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日本国憲法の秘密-331-

共産主義国家「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」の成立は1918年1月。
ロシア(ボリシェヴィキ政権)がドイツと講和して第一次世界大戦から離脱したのは1918年3月。


志願兵と捕虜からなりチェコスロバキア軍の西部戦線への移動が計画される。
レーニンにはチェコスロバキア独立のための行動と説明される。

1918年3月26日、ロシア政権は「チェコスロバキア国民会議」のロシア支部と条約を締結し、チェコスロバキア軍が武装解除して、民間人としてウラジオストクに移動することを許可した。

この移動の過程でチェコスロバキア軍がシベリア鉄道沿線で蜂起した。(何処で何をきっかけにどのように蜂起したのか分からないのが実情)
チェコスロバキア軍はかなりの土地を支配下に収めたが彼ら自体は国家に拘る集団ではない。指揮系統も明確でなく占領を目的とした蜂起とも言い難い。
要するに占領してそこを自分達の国家(領地)にしようという行動とは少し違う。
そのチェコスロバキア軍の蜂起に便乗したのが、メンシェヴィキと社会革命党やその他諸々の政治的勢力だった。
この人達には政権を奪う、国作りという目的がある。
その中の一勢力が、現在のカザフスタンとの国境近くの西シベリアのオムスクという都市(地図で黒丸)に臨時シベリア政府を設立した。
社会革命党の3名の党員と立憲民主党2名の党員が政権を担う政府であった。
立憲民主党は臨時政府の中心となっていた党、つまり君主制を倒した国会議員を擁していたロシアの政党である。(アメリカが得意な)リベラルな政党。
立憲と名が付いているように憲法制定を約束していたがなかなか実行されず、レーニンらボリシェヴィキが再三要求していた。(しかしボリシェヴィキが政権奪取後の憲法制定議会選挙ではボリシェヴィキは社会革命党に敗北したという経緯がある)
1918年7月、シベリア共和国の独立が宣言される。これはアジアに属するウラル山脈東側の国ということになる。
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しかしながら宣言から4ヶ月後の1918年11月にシベリア共和国はクーデターによって乗っ取られる。
首謀者はアレクサンドル・コルチャーク。
政権を担っていた5人は全て逮捕され、コルチャークは独裁制を企てた。
コルチャークはロシア帝国時代の軍人であったが、君主制を崩壊させたロシア革命時には臨時政府に服従していた。
しかし臨時政府に反対する軍部の反乱を押さえられなかった責任を取らされ司令官を解任され、臨時政府は事情聴取のため彼を召喚した。つまり臨時政府は臨時政府で、この人物にやや疑念を抱いていたということになろう。

(コルチャークは)ロシア軍の危機的状況に関して報告すると同時に「陸海軍の再編こそが国を救う唯一の方法」と説いた。臨時政府の閣僚や新聞は「将来の独裁者」としてコルチャークを危険視したが、陸海軍大臣アレクサンドル・ケレンスキーは、戦時体制の強化のためにアメリカ合衆国に向かうように命令した。

8月19日、コルチャークは訪露中のアメリカ海軍少将ジェームズ・H・グレーンと上院議員エリフ・ルートに招かれ、準公式の軍事オブザーバーとしてイギリス・アメリカに向け出国した。グレーンとルートには、コルチャークが実施したボスポラス海峡での作戦を聞き出しダーダネルス海峡侵攻作戦を計画することを意図していた。ハリファクスに到着したコルチャークは第一海軍卿ジョン・ジェリコーの歓待を受けるが、そこでアメリカがダーダネルス海峡侵攻作戦を放棄したことを知り、予定を変更しアメリカでは艦隊と軍港を視察するだけに留め、日本経由でロシアに帰国することになった。


ボスポラス海峡やダーダネルス海峡というのは、黒海と地中海を、アジアとヨーロッパを結ぶ要衝である。
現在のトルコ北部にあたるが、その昔小アジアと呼ばれていたアナトリア近辺で、幾つかの文明発祥の地であり、キリスト教にとっても重要な地、古くから争奪合戦が繰り広げられてきた場所である。
過去に私も何度かアナトリア(小アジア)について書いている。

2014年09月15日 甍(いらか)百十八 赤いクロスは血(小アジアのカッパピアカッパドキア(美しい馬の地)出身のキリスト教聖人由来)
2015年02月26日 昭和 参拾弐 わりと唐突だった十字軍(十字軍編成はアナトリアの領土奪回がきっかけとなった)
2015年02月27日 昭和 参拾参 オスマン帝国時代(オスマン帝国の始まりはアナトリア(小アジア)の片隅の小さな領地)
2015年03月17日 昭和 肆拾  「ヨハネの黙示録」はアジアの教会への忠告から始まる
2015年03月26日 昭和 肆拾伍 入れ替わり(オスマン帝国の出現はオスマンの衝撃と語られるほどだった)
2015年12月07日 日本国憲法の秘密-123 オスマン帝国崩壊とカリフの消滅(崩壊寸前まで死守したのはアナトリア、ロシアとトルコの関係)

シベリアと言うと極寒中の極寒である北東部を思い浮かべることが多いと思うが、シベリア共和国の中心は比較的住みやすくてロシア首都やヨーロッパに近い西シベリアにあった。
しかもその勢力やそれを支援していたアメリカ、いわゆるリベラル派は、シベリア西から東ではなくさらに西に、それもドイツやフランスやイギリスではなく、トルコとギリシャの境界付近、アジアとヨーロッパを繋ぐ要衝に目が向いていたのだ。


前述のとおり、コルチャークは訪露中だった上院議員エリフ・ルートと接触後にアメリカに発ったわけだが、エリフ・ルートはアメリカの陸軍長官や国務長官だった人物。法律家で万国(ハーグ)平和会議への参加を各国へ呼び掛けたりもした。
万国平和会議は以前常設仲裁裁判所と国際司法裁判所の違いについて書いた記事で触れたが、この会議は1899年にロシア皇帝・ニコライ2世(1891年皇太子時代に来日して日本に嫌悪感を感じたとされる人物)の提唱で26か国が集まり開催された。

万国平和会議後の1900年代初頭には新設された仲裁裁判が利用され、箱としての仲裁裁判所を中味を詰めて常設化しようとする試みが見られた。
これが国際連盟下で1921年に設立された「常設国際司法裁判所」に繋がった。
常設的な第三者(裁判官)が法的拘束力を持つ命令を下すという性質を備えた司法裁判所が誕生し、幾つもの紛争を解決し、その判決が国際法の整備にも寄与することになった。
第二次大戦後は、国際連合の下に「国際司法裁判所」が設立されて現在に至る。国際連合の主要機関の一つである。
国際司法裁判所も常設仲裁裁判所と同じくオランダ・ハーグ平和宮にある。


「常設国際司法裁判所」への移行を先導したのがエリフ・ルートである。その草案が認められて1912年にノーベル平和賞を受賞している。
エリフ・ルートは共和党員であるが、民主党のウィルソン大統領にも協力的で、ノーベル平和賞を受賞したことからも分かるように民主党寄りな人物。つまりリベラル派なのだ。

コルチャークは、横浜港に着いた時に十月革命の勃発を知り、2か月半日本に滞在した。この間日本軍部やイギリス政府と接触し、1918年にウラジオストクに到着すると、ボリシェヴィキ政権に対抗するためイギリス軍への入隊を求めた。イギリス軍は、当初コルチャークをイラクに派遣することを計画したが、最終的にボリシェヴィキ政権を打倒した後にロシアが連合国に復帰することを条件に要請を受け入れた。その後、イギリスの後援で、オムスクに樹立された反ボリシェヴィキ政権の臨時全ロシア政府に陸海軍大臣として迎え入れられた。

十月革命とはレーニンらボリシェヴィキが政権を奪取した革命。

1917年3月、君主制打倒の革命。ロシア臨時政府(立憲民主党中心)。
1917年11月、ソビエト(ボリシェヴィキ)が政権を奪取。
1918年1月、共産主義国家「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」の成立。
1918年3月、ロシア(ボリシェヴィキ政権)がドイツと講和して第一次世界大戦から離脱。
1918年7月、シベリア共和国が成立し独立宣言(社会革命党と立憲民主党の5名政権)

シベリア共和国(シベリア政府)は、同年9月にロシア臨時政府の後継政府となることを決定する。
シベリアだけに留まらず全ロシアの政府であることを主張し、臨時全ロシア政府を名乗る。
そこにコルチャークが陸海軍大臣として迎え入れられた。
何故イギリスが反ボリシェヴィキ政権の臨時全ロシア政府を後押ししたかと言うと、ロシアに戦争に戻ってきてほしかったから。
ロシアが戦争に戻らないとイギリスやフランスなど連合国はやはりピンチだったのである。
レーニンのボリシェヴィキでは戦争に戻ってくることを期待するのは難しい。

コルチャークがクーデターを起こしたのは、陸海軍大臣として迎え入れられた後の1918年11月のことであった。
臨時全ロシア政府を乗っ取り、自分に反対する者を一掃し、全権を掌握、軍事独裁体制を敷いた。
しかし全ロシアと言ってもボリシェヴィキ政権は存在しているわけであり、実際に支配下においたのはウラル山脈東側のシベリア地域(ロシアのアジア地域)のみ。
またそれにはチェコスロバキア軍の協力を得ている。
コルチャークは全権を掌握後、次のように演説し、ボリシェヴィキ政権打倒を宣言した。

“"臨時政府は本日終焉を迎えた。閣僚評議会は、その手に持つ全ての権力を私アレクサンドル・コルチャークに明け渡した。私は、国家の解体と内戦という困難な状況の中で、この責任を受け入れ、反動勢力や政党争いを終わらせらければならない。私の目的はボリシェヴィキを倒すための軍隊の組織、法と秩序の確立、そしてロシアの人々が自由を選択することが出来る政府の創設。私は、国民がボルシェヴィキを倒すために団結し、必要とあれば、あなた方が全てを犠牲にして戦うことを求める。”

下線部分は日本発の革命的敗北主義を彷彿させる。(もっともこれはキリスト教の終末論にも相通じるものがあるが)

前に独裁者の観点から独裁という体制はあり得ないと書いたが、一党独裁ならばあり得る。
この場合には大勢の協力者・同調者や支持者がいるのだから党首と言えど独裁者とは言えない(見かけ上独裁者に見えるだけ)。
真の独裁者になれるとしたら、強力な権力と実力や実績でもって軍隊を指揮できる者である。
権威権力者が一番恐れてきたのは敵味方問わず軍事力である。だから軍隊を掌握できたなら独裁体制が敷ける可能性がある。但しやはりこれも反乱の可能性はいつでも捨てきれない。
実現性が高いのは一党独裁のほうであろう。

コルチャークのクーデターと体制に反発したのは社会革命党であり、立憲民主党はそうでもなかった。
反ボリシェヴィキや反社会主義・反共産主義という点でも立憲民主党の臨時政府とコルチャークは一致する。
このことからコルチャークの軍事独裁体制の後ろにはやはりアメリカ(リベラル派)が付いていたのではないかと推測される。
武装を嫌いボリシェヴィキとは対立した社会革命党は元を正せば左翼で社会主義である。
その社会革命党もコルチャークを非難し武装するがチェコスロバキア軍などに鎮圧され、その後社会革命党はボリシェヴィキの味方に付くことになる。
コルチャーク軍事独裁体制の臨時全ロシア政府は1920年1月に赤軍に倒されるまで続いた。
第一次世界大戦が終結するまで好調で領域を拡大し、パリ講和会議(1919年1月)ではロシアの正当政府である旨、支持を取り付けたほどである。
しかしもはや第一次世界大戦はオーストリア・ハンガリー帝国やドイツ帝国の敗北で終結していた。
支持を取り付けたというもののコルチャークはすでにその存在意義を失っていたのだ。イギリスやフランスは離れて行った。
アメリカ(リベラル派)がバックに付いて軍事独裁体制を目指したが、そもそもそのアメリカでもシベリアに派遣されたアメリカ軍の指揮官(ウィリアム・グレイブス)がコルチャークを支持していなかった。
グレイブスは君主制や独裁制には反対であり、コルチャークには一切協力せず、シベリア鉄道の安全な運行だけに尽力を注いだ。
社会革命党を敵に回したコルチャークは社会革命党の支持基盤である農民からも支援は得られず。
戦争反対者からももちろん支援は得られず。
コルチャークは民族独立にも反対だったため独立を目指す民族集団や地域からも支援を受けられず。
こうして瞬く間に戦況は悪化し1920年の終焉を迎えることとなった。

軍隊を掌握する軍事独裁も他国の軍事力が関係してくると維持は難しくなる。他国の軍事力を支配する力までは持っていない。軍事独裁体制は支配の及ぶ国内でのみ有効なものなのだ(世界の軍事力を掌握できるというならば話は別だが)。
それは要するに、軍事独裁には、しようと思えば外側からのコントロールが可能ということである。
それが国際連盟や国際連合に繋がったのではないだろうか。
但しこれは軍事独裁にこそ威力を発揮するのであって、一党独裁や民主主義体制に対する実効力はそこまでではない。(経済的孤立がそれに代わるものだが、損得勘定重視や欲に目がくらむ人が結構いるので、効果のほどは疑疑問符付き)
戦争が起こらない時代にも効果は薄い。
by yumimi61 | 2016-08-24 11:53