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日本国憲法の秘密-335-

政権を握ったレーニンらボリシェヴィキは、政権をとってロシアを支配したい者すべてを敵に回したことになる。
皇帝派然り、臨時政府派然り、シベリア共和国(臨時全ロシア政府)然り、コルチャークの軍事独裁政権然り。
各地で起こった内戦は最終的に赤軍(ボリシェヴィキ政権派)vs白軍(ボリシェヴィキ以外の勢力)として収束いくわけであり、武装しなかった勢力はないということである。
その中でも反ボリシェヴィキとして単独的に個人を狙うテロリズムを行ったのは社会革命党戦闘団と左翼社会革命党。
それにプラスしてイギリスの名が挙がってくる。
ドイツに勝たせたくないがために反ボリシェヴィキの立場をとったイギリスは、エージェント(諜報員)をロシアに送り込んでいた。

ブルース・ロックハート。
イギリス・スコットランドのエディンバラの北東、北海に面する東海岸の小さな漁港町アンストラザーに生まれた。
(ちなみにウィリアム王子とキャサリン妃が出会った大学は、アンストラザーよりもう少し北側のセント・アンドリュースという町にあるセント・アンドリュース大学)
家族はみな教育者。
彼は1908年21歳の時にゴム農場を営む伯父とともにイギリス領マラヤに行く。
イギリス領マラヤとはマレー半島の南部、現在のマレーシアとシンガポールの部分。
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種子島に初めて伝わった鉄砲はマラッカ銃だったという。またイエズス会のフランシスコ・ザビエルも日本に来る前にはマラッカにいた。
マラヤは世界最大のゴム生産地であり、イギリスの収益にも大きく貢献していた。
イギリス領とはいえブルース・ロックハートが行った所は白人が非常に珍しい存在だった上に、地元の王子との恋愛事件もあって大変センセーショナルだったらしい。
しかしマラヤとマラリアを誰かが言い間違えたか聞き間違えたかして、後ろ指を指されるようになり、3年後(日本とアメリカを経由して)帰国する運びとなった。

母国に帰った後にはイギリスの外交官となって、領事としてモスクワ領事館に赴く。
同時に彼は実業団チーム(紡績工場)のサッカー選手としても招待されプレーしていた。
モスクワでは超有名なサッカー選手が来るらしいと話題になったが、有名な選手というのは彼の弟(ラグビー選手)で人違いだった。
その後第一次世界大戦が勃発するが引き続きロシアに駐在し総領事となっていた。
ロシアの君主制崩壊も見届けて(?)1917年秋にイギリスに帰国。
ボリシェヴィキが政権を取ったのはその後のことだった。
ロックハートは1918年1月にエージェントとしてロシアに戻された。

このロックハートらがイギリスの諜報員がレーニン暗殺を企てたとして、ロックハートも逮捕され死刑が言い渡されるが、ロシアの諜報員との交換によって解放された。
そんな彼が1932年にイギリスエージェントとしての経験などをまとめた"Memoirs of a British Agent" というタイトルの本を発行する。これが世界的にヒットし、アメリカのワーナー・ブラザーズが映画化した。
これ以降何冊か自伝のような同様の本を出版している。

オリンピックが終わったら世界が終わるわけではないように、ロシア革命や第一次世界大戦が終わったからといって世界が終ったわけでもないし、永久に続く平和が訪れたわけでもない。
エージェント(諜報員)という微妙な立場の職務を公にして自らを売るなんてことは、エージェント(諜報員)としての資質がなかったということに他ならない。
そんなことをされたらイギリスは今後非常にやりにくくなるはずだと思うのだが。

第二次世界大戦中の1941年8月、イギリスにPolitical Warfare Executive(PWE)という情報・特殊作戦を行う秘密組織が設けられた。
簡単に言えばプロパガンダ担当部署。ロックハートが会長(局長)だった。
情報省の職員の他、イギリスの公共放送BBCの職員がメンバーとなった。本部はBBCのロンドンオフィスにあった。
プロパガンダに積極的だったのは何もナチス・ドイツだけではない。
ロックハートは第二次世界大戦後も、本の執筆や編集や放送といった情報分野で積極的に活動した。
(NHKもプロパガンダ特殊作戦執行部なんですか?)


(それでですね、実はこのロックハート、チェコに関係深いんですよ、オバマ大統領)(うむ、知っている?)

先日書いたチェコの独立運動。第一次世界大戦前から始められていて、中心人物はトマーシュ・マサリク。
オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったチェコスロバキアには反オーストリア感情を持つ人が少なくなかった。
ウクライナと同様、機会があれば独立したいと考えていた。

哲学者でオーストリア議会の議員でもあったチェコ出身のトマーシュ・マサリクが中心となって1907年から1914年までオーストリア・ハンガリー帝国からの独立運動を行っていた。
戦争が始まると革命家の立場は非常に危うくなるので、第一次世界大戦勃発後にはやはり亡命している。
亡命先はスイス・イタリア・イギリスなどで、亡命先でチェコの独立を訴えた。
大戦中の1917年の2月〜3月にかけてロシアで革命が起こる。(とはいってもデモがきっかけで無血で国会議員によって皇帝が排除されたという革命)
この革命に刺激を受けて、スラブ民族もオーストリアに対して抵抗運動を組織することを決め、ロシアの支援を取り付けた。(第一次世界大戦でオーストリアとロシアは敵国。チェコスロバキアはオーストリア領)
最初の革命時にはレーニンらポリシェヴィキはロシア国内におらず関与していない。
マサリクが革命ロシアから支援を取り付けたとするならば、それは臨時政府(国会議員)かメンシェヴィキであり、ポリシェヴィキではないはずだ。


第一次世界大戦中は亡命しながら敵国の連合国を行脚し支援を訴えた。
彼は自分と同じように連合国へ亡命した政治家や連合国に住んでいる移民などを集めて組織化し、「チェコスロバキア国民会議」を発足させた。
そして敵国である連合国を巡ってチェコ独立への支援を訴えた。
ところがイギリスとフランスは「帝国の解体を目的に戦争を行っているわけではない」とこれに冷ややかだった。
一番手ごたえがあったのは結局ロシアなのだ。
この場合のロシアとはロシア帝国を崩壊させた「臨時政府」である。
臨時政府の首相がアメリカ国旗付の車に乗っていたことからも分かるように、ロシア臨時政府はアメリカの支援を受けていたと思われる。
そうとなればアメリカは反ボリシェヴィキ・反レーニン・反トロッキーだったということになる。
(だけどロシアが広いようにアメリカも広い。植民地時代からの独立戦争だけを見てもアメリカという国は一様ではない。さらに多くの移民が流入して商売したりしているのだから非常に複雑な国である)

チェコ出身の哲学者で政治家のトマーシュ・マサリクが独立を目指して発足させた「チェコスロヴァキア国民会議」と、それより先に自然発生的に生まれてロシアで組織化された「チェコスロバキア軍(汎スラブ派)」は同じようでいて同じではない。
前者はどちらかというと「国」に重点が置かれていて、後者は「民族」に重点が置かれている。
「チェコスロバキア軍(汎スラブ派)」を指揮していたのは「チェコスロヴァキア国民会議」だったと説明されることも多いが、それはたぶん違うと思う。



第一次世界大戦中、トマーシュ・マサリクの右腕として独立運動を指揮した人物がエドヴァルド・ベネシュ。
チェコ生まれで大学講師を務めていた。
マサリクとベネシュが行っていたチェコスロバキア独立運動の転機はイギリスが極東戦を決意し、軍事独裁政権であるコルチャークの臨時全ロシア政府とアメリカと日本に依頼することにしたこと。
連合国側はシベリアでの戦いにはチェコスロバキア軍が非常に重要な戦力となるとも見做していた。
またチェコスロバキア軍の活動はチェコスロバキアを支配下におくオーストリア・ハンガリー帝国への圧力ともなる。オーストリア・ハンガリー帝国が連合国に屈せばドイツにとっては大きな痛手となるはずだ。
チェコスロバキア軍を指揮していたのは「チェコスロバキア国民会議」でなかったと考えられるが、連合国はこのような思惑から「チェコスロバキア国民会議」をチェコスロバキア国の(将来の)政府として次々に承認した。
協力依頼に連合国を廻った時には良い返事をもらえなかった国もあったけれど、ここにきて光が見えてきたということになる。
「チェコスロヴァキア国民会議」と「チェコスロバキア軍」は「国家」と「民族」と思想は違っても、そこは同じ民族。他の民族よりも話が通じやすいだろう。
またこのことはオーストリア・ハンガリー領のチェコスロバキア国内に留まっている反皇帝(反ハプスブルク家)派も刺激し、国内にも民族委員会(国民委員会)が誕生し亡命勢力と呼応し始めた。

そして1918年10月28日、オーストリア・ハンガリー政府が連合国の和平案に同意した。この日にチェコスロバキア国内の民族委員会(国民委員会)がプラハの政庁を占拠し権力を掌握した。
戦後の1920年に憲法に基づいて正式にチェコスロバキア共和国が誕生する。
初代大統領(1918-1935年)はトマーシュ・マサリク。
第二次世界大戦をはさむ2代目大統領(1935-38、1945-48)がエドヴァルド・ベネシュだった。
1918~1935年まで外務大臣、1921~1922年は首相も兼務している。


第一次世界大戦で敗北したオーストリア・ハンガリーでは、チェコスロバキア共和国とハンガリー民主共和国が独立した。
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チェコスロバキア(地図5と6)は1つの国であるが、スロバキアとカルパティア・ルテニア(地図の6と4)は北部ハンガリーと呼ばれて歴史的にはハンガリーに属していた地域であった。
しかしチェコスロバキアの初代大統領のトマーシュ・マサリクはスロバキアを譲れない。
お隣ルーマニアも領土拡大を狙っていて、チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニアは国境で揉めたが、大戦に勝った連合国の仕切りでハンガリーが領土を減らす形となった。
オーストリア・ハンガリー帝国時代のハンガリーに比べると、面積で72%、人口で64%を失った。ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残されるという状態に陥った。
このことからハンガリーには不満が鬱積。次第に孤立化し、異様なナショナリズムが高揚していく。
1930年後半になると、ナチス・ドイツと協調するようになる。

オーストリアは言語的にもドイツ語に近く、この両国は統一を望んでいたが、どちらも自国が盟主国であるべきという立場なので実現を難しくさせていた。
オーストリアが多民族国家なのと、両国にはカトリックとプロテスタンという大きな違いもあった。
ドイツ(プロイセン)が絶好調で統一ドイツ(ドイツ帝国)となった時には、とりあえずオーストリアの統合は断念したという経緯がある。
ところが第一次世界大戦後に二重国家が解消され、民族的な国家も誕生したため、かえってドイツとオーストリアは統合しやすい状況が生まれていた。
そしてドイツ・ナチス政権は1938年3月にオーストリアを併合した。

第一次世界大戦後に独立したチェコスロバキアのチェコ周辺地域にはドイツ人が沢山住んでいたため、この地域をズデーテン地方として自治を求める政治運動が活発になる。
チェコスロバキア政府がドイツ人の勢力拡張を恐れてドイツ人には不公平となる制度を取り入れるなどしたためズデーテン地域のドイツ人の反発が強まった。
このように懸案事項を抱えていたチェコスロバキアもナチス・ドイツは併合しようと試みた。
チェコスロバキアにドイツが侵攻するという観測が強まり、再度の世界大戦が危惧された。
イギリス首相が調停に乗り出したが、ドイツ側はイギリスの首相は戦争回避のためにドイツの要求をほとんど呑んでくれる見透かしており強気。
結局チェコスロバキア側が折れるしかなくスデーデン地域を割譲。さらに会談や裁定によってハンガリーやポーランドにも領土を奪われる。
これらを受けて、1938年10月、チェコスロバキア2代目大統領のエドヴァルド・ベネシュが辞任してイギリス・ロンドンに亡命。ベネシュはドイツに強硬的な態度で臨むイギリスに期待したが、イギリス政府はドイツを刺激しないようにベネシュに活動の自粛を求めた。
その後もナチス・ドイツはチェコスロバキアの独立運動を煽りスロバキアを独立させ、残るチェコにも進駐し1939年9月にドイツの統治下となった。ここにチェコスロバキアという国家は崩壊した。

エドヴァルド・ベネシュは第二次世界大戦勃発後の1940年にチェコスロバキアの再建を目指して亡命政府の大統領となった。
イギリスとフランスに裏切られた感を持っていたエドヴァルド・ベネシュは再びソ連に近づいていく。この時代のソ連最高指導者はスターリン。
エドヴァルド・ベネシュは外相時代の1935年にもチェコスロバキア・ソ連相互援助条約を締結していたが、1943年に亡命政府でありながらソ連と相互友好援助条約を締結した。

エドヴァルド・ベネシュとイギリス政府の連絡係がブルース・ロックハートだった。
ロックハートは第二次世界大戦後も本の執筆や編集や放送といった情報分野で積極的に活動したと上に書いたが、チェコスロバキア向けのBBCラジオ放送番組を10年以上も担当していた。
チェコ・プラハに外交官として駐在したこともある。
by yumimi61 | 2016-08-27 14:10