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日本国憲法の秘密-323-

「革命的祖国敗北主義」はボリシェヴィキのレーニンが、メンシェヴィキの「革命的祖国防衛主義」に対して主張した理論だという説があるが、これは正しくないと思う。
「革命的祖国敗北主義」を実践して、第一次世界大戦末期に君主制を崩壊させたのは、ボリシェヴィキではなく、メンシェヴィキとロシアの国会議員である。
その時レーニンはロシアではなくスイスにいた。
帝政崩壊の革命を受けて帰国することにしたのだが、何と言っても第一次世界大戦中である。
戦争当事国にとって革命家は戦争とは別に厄介な存在となる。従って革命家の身の安全も保障されにくい。だからレーニンはスイスにいたのだし、下手に動くことも出来ない。
レーニンや他のボリシェビキメンバーらは列車から離れずドイツ市民とは一切接触しないことを条件に、敵国ドイツを通過する列車で帰国した。
敵国ながらドイツ政府がそれを許可したのは、革命家がロシアに入る方が、ドイツが戦争で有利に立つことが出来ると考えたからだった。
社会主義を目指していたレーニンが君主制崩壊や革命を歓迎しなかったわけではないだろうけれど、レーニンらが外から仕掛けた革命ならば別に帰国する必要もなく継続すればよかったのだ。
そうではなかったということは、「革命的祖国敗北主義」はレーニン発ではない。


「革命的祖国敗北主義」から祖国を抜いた、「革命的敗北主義」は日本発の思想。
日本の新左翼の政治思想の一つ。言葉は似ているが、革命的祖国敗北主義とは別の概念である。
「革命はいつか必ず成就する」というのが、新左翼の信念である。しかし、革命に至るには多くの闘争を経なければならない。そのため個々の闘争は妥協を許さず、かつての日本軍の玉砕のように自己を犠牲にしてでも「革命的敗北」を貫徹しなければならないとする。これらの積み重ねによって、はじめて革命が成就するという考え方である。
ブント系党派で多く唱えられたことから、別名「ブント主義」ともいう。「捨石運動論」という別名もある。


全戦全勝でなくて良いという事。最後に勝てば良いという考え。
「自己を犠牲にしてでも」とあるが、この場合の自己とは国や党の権威権力者(指導者・トップ)ではない。
権威権力者から見ると、自分が統括する組織やそのメンバーのこと。
身内を犠牲にすることは勝利・革命のためには仕方がないという思想。
「戦士よ、卑屈にならないでくれ、それは革命的敗北なのだ。戦士よ、悪く思わないでくれ、それは名誉ある戦死なのだ。我々は最後には必ずや革命に勝利する!」といった感じ。
「己に負けるな、自分の保身なんてものは考えるな、妥協は許さない、徹底的に、身を粉にして、革命に身を投ぜよ」といった感じ。
自爆テロなんかまさにこれですね。特攻隊も。
いや・・だから・・・あの・・その・・ごにょごにょ・・・。



第二次世界大戦前の1936年11月25日、日本とドイツの間で調印された「共産インターナショナルに対する協定及附属議定書」(日独防共協定)は、国際共産主義運動を指導する共産主義インターナショナル(コミンテルン)に対抗する共同防衛を謳っていた。これが枢軸国の大元である。
この時代の共産主義インターナショナルは第三インターナショナルであり、レーニンが設立しロシアが中心となっていた。
コミンテルンという呼び方はロシア語由来の略称。
第三というからには、第一も第二もある。要するに「共産主義インターナショナル」もロシアあるいはソ連が初めて創設したものではないのだ。

・第一インターナショナル 1864年創設 1872年自然消滅 1876年正式解散
・第二インターナショナル 1889年設立 1914年崩壊 1916年正式解散
・第三インターナショナル 1919年設立 1943年解散

第二インターナショナルの時の1912年11月、スイスのバーゼルで臨時大会が開催された。
前月に勃発したバルカン戦争(オスマン帝国とバルカン同盟:セルビア・モンテネグロ・ギリシャ・ブルガリア)を受けての臨時招集であったが、迫りくるヨーロッパ戦争を予感していた。
この大会でバーゼル宣言が採択されている。
第二インターナショナルの設立者はレーニンではないが、レーニンも出席していた。
バーゼルの決議案は1907年に出されたもので、それにレーニンが修正を加えていた。
そこに「社会主義者は戦争のもたらした経済的・政治的危機を国民を揺り起こすために利用し、それによって資本主義的階級支配の排除を促進するよう極力つとめることが、その義務である」という内容が含まれていた。
別に敗北に拘っているわけではないが、これが「革命的祖国敗北主義」と言えるかもしれない。
同時に「戦争勃発の防止に全力を尽くす」という内容も盛り込まれた。

1914年第一次世界大戦が勃発する。
戦争反対の立場を貫いた者もいたが、多くは戦争止む無しという肯定派になった。
これを「革命的祖国防衛主義」と呼んだ。メンシェヴィキもこちら側だった。
でも冷静に考えれば、戦争の敗北を利用して革命を起こすのだったら、戦争が始まってくれなければ困るわけで。
でもさすがに革命的戦争主義や革命的闘争主義とは言いにくいので、防衛という重宝な言葉に置き換えて「革命的祖国防衛主義」と言った、そういうことになるのではないだろうか。
しかし祖国防衛と言った時点で国際観はぐっと薄れてしまう。
事実みな内側に向いた。

第二インターナショナルでも信望を集め、第一次世界大戦直前のナショナリズムの高揚の中で帝国主義戦争に反対し和平を訴えたフランス社会党の社会主義者が1914年7月31日、熱狂的な愛国者によってカフェ・クロワッサンで暗殺された。
8月4日には第二インターナショナルの最大の党であったドイツ社会民主党がドイツ帝国議会において戦争を支持し政府に協力する「城内平和」路線へと舵をきった。
フランス、オーストリアの社会主義者もこれに続き、第二インターナショナルは崩壊した。

帝国主義戦争だという認識だったのに、その戦争に社会主義者が乗っかって、時の政府に協力的となり一致団結勝ちに行くとは何事か・・・レーニンはすぐには信じられなかった。
でも戦争を利用するならば戦争が勃発しなければ困るし、戦争が始まってから反戦を訴え、そのように行動したら自分の身が危ない。そうだとすれば同調して勝ちに行くふりをするしかない。
レーニンはこの時まだそのことに気付いていなかったのだろうか。
目指すものが同じでも方法論が違うということはあるが、レーニンは帝国主義戦争を簡単に容認する姿勢を受け入れがたかった。
人が本当のところ何を考えているかなんて分からないものだ。
1914年9月、排外主義の嵐のなかで孤立しつつも、これまでの主張を変えずにロシア社会民主労働党中央委員会宣言として発表した。

レーニンは党を結成した頃、思想の展開の仕方を権力の在り方と誤解された。
レーニンやレーニン・マルクス主義が独裁で排他的だと誤解される理由は、資本主義の独占を社会主義の第一歩と考えたところにある。
資本主義や社会主義・共産主義は経済の在り方、経済システムである。
民主主義や君主主義は政治の在り方、政治システムである。
まず政治と経済を一度切り離して考える必要がある。
民主主義と社会主義・共産主義がセットになるのが相応しいと考えていた。
しかしこれは一国だけの改革では困難である。だから国際、インターナショナルである必要があった。
レーニンは土地をベースにした民族を重要視しており、国境がなくて良いとは思っていないし、世界中の垣根を取っ払って仲良しごっこをしようと思っていたわけでもない。
インターナショナルでないと民主共産主義はシステムとして上手く機能しないのだ。

独裁も独占も1つだけれど、共産も階級や差別がなく1つなのだ。
このあたりが明確に区別できていないと、階級や差別のない平等な社会を目指す思想も独裁批判に晒されることになる。
そして往々にして独裁を批判する人達は階級撤廃や差別撤廃や平等を訴えているのである。
なんとも滑稽な状態が生み出されるが、如何ともしがたいのが現実といったところか。
by yumimi61 | 2016-08-15 08:38