵してしまう。
一時的には良いかもしれないが、全ての人が自由競争を棄てていない状態では、いずれ呑みこまれたり付け込まれたりする。要するに競争力を失うということである。


ヨーロッパは国を超えての活動や行き来が活発である。
世界的に見ると、EUが設立される以前より1つの大きな共同体である。
だからロシアで設立された「ロシア社会民主労働党」がベルギーで党大会を開催したりするなんてこともある。
その「ロシア社会民主労働党」は、民族自決と文化的自治という考え方によって分裂した。
文化的自治を主張して大会を離脱したのは、「リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟(別称:ユダヤ人労働者総同盟・ユダヤ人ブント・ブントなど)」の代表者だった。
これがボリシェヴィキ(多数派)(レーニン派)とメンシェヴィキ(少数派)(離脱組)という派閥を形成する発端となった。

メンシェヴィキを少数派と言うが、党大会にて文化的自治を支持したのが少数であっただけのことで、ヨーロッパの社会主義運動においては広い支持を得ていた。
レーニンの考えは、民族の事は民族で決めよう、民族の単位は土地をベースにしようというものである。
「民族以外の人や民衆ではない君主が民族の事を決めるのではない、民族民衆自身で決めるのだ」ということなのだが、多くの人をまとめて物事を決めていくにはやはりリーダー的存在(指導者)が必要である。
しかしこのリーダー的存在が誤解のもととなってしまう。
つまりリーダー中のリーダーがレーニンということで、結局レーニンが権威権力者(指導者)になるつもりだろうと見做されてしまうのだった。

メンシェヴィキは統率の緩やかな集団であり、強力な指導者がいない代わりに、著名な古参革命家を数多く含んでいた。
彼らの活動の原点も共同体を理想としたナロードニキ。
農民を奮起させて革命を起こそうとしたが失敗に終わった。
その中から「人民の意志」というグループが生まれ、テロリズムに及んだ。
皇帝暗殺に成功して党の中心人物が処刑された後、「人民の意志」では理論派だったレーニンの兄がマルクス主義を持ち込んだ。
それと同じように著名な古参革命家らもマルクス主義を受け容れることで農民革命ではなく工業プロレタリアート(工場で働く賃金労働者)革命に変化し、来るべき革命は「ブルジョア革命(市民革命)」であるとの見解をとるようになったらしい。

「ブルジョア革命」のブルジョアはブルジョアジーの略語で市民と訳される。
ブルジョアジーには2つの意味があって、1つは貴族(上層階級)と農民ではない人のこと。
貴族が上の層で、農民が下層という認識がある(気付いていないのかもしれないが、すでに差別意識を持っている)ので、その間の中間層のこと。かなり多くの人がここに含まれた。奴隷を辞めて工場の労働者になったらブルジョアジーになれたわけである。
その後、その中間層にも変化が出てくる。いわゆる格差というやつだ。
貴族ではないが多くの財産を持つ裕福な人や資本家と、単なる賃金労働者は分けて考えられ、有産や資本家階級をブルジョワジーと言った。
また教育者や医者などの職業に就くものは(財産が多くても少なくても)知識人としてブルジョワジーに仲間入り。ブルジョワジーをもっと大きくする場合にはホワイトカラーの人達をも含める。(この範囲は時と場合によって流動的)
この段階にくると、ブルジョワジーとプロレタリアートは対義語となる。
お金や知識を持っている人と、単なる使用人(工場の賃金労働者や肉体労働者など)ということ。
フランスの市民革命などは資産家などが中心となったが(民衆には支持されていなかった可能性あり)、ロシアの古参革命家が目指したのは単なる使用人(工場などの賃金労働者)の革命である。

メンシェヴィキは、多くの思想を限られた人に与えるのが良いという訴えるレーニンを、曖昧なことが嫌いではっきりと線を引き型を作ろうとするレーニンを、「中央集権主義」だと非難した。

国家統治の正統性の唯一の担い手である君主が統治の全権能を自己のものとして自由に政治権力を行使するのが専制君主制(または絶対君主制 )である。これを独裁と言うことも多い。
中央集権は権限と財源が国家(中央政府)に一元化されている状態。君主のように1人ではなく、小さな集団が全権力を握っている状態。
前に独裁なんていう形態はありえないと書いたが、専制君主制と中央集権はセットになっていることが多い。(現代ではこの中央集権を握るのが「公正な民主主義の選挙で選ばれた国民の代表者」であるがゆえに革命は非常に起こりにくい状態となっている)
君主が中央政府を信頼して一定の権利を譲ったり任せていれば制限君主制ということになるが、この場合にも、法的に制限君主制になっている場合と、法的には専制君主制だけど実質的には中央集権という場合とがある。
だからメンシェヴィキにとってはレーニンが大きな変革を希望している革命家には思えなかった。
自分が君主にでもなろうとしているか、君主然として多くの権力を集めたいだけではないか、そう感じた。
でもレーニンは思想のことを言っていたわけで、権力のことを言っていたわけではない。ここが平行線だった。


現代社会はみな、下層と見做している第一次産業従事者やプロレタリアート(工場の賃金労働者)にならないように、必死で勉強したり習い事したりして「優越学校」や「優越企業」に行こうとするのである。
さらに都市は先進で上層で、地方や田舎は後進の下層だと思っている。
生まれ落ちた時から差別意識いっぱいで生きている。
差別され嫌われる場所は敬遠される。何でも都市に集まり、地方は過疎化する。
差別され嫌われる職業となれば国内では敬遠される。企業は仕方なく海外に出たり、工場に人を使わなくてもよいようにと機械化コンピューター化する。
そのぶん国内では職を失う人が増える。
下層に行かないために(工場などの需要が減ったため受け皿としての)大学に行ってはみたものの別に上層に行けるわけでもない。
大学が雇用を生み出すわけではないのだから、それはそうだ。
(それが分かっているから雇用需要がありそうな医療福祉系大学がわんさか作られた。でも医療福祉系事業体は利益追求しにくい現場でもあり、どちらかというと補助を受ける側であって税金を沢山落としはしない)
お金は余分にかかったのに職はない。借りたものを返せない。
外国資本であろうがなりふり構わず職を提供してくれる者にすがる。
個人レベルではそれでも良いが、その外国企業が税金逃れで税金を落とさなかったら、自治体や国にとっては何もいいことはない。
一方で「優越企業」が優遇されているのはおかしいと槍玉に挙げるのが好き。全て個人レベルの平等話に終始し国家情勢や国際情勢なんかまるで関係なし。
悪循環。
by yumimi61 | 2016-08-11 11:46