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日本国憲法の秘密-321-

物事には大抵裏表がある。波は寄せては返し、ほとんどの道は行くことも戻ることも出来る。
すなわち反対があることが多い。
でも川は違う。川はいつでも同じ方へと流れていく。高い方から低い方へ。山から海へ。反対に流れることはない。
人の人生も一方通行。年を重ねて、やがて逝く。反対は決してない。
川の流れにも人の一生にも奇跡はない。自然界を支配している揺るがない法則。自然の摂理。


レーニンという名は本名ではないことは前述したが、レーニンという語には「レナ川の人」という意味のあるそうだ。
レナ川はバイカル山脈(1,640m)を源にしている。
近くには琵琶湖の約47倍にも及び、透明度・水深・貯水量とも世界一を誇る三日月型の湖・バイカル湖がある。
福島第一原発事故の際には真水騒動もあったが、このバイカル湖は驚くべきことに世界中の淡水(真水)の20%ほどを貯水するという。(世界地図で見たら小さいのにと思うかもしれないが、世界地図に形が描かれるということは大きいということ。少なくとも太平洋諸島の島々よりもずっと大きいということになる。いかにロシアが広大であるかということが分かり、いかにシベリア鉄道に注ぎ込まれた資本が巨大だったかがよく分かる。じゃあ海は?そう、海は広いな大きいな)
バイカル湖は「シベリア」の真珠とも呼ばれ、ガラパゴス諸島と並ぶ「生物進化の博物館」とも称される。
とにかく大自然に抱かれレナ川は始まる。
ロシアのシベリア東部を北極海に向かって流れる世界で10番目に長い川、その長さ4,400km。
北半球でも有数の低温極寒地域を流れ、レナ川流域も大都市は少なく貴重な自然を今に残す。
またレナ川やその流域は金鉱や砂金に恵まれた地域である。
レーニンはレナ川を愛していた。

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上記地図は外務省の頁から拝借したもので、青い線のレナ川は私が書き込んだもの。
モスクワの上にサンクトペテルブルクとあるが、そこがロシア帝国の首都だった場所。
サンクトペテルブルクという名は「聖ペテロの街」を意味する。ドイツ語由来の呼び方。英語では"Saint Petersburg"(セントピーターズバーグ)である。
ペテロは新約聖書に登場する人物。すなわちキリスト教色が強い(旧約聖書はユダヤ教やイスラム教も共通点が多い)。ロシアはキリスト教(東方教会)(ロシア正教)の国であるが、カトリック・ローマ教会との関係は歴史的にみても微妙なところ。

過去記事より
イエス・キリストの十二使徒のひとりであるペトロもシモン・ペテロと呼ばれることがある。
イエスはケファ(岩や石という意味)という通名で呼んでいた。
このシモン・ペテロは筆頭弟子みたいな感じでリーダー格。
洗礼者ヨハネの子か弟子だったのではないかとも考えられている。
カトリック教会ではペトロを初代のローマ教皇とみなす。これは「天の国の鍵」をイエスから受け取ったペトロが権威を与えられ、それをローマ司教としてのローマ教皇が継承したとみなすからである。
また十二使徒には別のシモンがいて、こちらは熱心党員(熱心者)のペトロと記されている。ただ何度も登場しない。
さらに、イエスには兄弟姉妹がいるのだが、その兄弟の中にもシモンがいる。(ユダもいる)
イエスの兄弟名―ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ。
みんなどこかで聞いたことのある名前である。


過去記事より
イエスに香油をかけたのは、ルカでは罪の女、マルコとマタイでは女、ヨハネではイベリアのマリヤだった。
少し前になるが、新約聖書「ヨハネの黙示録」にある数字「666」に関する記事を書いた。
その時に、YouTube(ヨハネの黙示録666の正体)をリンクした。
そこにこんなことが書いてあった。
  聖書で「女」は「教会」だ(−ペト5:13)

そうだとすれば、イエスに香油をかけたのは、教会ではないのか?
ペトとはペトロ(ペテロ、シモン・ペテロ)のこと。
「ペトロの書」あるいは「ペテロの手紙」と呼ばれるもので、ペトロが書いたとされている2通の手紙である。
新約聖書に含まれる。
しかしペトロの書であることには疑義もある。


サンクトペテルブルクは第一次世界大戦が始まった(ドイツが敵国となった)1914年にペトログラードに改称された。意味は同じだけれどもロシア語由来になった。
ソビエト連邦が成立した1924年にレーニンにちなんでレニングラード と改称された。ソ連が崩壊する1991年までこの名称が用いられていたが、崩壊後の住民投票によってロシア帝国時代(ドイツ語由来)の名称に戻された。
但し、レニングラード州は今でも存在していて、その州都がサンクトペテルブルク市ということになる。(ソ連時代はレニングラード州の州都もレニングラード市だったということ)
しかし行政的にサンクトペテルブルク市は連邦特別市として州から独立している。


第一次世界大戦が起こって、ロシアでは君主制(帝政)が崩壊した。
しかしそこにはレーニンの名は出てこない。
帝政を崩壊させたのは国会議員とメンシェヴィキを中心にしたソビエトだったのだ。

レーニンは活動を始めた頃から常に弾圧の対象となってきた。
何故かと言えば、レーニンの兄が「人民意志」に属し、1986年にアレクサンドル3世皇帝の暗殺計画に関与したからだろう。
1895年にレーニンも逮捕投獄され、1897年にはシベリアに流刑となっている。
解放された後はスイスに亡命している。スイスで経済の実態に触れるという目的もあった。
1800年代はヨーロッパ全土に社会運動(革命)が広がった時期であるが、ロシアは特に1881年に皇帝が暗殺されており、これ以降、社会運動・共産運動を行っただけで逮捕されるという状況で、逮捕者は数百人にも数千人にも上ったと言われる。
従って裁判が終わるまでに数年かかる有様でその間も収監され、判決ではだいたいシベリアへ流刑となった。

「ロシア社会民主労働党」もレーニンが結成したわけではない。
レーニンがシベリア送りになっていた1898年3月に結成され第1回党大会が開催されたが、厳しい弾圧によって党はすぐに機能しなくなった。
その党をレーニンのグループが1903年に社会運動組織代表者が集まる党として再建させた。
レーニンのグループは経済主義に反対する活動家で、ともに政治新聞を創刊したのだが、この新聞編集局のメンバーが中心人物だった。
(しかし党はすぐにボリシェヴィキとメンシェヴィキに分派する。レーニン以外の新聞編集局の主要メンバーもメンシェヴィキに流れたためレーニンがボリシェヴィキのリーダーとなる)

では1903年の党大会以降、1905年の血の日曜日事件以降、レーニンは何をしていたのか?
革命の構想を練っていた。経済主義や資本主義、帝国主義などを分析し、本を執筆し出版したりしていた。

・経済至上主義への批判があった。
・経済を軸にした革命は労働者の中にくすぶる不満を栄養に育つものであって、それが外側(他の職種や階級)に広がって発展することはない、誰かが外から経済ではない思考も注入してやる必要があるという考えがあった。
・メンシェヴィキはブルジョア革命のブルジョアジーを資本家や知識人と位置付け、プロレタリアート(賃金労働者など)は側面から支援する存在としたが、レーニンはプロレタリアートと農民によるブルジョア革命を構想した。

党の代表者なのだから、もちろん党の活動も行っている。
党大会を継続して開催し、国会議員の選挙があれば選挙運動を行う。分派した党の調整も難航した。
当時のロシア国会議員の定員は450~500人ほどだったが、「ロシア社会民主労働党」が獲得できる議席は多い時で1割、だいたいは0.5割程度だった。


レーニンより9歳若いトロッキーも逮捕・収監・流刑になった1人である。ウクライナ出身。
彼の両親は(宗教的ではなく民族的な)ユダヤ人で、豪農の家庭だった。両親はせっせと働き、こつこつと貯蓄し、それを元手に土地を買っていき、大土地所有者となった。ユダヤ人らしい如才なさを如何なく発揮した。
ウクライナとユダヤ人の因縁はよく語られるところだが、そのウクライナに暮らしたユダヤ人(ユダヤ教への信心は薄かった)であった。
トロッキーは両親の意向により、ウクライナで3番目に大きいオデッサ市(港湾都市)のドイツ人学校に入学した。学費には国費が当てられる有名校だった。
ユダヤ人が迫害されていたとは言うが、ウクライナのドイツ人学校がユダヤ人子弟の受け入れているわけだから、そこまで酷い迫害があったとは思えない。(民族ユダヤ人ではなくユダヤ教信者ユダヤ人への迫害だろうか?)
なぜドイツ人学校なのかと思うかもしれないが、インターナショナルスクールだろうと思う。
港湾都市であったということからも、国際的な環境に置いておくことをトロッキーの両親は希望しており、息子はその通りに成長したということになる。
言語はどれも完全にマスターすることは出来ず流暢に話すということは無理だったが、ヨーロッパのユダヤ人が使用するイディッシュ語の他、ウクライナ語やロシア語、フランス語などもある程度出来たらしい。

トロッキーはレーニンが逮捕された3年後の1898年に逮捕されている。
1900年に4年間流刑の判決を受けた。(レーニンは1900年に刑期を終えて解放された)
そのシベリアの地にはすでに沢山の社会主義運動家が送られていた。
そして2つの大きな主張があることに気付くのだった。
①産業労働者の生活の向上の尽力に重点的に取り組むべきである。
②君主制の打倒と、よく組織化され規律を守る革命党が最も重要である。

目指すものは同じだとしても方法論が違う。②のほうが早急で直線的である。トロッキーは②を支持した。
そして自身も刑期を待たずに、1902年シベリアの地から逃亡するのであった。

逃亡すると簡単に言うけれど、冷静に考えれば極寒の地を横断することは容易ではない。
協力してくれる者がいなければ出来ないだろう。
実は彼の名トロッキーも本名ではない。シベリア送りになる前に収監されていた時の看守の名前だそうだ。
その看守本人ではないかもしれないが、看守にも何か恩があったのかもしれない。

トロッキーはレーニンやロシア社会民主労働党を追いかけ、スイスを経由してイギリス・ロンドンに亡命した。
上の①にはマルクス主義支持者などが当てはまり、②はナロードニキ推進者などが当てはまる。
レーニンは②とは少し違うみたい、そう思ったのかトロッキーはメンシェヴィキに所属した。
しかし1905年にそのメンシェヴィキを脱退。
大勢は②に①を取り込む手法に変わっていた。
1903年党大会の時、トロッキーはまだ24歳だった。(19歳で逮捕され、21歳でシベリアに送られ、23歳で逃亡した)
by yumimi61 | 2016-08-13 11:07