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日本国憲法の秘密-367-

★フェルミ(イタリア)&シラード(ハンガリー)ルート
1939年8月、シラードがアインシュタインに頼み込んで、アメリカ・ルーズベルト大統領宛てに「核開発」を促す書簡を書いてもらい送付。
1939年10月21日、アメリカ政府代表者とシラードが初会合。
 ⇒しかしルーズベルト大統領の関心は薄く、研究費要求にも応えてもらえず中断。


★マイトナー(オーストリア)&ボーア(デンマーク)ルート
1940年4月、ティザードは科学者によるMAUD委員会を組織し、ウラン原爆の実現可能性を検討させ報告を提出させることとした。

※アインシュタインとボーアは、相対性理論と量子力学で対立関係にあった。


忘れてもらっては困るが、ヨーロッパでは1939年9月より戦争が始まっていた。
現在進行形で戦争は行われているのである。

1940年7月~1941年5月、バトル・オブ・ブリテン(Battle of Britain)。
ドイツによるイギリス本土上陸作戦の前哨戦として、イギリスの制空権の獲得を狙ってイギリス上空とドーバー海峡で行われた航空戦。

緒戦でドイツ空軍はドーバー海峡付近の輸送船や沿岸の港湾を攻撃した。ロッテ戦術を使った戦法と軍用機の保有数において、ドイツ空軍が優位に立った。

ロッテ戦とは2機1組の編隊による戦い。
攻撃と防衛という双方の観点から考えれば、一騎打ちというスタイルは難しい。合理的ではない。特に空中戦においては。
そのため編隊で攻守を上手く切り替えながら戦うことになるが、2機1組というのは最小の編隊である。
真っ先にドイツが導入したもので、それまでは3機1組が主流であった。
編隊も数が多ければ多いほど良いと思うかもしれないが、航空機を飛ばすということは思うほど簡単なことではない。
戦闘可能なパイロットや燃料の確保、戦闘機の維持管理、製造など幾つものハードルがある。
3機ではバランスが悪くタイミングを合わせにくいという欠点もあった。
中途半端に多い数では逆に機体の喪失が大きくなってしまう可能性がある。

ドイツ空軍は7月中旬から内陸部の飛行場を狙った空襲を繰り返してイギリス空軍に打撃を与えた。
数において劣るイギリスは、軍民一体となって空軍を支援した。レーダーにおいて当時世界で群を抜いていたイギリスは近代的なレーダー網を活用した要撃体制を構築し、イギリス連邦諸国から人的支援、中立国アメリカ合衆国からは経済支援を得ることができた。


イギリスはこの時ピンチだったのである。
第一次世界大戦でもドイツ相手に窮地に陥ったが、その時にドイツを追い詰めたのはアメリカ軍であった。

1940年8月29日、イギリスのチャーチル首相の意向を受け、ティザードを団長にした極秘使節団(7名)がアメリカに向かった。
第一次世界大戦でもアメリカは終盤まで戦争には積極的ではなかった。
そんなこともあってイギリスは、だいぶきな臭くなってきた1939年5月~6月に、イギリス国王夫妻(ジョージ6世とエリザベス)がアメリカを公式訪問しイギリスへの支援を要請している。
それでも以然アメリカには孤立主義が根強くあった。とくに議会が手強かった。
1940年の段階ではまだアメリカは中立的だったのだ。

ティザードの使節は原爆の情報共有のために送られたと受け取れる記述もあるが、原爆は主目的ではない。

前にも引用したが、下記青字は原爆関連Wikiに書かれていたものである。
技術者の集団(ティザードの使節)は1940年9月に北アメリカに送られ、その代わりに、レーダー、ジェットエンジン、核研究などの全領域の技術を手に入れた。
この文章も誤解しやすいが、手に入れたのはイギリスではなく、アメリカである。

イギリスが開発した高度で最先端なレーダー(水冷空洞型マグネトロン)(空洞型マグネトロンはドイツが開発している)、ジェットエンジン、光学照準器、プラスチック爆薬などの技術をアメリカに提供したのだ。
その中で原爆の可能性についても情報提供をし、フェルミ(イタリア)&シラード(ハンガリー)ルートのフェルミなどに面会し、コロンビア大学の研究室などを見学させてもらった。

ティザードの使節は帰還した際に、彼らは、遅い中性子の研究がケンブリッジのパリのグループや、コロンビア大学のエンリコ・フェルミや、カナダのジョージ・ローレンスにより継続されていたことを報告した。彼らは戦争遂行とは関係ないと結論付けていた。

ティザード使節団はアメリカで行われている研究は戦争に使えるようなものにはならないと判断した。
手っ取り早い理由としては、ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功したはずだが、そもそもウラン235の分離が実現されておらず、分離の目途も全く立ってない状況であったからだ。

ティザード使節団が目を付けていたのはアメリカの工業生産力だった。
イギリスは技術開発力は持っていても量産体制が敷けなかったので、アメリカに量産してもらおうと考えていた。
イギリスが提供した技術は非常に優れたものであり、アメリカの戦闘能力を格段にアップさせるとともに、それを輸出してもらう狙いがあった。
イギリスはマグネトロン技術を輸出しアメリカで作られたレーダーを輸入する。
ロールス・ロイスのジェットエンジンは使節団がライセンス生産契約を取り付けた。使節団がアメリカでいの一番でやったことは、ジェットエンジンのライセンス生産契約だったのだ。


イギリスの海軍は世界最強と言われたこともあるようにイギリスは海での戦いを得意としていた。
ところが第二次世界大戦では空の戦いが非常に重要となってくる。
空からの爆撃によって、後方の司令部や基地、飛行場や港、生産拠点、発電所などを破壊し、前戦での戦いを有利にする。

イギリスに海から上陸することはなかなか難しいので、ドイツはまずイギリスの航空戦力を壊滅させることから始めた。
ターゲットは飛行場とすでにある軍用機、レーダー基地など。
これが達成されればイギリス上空まで自由に飛べるようになるため、空からの侵攻が可能となり、艦艇や陸上部隊は空から援護を受けられるようになる。
また軍艦は基本的に空からの爆撃に対抗できないため、制空権が奪われるとそのままそのエリアの制海権も失いかねない。
しかし空より海より大事なものは陸である。空や海での戦いは侵攻(上陸)を行う上での前哨戦、戦いを有利に進めるための戦術の1つに過ぎなかった。
戦術の1つだから無差別に都市を攻撃するなんてこともしなかった。

航空戦力をつぶす方法としては、陸上にある飛行場や軍用機を爆撃機で狙うこと(空襲)の他に、空で戦闘機同士が戦うというスタイルがある。

バトル・オブ・ブリテンの戦力
        (ドイツ)(イギリス)
単座戦闘機 1107  754
複座戦闘機  357  149  
爆撃機    1380  560
急降下爆撃機 428
偵察機 569
沿岸哨戒機 233   500

イギリス上陸作戦の前哨戦ということで、ドイツの爆撃機のほうが多くなるのは当然のこと。
戦闘能力においてはドイツの戦闘機のほうがイギリス戦闘機よりも優れていた。
ただドイツの戦闘機は航続力に欠けていた。必要以上に長い距離を飛ぶことは出来なかった。
爆撃機は戦闘機に護衛されて空爆をしていたが、イギリスはレーダーで飛来する飛行機を発見すると、高い高度で待機していた戦闘機に急降下攻撃させ、すぐさま逃げるという戦法を採っていた。距離稼ぎである。
ドイツの戦闘機は航続距離が短かったため(すでにイギリス上空まで飛んできているわけだし)、逃げる戦闘機を追いきれなかった。
そうこうしているうちに戦闘能力の劣る爆撃機は攻撃されてしまう。

そのうちドイツ軍の爆撃機はレーダーに検知されにくい低空を飛んでくるようになったが、イギリスはすでに低空飛行でも検出可能なレーダーを導入していた。
こうなるともうレーダーにも目視でも発見されにくい夜間や悪天候の日を狙って爆撃するしかなくなる。
だから空襲は夜間に行われた。
夜の闇は自分を見えにくくするという長所があるが、相手が見えにくくなるという欠点がある。
ヒトラーはロンドンなど都市部への空襲は行わないようにと命令を出していたが、夜間の攻撃のため、ある日ロンドンを誤爆してしまう。
「何をやってるんだ!」ヒトラーはこれに怒ったが、ロンドンを攻撃されたイギリスも怒っていた。
報復として翌日ベルリンを攻撃する。これにヒトラーが怒りまくって、軍事拠点などへの攻撃から都市部への攻撃へと作戦変更した。
しかしドイツの爆撃機は戦略爆撃機ではなかった。

戦略爆撃機にはその攻撃目標の性質上次のような性能が求められる。
1.敵地奥深くに侵入するための航続力
2.爆弾を多量に搭載する能力
3.護衛戦闘機がつかない場合の防御火器、高々度飛行能力、高速飛行能力
これらの性能を満たすために、大型の発動機を四つまたはそれ以上有している。


結局、戦闘機による空戦勝負になり、どちらの国も空戦には苦戦していた。

8月23日から9月6日にかけての空戦でイギリス空軍は戦闘機を295機を失い、損傷で171機が使用できなくなったのに対し、新規生産や修理で補充された戦闘機は269機であった。損失と補充の逆転は、イギリス空軍に衝撃的であったが、それよりも頭を痛めていたのは搭乗員の消耗であった。

9月15日に午前と午後の2回にわたってドイツ空軍が行った大規模なロンドン空襲でも大きな損害を出した。パーク少将は22個飛行隊を全機出撃させ、ロンドン上空で迎撃した。この日のドイツ空軍の損害は、アドラーアングリフ作戦と比べると撃墜された機数こそ少なかったが損傷を負った機体と搭乗員の死傷が多かった。

9月15日は最大の空戦となった。これによってドイツはイギリス上陸作戦の延期を決定する。
1941年春に再び開始される予定だったが実施されることはなかった。





by yumimi61 | 2016-10-02 11:52